ミミエスの孤児院
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ノラ達を保護してくれたのは、ミミエスに入った初日、2人をしつこく追いかけ回した、あの憲兵だった。名前はチェスター・モグリッジ。ノラは収容された孤児院の一室で、目を覚まさないサリエリの分までたっぷりしぼられた。
ノラはチェスターから、事件の結末を聞いた。
殺人鬼シュテファン・ババコワを匿っていたジョルジーナ・クレメルは、関係者の証言により逮捕され、財産を没収した上で刑務所に送られることとなった。悪事に加担したと思われる従業員―――給仕係のホセバ・ドミンゲス、ドアマンのブラウン・クルサード、馬車係のガスパール・エモン―――も捕まり、ホテル・クリンゲルは廃業に追い込まれた。2人を助けようとしてシュテファンに切り付けられたクライド・リンフットは、辛くも一命を取り留め、今は憲兵の見張り付きで病院に収容されているそうだ。怪我が良くなったら、他の従業員たちと一緒に、裁判にかけられるのだという。
「それと、君たちを助けたという女なんだがな……」
言い掛けて、チェスターはいったん口を噤んだ。
「……シュテファンの額に残った傷口を見る限り、ロザリンダ・スカリと見て間違いない」
ノラは頭の中に、自分を救ってくれた女性の姿を思い浮かべた。男のような姿に、雲を晴らす魔法の筒。頭巾の下から覗く、不敵なほほ笑み……
「帝国内のいたるところに現われ、悪魔の道具を使って盗みを働く、凶悪な指名手配犯だ。あの悪党が子供を助けるなんて、にわかには信じられん話だ」
「はあ……そうですか」
「気まぐれに違いないから、騙されてはいかんぞ」
チェスターは口を尖らせて忠告したが、ノラは心の中でそっと感謝した。シュテファンの命を奪ったあの筒は恐ろしいが、彼女がいなければ、サリエリも自分も今頃はどうなっていたかわからない。いくらお礼を言っても足りないくらいだ。
「なにはともあれ、君達が無事で本当に良かった。実は三日前ロバートとかいう少年から、友人が行方不明になったから捜して欲しいと相談を受けてな」
「ロバートから……?」
ノラとサリエリがシュテファンの元へ連れて行かれたあの夜、夜の闇に紛れて移動する3人の姿を目撃したロバートは、彼の賢明な母親と共に憲兵詰所に駆け込んだ。
「ジョルジーナ・クレメルは以前から我々が目を付けていた人物だったので、なにかあるだろうとは思ったが、まさか子供に悪事の手伝いをさせていたとは……」
彼の本名は、ロバート・デヴェヌート。ホテルでノラの世話係だったミレーナ・デヴェヌートの息子だそうだ。それを聞いたノラは驚き、納得した。ホテルの周りをうろついていたのは、少しでも母親の顔を見たいがためだったのだ。
「そっちの坊やにも聞きたいことが幾つかあるから、起きたら呼びなさい。今度は逃げようなんて思うんじゃないぞ」
あらかた話が終わると、チェスターはしっかりと釘をさして、部屋を出て行った。
静かになった部屋で、ノラはサリエリの寝顔を見つめた。
「…………」
大きな怪我こそないものの、長いこと雨に打たれたサリエリの体は芯まで冷えきっていて、唇から漏れる寝息は弱々しかった。死んだように眠るサリエリを見ていると、ノラの頭には恐ろしい想像が浮かんでは消えた。
瞼の裏には、シュテファンがサリエリに向かって斧を振り下ろす映像がこびりついていた。もしもあの時、助けが来るのが一瞬でも遅れていたら。そう考えると、ノラの身体はがたがたと震え出した。
幸い、もう二度と目覚めないのではないか、などという妄想が現実になることはなかった。サリエリはチェスターが部屋を出て行った5分後に、ゆっくりと目を開いた。
「……なぜあんな無茶をしたのよ!」
ノラはサリエリが身を起こすなり、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「あと少しで死ぬところだったのよ!わかってるの!?」
猛烈に怒るノラを見ると、サリエリは眉尻を下げて苦笑した。どこか諦めの滲む、老成したほほ笑みは、ノラをいっそうかっかさせた。
(どうして……!?)
