危機からの脱出
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ノラは子供達が乗せられている幌馬車に近付いて行き、2頭の馬を荷台から切り離した。
「しー……静かに……逃がしてあげるから……」
ノラは馬の手綱を引いて、音を立てないよう、ゆっくり、慎重に草むらを移動した。十分に離れたところで馬の頭から馬具を外してやり、その尻を叩いて野に放った。
ノラは迅速に元の場所まで引き返した。ジャコモ達は高級な酒をちびちびやりながら、大声で歌など歌っていて、ノラが暗躍していることに気付く様子はなかった。
「起きて!早く……!これが最後のチャンスよ!逃げたい人は付いてきて!」
ノラは荷台の上の子供達を叩き起して言った。ノラが再び脱走を企てようとしているとわかると、荷台の上ははざわめいた。ぴりりとした空気が、闇を通して伝わってきた。
「また逃げ出すつもりか!?……いい加減にしろ!さっき失敗したばかりだろ!」
フローレン・シャロピンは驚怖し、ノラをなじった。
「他のみんなのことも考えろよ!身勝手なことをするな!」
フローレンの尤もな言い分に、ノラは少し怯んだが、奥歯を噛み締めることで弱気を追い出した。
「それなら、みんなで一緒に逃げよう!ここにいたら殺される!」
ノラは闇の中の子供達に向かって、熱く訴えた。1人1人説得している時間はない。焦れたノラは、1番近くにいた子供の……フローレンの腕を掴んだ。
「……俺は行かない。俺は決意してここまで来たんだ」
フローレンは乱暴にノラの手を振り払った。
「ムタガンダに着いたら、一生懸命仕事をして、たくさん金を貯めて、いつか家族を呼び寄せるんだ。逃げ出すわけにはいかない」
フローレンは断固として言って、ノラをどきりとさせた。
「……行くならお前達だけで行け。みんなを巻きこむな」
フローレンの言葉で、子供達は腹を決めたようだった。ノラに付いて来ようという子は、1人もいなかった。
説得を諦めたノラが、サリエリの元に戻ろうとした、その時だ。
「誰かー!誰かきてー!また脱走しようとしてるー!」
女の子のドナ・エイトケンが、夜闇を切り裂くような大声で叫んだ。ドナはとても無口な少女だったので、ノラだけでなく、フローレンや他の子供達も驚いた。
ノラは一目散に駆け出して、サリエリが乗せられた、もう一方の幌馬車の御者台に飛び乗った。焚火の方から、血相を変えたジャコモとゲロルド、剣を手にしたインゴが駆けてくる。ノラは夢中で手綱をしならせた。
「いけ!いけー!」
2頭の馬が嘶き、幌馬車は間一髪、男達の手を逃れて走り出した。
「待て!戻れ!戻ってこい!」
「くそ!馬が放されてる!」
馬車が走り出してしまうと、男達になすすべはなかった。男達は滅多やたらに喚き散らしたが、風の音にかき消されて、直ぐに聞こえなくなった。
追手がかかることを恐れたノラは、一晩中広野を駆け続けた。いつの間にか夜が明けて、日が高くなっても、ノラはまだ駆けいた。太陽は容赦なく肌を焼き、体力を奪った。次第にぼうっとしてきて、空が真っ赤に燃える頃、ノラは手綱を握ったまま、ついに意識を失った。
その夜遅く、ノラはぱちぱちと焚き木の爆ぜる音で目を覚ました。薄っすらと瞼を開くと、夜空を流れる星の川が目に飛び込んできて、ノラは驚いた。馬車を走らせていたはずが、いつの間にか地面に寝そべっている。これはどういうことだろう?
