疑惑
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カルヴィンは怒りで顔を真っ赤にして、ノラを怒鳴り付けた。
「ごめんなさい!今拭きますから……!」
「汚い手で触るな!小便たれの餓鬼め!」
カルヴィンはは慌てて拭おうとしたノラの手を、ぱしんっ!と振り払った。
「この上着がいくらしたと思っているんだ!?マダムを呼べ!お前では話にならん!」
ノラは必死に謝罪したが、聞き入れてもらえなかった。
「ノラ!なにやってるんだ!こっちへこい!」
見かねた給仕係のホセバ・ドミンゲスが、ノラを奥の事務所まで引っ張っていった。ノラが入って行くのと入れ替わりにジョルジーナが出て行った。すると直ぐにドアの向こうからカルヴィンの怒鳴り声が響いてきて、ノラは恐れ戦いた。
しばらくして、ジョルジーナは部屋に戻ってきた。彼女はノラの顔を見て、深く重いため息をついた。
「……やっぱり、子供にお客様のお相手なんて無理だったのかね」
「ご、ごめんなさい。私、疲れてて……」
「言い訳をするんじゃないよ!」
ジョルジーナはノラの頬を、ぴしゃり!と打った。
「いい加減な気持ちで仕事をするから、こういうへまをするんだ!あんたはそこいらの子供と違って利口そうだし、真面目だと思ったから雇ったのに……期待し過ぎたみたいだ」
ジョルジーナは心底失望した!という風に、苛々した口調で言った。彼女の言葉はノラの胸をぐさりと刺し貫いた。
「もう部屋に戻んな。あんたの顔は見たくないよ」
「……お給金は……」
「そんなもの、あるわけないだろ!」
ノラはじんじんと痛み出した頬を押えて、部屋を出た。頬を打たれたことよりも、ジョルジーナの信頼を失ってしまったことが悲しかった。
その夜、ノラはサリエリに失敗を知られるのが怖くて、声を殺して泣いた。
次の日は、仕事に行きたくなくて仕方なかった。
ノラはお昼頃に目を覚ましたのだが、ジョルジーナに謝りに行く勇気が出ず、お店の開店時間まで、2階の部屋から1歩も出ずに過ごした。サリエリは塞ぎ込むノラを心配したが、無理に追及しようとはしなかった。
夜になり、お店がはじまる時間が近付くと、ノラは憂鬱な気持ちになった。
「はあ……」
下りて行ったら、みんなに白い目で見られるに違いない。どうしてあんな、つまらない失敗をしてしまったんだろう?
ノラがぐずぐずしていると、いつまでも下りてこないノラを心配して、指導係のミレーナが呼びにきた。
ミレーナに連れられて店に下りて行くと、先輩の女性達がいっせいに集まってきた。
「大丈夫だった?私達心配していたのよ」
「あのお客、良い気味だよ。酒がかかったくらいで取り乱して。私は元からあの客が気に入らなかったんだ。なり金のくせに、紳士ぶっちゃってさ」
「ああやって大仰に騒ぐやつほど、中身は小者なのよね。あんな汚い上着が高いもんか」
パルミラ・ジアネッラとスザンナ・ロ・ビアンコ、ヴェラ・アンゾレッティはノラを励まそうと、口々に言った。
「あれから、あのお客さんは……?」
「さんざん怒鳴り散らして帰って行ったわ」
アンヌ・オードランが答えて、ノラは項垂れた。
「本当にごめんなさい……私が悪いの。マダムにも迷惑をかけちゃった……」
ノラがしょんぼりして謝罪すると、女性従業員達は顔を見合わせた。
「怒鳴られたって?どうせ肉刺をつぶしたかなんかして、虫の居所が悪かったんだろ」
「そうそう。なにを言われたか知らないけど、騙されちゃだめだよ。あの人は内心で小躍りしてるよ」
ミレーナとパルミラがからからと笑って、ノラは目をぱちくりさせた。
「あのお客さん、最初は羽振りが良かったんだけどね。だんだん金離れが悪くなって、最近じゃあ安酒を付けで飲むもんだから、迷惑してたんだ。厄介なお客を追っ払えてラッキーだよ」
「はあ……そうなの?」
「そうなの。さあ、早くマダムに挨拶してきちゃいな」
先輩達に励まされたノラは、勇気を出して事務所に向かった。
「昨日は怒って悪かったね。でも、わかっておくれ。怒るのはあんたがかわいいからだよ。私はあんたに、仕事を怠けるようなずるい娘に育って欲しくはないんだ」
ジョルジーナは、昨夜とは打って変わって優しい声で言った。
「今日からは心を入れ替えて、しっかり働くんだよ。良いね?」
「は、はいっ……」
「わかったら、もう行ってよし。……ああ、コゼットに部屋に来るように言っておくれ」
ノラが部屋を出ると、捜すまでもなく、コゼットがドアの前に立っていた。コゼットはノラをぎろりと睨みつけると、入れ替わりに事務所に入って行った。
ジョルジーナとコゼットが部屋を出てきたのは、お店が開店する直前だった。
「マダム!お願いよ、考え直して!今ここをクビになったら、生きていけないよ!」
コゼットはジョルジーナの後を追い掛けて懇願した。ジョルジーナは取り合う気はないようで、すがり付くコゼットの手を振り払った。
「3日やるから、その間に次の仕事を探しな。早いとこ荷物まとめて出て行っとくれ」