サリエリにはノラが怒っている理由がわからないようだった。近くにいるのに、彼はいつも遠いところにいて、ノラの気持ちが本当の意味でその心に届くことはないのだった。そうとわかると、ノラはいよいよ爆発した。
「護ってもらいたくなんかない!こんなのぜんぜん、嬉しくない!」
ノラは感情の赴くままに捲くし立てた。喚いているうちに感極まったノラの目からは、大粒の涙が溢れ出した。
ノラの頬を透明な雫が伝うと、サリエリは目をみはった。
「あんたなんか大嫌いよ!もう口利いてあげない!顔も見ない!」
ノラはサリエリにのしかかり、冷え切った裸の胸を、どんっ!と強く叩いた。ノラの涙は顎の先から、サリエリの頬に落ちた。熱湯のように熱かった。
驚きと戸惑いを含んだサリエリの黒い瞳が、ノラの泣き顔を映して、ゆらゆらと揺らめいた。
「怖かったって、もう二度としないって、言いなさい!」
「…………」
「言いなさいよ!」
ノラの要求に答えるかのように、サリエリの瞼からは不意に、一筋の涙が零れた。涙は堰を切ったように溢れ出し、ぽろぽろ、ぽろぽろと、清潔なシーツに染みを作った。止まることを知らない涙に、ノラはもちろん、サリエリ自身も酷く驚いた。
「お馬鹿さんね……」
愛しさが溢れて、堪らなくなったノラは、サリエリの額にそっとキスをした。
2人は涙が枯れるまで泣き続け、泣き止むと、涙でぐちゃぐちゃになったお互いの顔を見て笑った。
その後、頃合いを見てチェスターを呼びに行った。チェスターがサリエリと2人きりで話したがったので、ノラは1人、隣の部屋に移動した。
ノラは日の光が差し込む窓辺に座ると、青空を見上げた。湿気を含んだ風を胸一杯に吸い込むと、なんとも言えない、爽やかな気持ちになった。 ノラはサリエリの無事を心から感謝した。道行く人にキスしたい気持ちだった。
(……知らなかった……)
誰かの涙で、こんなにも優しい気持ちになれるのだということ。サリエリの力強い腕を思い出せば、じーんと痺れるような、甘く切ない気持が胸を締め付ける。唇からは悩ましいため息が漏れた。
事情聴取を終えるとチェスターは帰って行き、ノラとサリエリはそのまま孤児院に預けられることになった。
夕方、応接室で紹介されたのは、タリスン院長先生を彷彿とさせる女性だった。
「院長のエヴリーヌ・ベクレルです。どうぞよろしく」
ベクレル院長先生は、にこりともせずに自己紹介をした。
「あなた方は今日からこの孤児院の一員になるわけですが、生活を共にする上で、守っていただかなければならない規則が幾つかあります。
当たり前のことではありますが、ここでは朝起きる時間や食事をする時間、お祈りの時間などが、時間割によって決められています。特別な理由がない限り、遅れたり、怠けたりすることは許しません」
ベクレル院長先生は、きょとんとしているノラとサリエリに、厳しい口調で注意した。
「さて次に、これが一番肝心ですが……この孤児院では、男の子と女の子がお互いの部屋を行き来することは禁じられています」
ノラとサリエリが思わず顔を見合わせると、ベクレル院長先生はきっと眉を吊り上げた。
「これはあなた方が、この孤児院で健やかに過ごすための重要な規則です。あなた方には、この孤児院を出て行ける年齢になるまで、順守していただけるよう望みます。万が一規則破りを見つけたら、罰を与えますのでそのつもりで」