ふと隣を見ると、サリエリが同じように横たわっていた。サリエリはすやすやと寝息をたてていて、ノラはほっと安堵した。起き上がってみると、見覚えのないマントが身体からずり落ちた。
「…………」
ノラはじっくりと辺りを観察した。
赤々と燃える焚火には鍋がかけられていて、蓋を開ければ美味しそうなシチューがぐつぐつと音を立てていた。傍らには蜂蜜がたっぷり染み込んだパンや、魚の燻製や、果物、ぶどう酒等が用意されていて、いつでも食べられるようになっていた。
辺りに人はおらず、幌馬車から切り離された馬が、栗の木の袂でのんびりと草を食んでいた。見渡す限りの広野には、ぽつりぽつりと民家の灯りが見えた。
ノラが不思議そうに首を捻っていると、サリエリが意識を取り戻した。
「良かった……身体はどう?苦しくない?」
サリエリはノラの質問には答えず、賑やかな焚火の周りを見て、目を瞬いた。
「私にもわからないの……目が覚めたら、こうなってたの」
ノラはサリエリに、彼が気絶していた間に起きた出来事を―――アンディ・マシューズがジャコモ達の仲間だったことや、命からがら逃げ出したこと、そのために子供達を、大平原の真っ只中に置き去りにしてしまったことなどを―――包み隠さず話した。話しているうちにノラの体はがたがたと震えだし、その瞼からは大粒の涙がこぼれ出した。
ノラは思い出していた。最後にノラを裏切った、ドナ・エイトケンのこと。思い返せばドナは旅の間中、仲の良い兄妹のように寄り添うノラとサリエリを、恨めし気な目で見ていた。憎まれていたのかと思うと、ノラの気分は落ち込んだ。
サリエリはノラの氷のように冷たい手を握り、自分の体温を分け与えた。しばらくすると、シチューの鍋の蓋ががたがた言い出して、ノラの涙は引っ込んだ。
お腹と背中がくっつきそうなほど空腹だった2人は、一先ず食事をいただくことにした。
「すごい……チーズに、ジャムに、ベーコンもある。これは?……あ!卵!」
敷物の上に並べられた豪華な食事に、ノラの気分は少し上向いた。ノラは手近なパンをぱくりとかじって、舌の上に広がる甘味に顔を綻ばせた。
ノラとサリエリは夢中で料理を食べた。お腹が満たされると、ようやく人心地が付いて、指先に体温が戻ってきた。
「それにしても不思議ね……いったい誰が私達を助けてくれたのかしら……?」
シチューが焦げていなかったところを見ると、救世主はノラが目を覚ます直前まで、傍にいたに違いない。辺りを捜索してみたが、本人も手がかりになりそうなものも残っていなかった。ただ1つ、サリエリが閉じ込められていた檻の、太い鉄の鎖が千切れていることが不思議だった。
「妖精の仕業かもしれないわ……」
「?」
「前に本で読んだことがあるの。道に迷った旅人が無人の館に辿りついて、妖精に王様のような持て成しを受ける話よ」
ノラは大まじめに言って、サリエリの背中をむずむずさせた。
やることがなくなると、ノラとサリエリはごろん寝そべって、夜空を見上げた。1度横になると、もう1歩も動きたくなくなった。
「明日になったら、あの灯りのどれかを訪ねて、道を聞きましょう」
早々と就寝することにして、ノラは遠くに見える民家の明かりを指して言った。
「…………」
体は疲れ果てているのに、気持ちが高ぶって、いくら待っても眠りは訪れなかった。人さらいが追いかけてくるかもしれないという不安が半分。無事に逃げ果せたという安堵が半分。脳裏には、考えても仕方のないことばかりが浮かんでは消えた。
(みんな……どうしてるかな……)
1週間前の日曜日、もしも家出なんかせずに町に留まっていたら。今頃はなにをしていただろう?
朝起きて学校へ行き、母の手料理をお腹一杯食べて、暖かい布団で眠りに就く。何百回も、何千回も繰り返してきた毎日が、遠い世界の出来事のように思えた。
(元気にしてるかな……)
憂鬱な定期試験が終わり、子供達が心身ともに解放されるこの季節。いつもなら間近に迫った夏休みに向けて、遊びの計画を立てている頃だ。アベルやマルキオーレ、喧嘩をしてしまったけれど、クリフォード。新しい友達のヨハンナやジノ、今年はミライもいる。
「…………」
今から戻れば、夏休みにはまだ十分間に合うはずだ。町に帰れば、水遊びや、キャンプや、虫採り、楽しいことがたくさん待っている。家族は書置きもなく姿を消してしまったノラのことを、心配しているに違いない。
ノラはちらりと隣のサリエリに視線をやった。サリエリも眠れないようで、光の川を見上げて、じっとなにかを考えている様子だった。
「……寂しい……?」
ノラが控えめにたずねると、サリエリはノラの方に寝返りを打って、ふるふると首を横に振った。ノラはにっこりと口角を引き延ばして……
「私も……」
と囁いた。2人は静寂を壊さないよう、虫の鳴くような声で、くすくすと笑い合った。