ジョルジーナはにべもなく言い放って、外に出掛けてしまった。
「昨日のお客は、コゼットのたった1人のお客だったんだ」
ノラが恐々としながら2人の様子をうかがっていると、ミレーナが耳打ちした。
「別に、あんたのせいじゃないよ。彼女はこのところお客がつかなくてね。歳も歳だし、マダムは辞めさせる口実を探してたんだ」
その夜、コゼットは店からくすねた高い酒をしこたま飲んで、人が良いスザンナや、若年のポールにさんざん当たり散らした。
「私がいなくなったら後悔するよ!私はこの店に必要な人間だ!私のような人間が、本当にこの店を支えているんだ!マダムはわかっちゃいないんだ!」
「コゼット……私もそう思うよ。さあ、もう部屋に戻ろう。少し休まなくちゃ」
しまいには年甲斐もなく泣き喚き、見兼ねたアンヌと馬車係のクラレンスに連れて行かれた。両脇を2人に支えられて、よろよろと2階に引き上げて行くコゼットを見て、ノラは同情し、恐怖した。
翌日の午後。お昼頃に目を覚ましたノラが暇を持て余していると、ミレーナが部屋を訪ねてきた。
「ノラ、悪いんだけどあんた、私の代わりに洋服店までドレスを取りに行ってくれないかい?もう出来上がってるはずだから」
ノラは快く引き受け、ドレスの代金を受け取って店を出た。
複雑に入り組んだ路地をしばらく歩き、洋服店まであと少しというところだった。ノラは物陰から飛び出してきたロバートに捕まり、路地裏に連れ込まれた。
「大人しくしろ。痛い目を見たくなければな!」
ロバートはノラを乱暴に壁際に押し付けると、ポケットから取り出した刃物を、その胸元に突き付けた。ロバートは血走った眼をしていて、ノラは怯えた。
「や、止めてロバート。どうしてこんな酷いことするの……?」
「酷い!?酷いだって!?……酷いのは君の方だろ!見ろ!この痣を!」
ロバートは怒鳴りながら、顔の左半分を指した。ロバートの瞼は紫色に腫れ上がっていた。
「わ、痛そう……どうしたの?」
「とぼけるなよ!君がちくったんだろ!」
「ええ?」
「ホセバにやられたんだ!君にちょっかいをかけるなって!次に近くをうろついているのを見付けたら、殺すと脅された!」
ロバートは興奮して怒鳴り散らし、ノラは困惑した。
「あんまりじゃないか!店の男を使って追っ払うなんて!」
「待ってロバート。本当になにも知らないのよ」
ロバートは弁解するノラを、疑いの目で見た。
「お願い、信じて。私は誓って告げ口なんてしてないわ」
「…………」
「あなたのことが嫌いなら、自分で叩くわ。他人任せになんかしない」
ノラの説得が効いたのか、ロバートは刃物を地面に放り出した。ノラがほっと胸を撫で下ろした、その時だ。
「きゃっ……!」
ロバートはノラの両腕を掴むと、強引に顔を近付けてきた。ノラは鼻と鼻がぶつかる寸前で横を向き、彼の邪行を阻止した。
「純情ぶるなよ。あんな店で働いているくせに」
ロバートはむっと気色ばんで、ノラの腕を掴む手に力を込めた。
「金がなきゃ駄目だってんなら、払ってやるよ。キス1回分だ」
ロバートは上着のポケットから銅貨を取り出して、ノラの手に握らせた。ノラはぎょっとした。
「こ、こんなのいらない!」
返そうと思って突き出したその腕を、ロバートに再び掴まれた。銅貨は地面の上に転がり、反対側の壁に当たって止まった。
ロバートの顔がゆっくりと近付いてきて、ノラがギュッと目を瞑ったその時。
「そこでなにしてる!」
振り向けば路地の入口に、ホセバが立っていた。
「くそっ!」
ロバートは一つ悪態を吐くと、ノラの腕をあっさり解放して、ホセバがいる方とは逆方向に走り出した。
「このませ餓鬼!今度うちの商品に手を出してみろ!ただじゃおかないぞ!」
ホセバの怒声が細い路地裏に響いて、ノラはぎくりとした。
『こんな生きの良い商品が手に入るとは……』
鼓膜によみがえったのは、ノラとサリエリをこの地まで運んだ、人攫いの言葉だった。貧しい家から子供をさらい、人買いに売り渡す、卑劣な男達。
「…………」
ノラはびびび!と、雷に打たれたようなショックをうけた。放心しているノラの元へ、ホセバが駆け寄ってきた。ホセバは真っ先に地面に転がっていた銅貨を拾い上げ、ポケットにしまった。
「マダムに言われて追いかけてきたんだ。ミレーナのドレスは俺が受け取りに行くから、君は早く店に戻れ」
ノラはホセバにドレスの代金を預け、急ぎ足で店に引き返した。
ノラが店に戻ると、階段からコゼットが下りてくるところだった。
余所行きのドレスを着たコゼットは、階段を1番下まで下りると、両手に持った大きな鞄を置いて、きょろきょろと床を見回した。
「…………」
つられて床を見ると、ノラの直ぐ足もとに、耳飾りが落ちていた。ノラは耳飾りを拾い上げて、コゼットに手渡した。
「……拾ってくれたお礼に、ひとつ教えといてやろう」
コゼットはノラの辛気臭い顔を見て、くすりと笑った。
「あんたの連れの坊や……見たところ、かなりやばい仕事をさせられてるよ」