3つ目の規則は、廊下や部屋で大きな声を上げたり、騒いだりしないこと。4つ目の規則は、食事中に口を利かないことだった。その他にも細かい規則がたくさんあり、説明が終わる頃には、ノラはすっかり聞く気をなくして心の耳を塞いでいた。
「これからあなた方を部屋に案内します。黙って付いていらっしゃい」
ノラはベクレル院長先生に、サリエリはフィリポ・ベルタジアという男の職員に連れて行かれた。
子供たちの部屋は、食堂や礼拝堂がある本館とは別に寮があり、正面入り口から入って廊下を右に曲がると女子寮。左に曲がると男子寮だった。 ノラが案内された女子寮は2階建てで、狭い部屋には2段ベッドが二つあり、4人で使えるようになっていた。ノラは1階の、大きな少女達の部屋に混ぜてもらうことになった。
同室の少女達……アビゲイル・マコンキーとメーガン・オルムステッドは、新入りを歓迎しなかった。せっかく2人きりで部屋を広く使えていたのに、手狭になるのが気に入らないようだった。
「もうじき夕食です。それまでこの部屋で大人しくしているように」
ベクレル院長先生はノラを部屋に放り込むと、本館に戻ってしまった。
アビゲイルとメーガンはノラに構う気はないようで、秘密のお喋りをはじめてしまった。後で聞いたことだが、彼女達は良く院長先生の命令で子供達の面倒を任されるので、小さい子供が嫌いなのだそうだ。
仲良くするつもりのないノラは、勝手に空いているベッドを使わせてもらうことにして、夕食の時間になるまでごろごろしていた。
部屋が暗くなった頃、ノラは迎えにきた院長先生に連れられて食堂に向かった。食堂には50人を超える子供達がいて、ノラは仰天した。これだけいれば、新入りが1人2人増えたって気付かないに違いない。
ノラは食堂の隅に座るサリエリの姿を見つけると、いそいそと近寄って行って、隣の席を確保した。
「私の部屋は1階なの。あんたの部屋は?」
ノラがたずねると、サリエリは身振り手振りで、2階の角部屋だと教えてくれた。ノラはしめしめと笑った。
「お互いの部屋を行き来しちゃいけないなんて、そんな規則おかしいわよ」
ノラはパンとスープの粗末な食事を食べながら、不平を漏らした。
「ずっと2人で旅してきたんだもの。今さらよね?」
思えばオシュレントンを出てから、食べる時も寝る時も一緒だった。大人の都合で部屋だけ分けるなんて馬鹿げてる。
ノラが同意を求めると、サリエリは頬を赤らめて、もじもじした。
「今晩部屋に行くから、窓を開けておいて」
「!」
「なによ、怖いの?私は叱られたって平気よ。あんたは?」
ノラは目を丸くするサリエリに、挑戦的にたずねた。サリエリは返事の代わりに、顔を綻ばせた。
真夜中、ベッドを抜け出したノラは、足音を忍ばせて男子寮へ向かった。男子寮の正面玄関には鍵がかかっておらず、ノラはあっさりと目的の部屋に辿り着くことができた。
運良く、部屋にはサリエリ1人だった。彼のルームメイトは寮を抜け出して、夜の町へ出かけてしまったそうだ。
「なあんだ。緊張して損しちゃった」
ノラは室内を見回したり、窓から身を乗り出したりして、サリエリの部屋の位置や環境をチェックした。
「良いなあ。私の部屋より広い」
「?」
「女子寮は2段ベッドなのよ。天井に頭をぶつけちゃった」
2人は狭いベッドに潜り込むと、職員が見回りにきた時のために、頭からシーツを被った。ノラは小声で子守唄など歌いサリエリをくすぐったい気持にさせ、サリエリはそのあどけない寝顔で、ノラを優しい気持ちにさせた。