危険な旅路
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ムタガンダへ向けて、長い旅がはじまった。
人攫いの男達は、約束通り、子供達に手荒なことはしなかった。食事は昼と夜の2回、十分な量を与えられたし、衛生のために、毎日身体を清めることを許された。川のそばまで来ると、女の子は風呂にも入れてもらえた。
幌の中は狭い上に、日中は茹だるように暑く、快適な旅とは言い難かったが、想像していたほど悪い環境ではなかった。
馬車に揺られて3日も経つと、ノラとサリエリの緊張は、少しずつ解れていった。その大きな要因の1つは、子供達の見張り役が、恐ろしいゲロルドから、ジャコモに代わったことだ。
「怯えなくても大丈夫だよ。人買いに引き渡すというのは、インゴの悪い冗談さ」
馬車が故郷を離れ、不安がるノラを、ジャコモはそう言って励ました。
「あたし等は、生活が苦しくて満足に食べられない子供に、働き口を紹介しているんだ。望んでついてきた子もいるんだよ。ほら、手を挙げて」
ジャコモが促すと、年長のアンディ・マシューズ、フローレン・シャロピンともう1人、女の子のドナ・エイトケンがおずおずと手をあげた。
「ほらね。怖いことなんて、なにもないんだ」
「…………」
「君達はやはり、あたし等と一緒に来るべきだよ。どこへ行くつもりだったかは知らないが、子供だけで旅なんて無茶だよ」
ジャコモは忠告した。
「あたしの故郷のハンノニアでは、旅人は死を覚悟せよと言われていて、旅立つ前には遺書を書くんだ。旅というのは、いつなにが起こるかわからないんだよ。盗賊に襲われたり、嵐で川が増水して馬ごと流されたり、途中で食糧が尽きて飢え死にしたり……だから、ね」
ノラとサリエリは、困り顔を見合わせた後、ためらいがちに頷いた。
「素直な子供達だ。ムタガンダに着いたら、良い仕事先に巡り合えるよう、おじさんが責任を持って面倒を見よう。悪いようにはしないよ」
ジャコモが頼もしげに保障すると、ノラとサリエリはいくらか安心した。
悪いようにはしないというその言葉通り、道中、ジャコモはなにかと子供等の世話を焼いた。
「良く眠れたかい?具合が悪くなったら、直ぐおじさんに言うんだよ」
ジャコモが見張りの時は、子供等は好きな時に用を足しに行けたし、自由にお喋りすることを許されていた。ジャコモは子供等の退屈を紛らわそうと、ペットの小鳥を見せたり、歌を歌わせたり、とっておきの失敗談を披露したりした。
ノラとサリエリが馬車に乗せられて、6日目のことだった。
「さあ、元気よく腕を振って、足を上げて!」
その日、ジャコモは子供等の体調を気づかい、馬車の周りを散歩させた。
「この平野を超えればアイウセス領だ。窮屈な馬車の旅もあと少し。みんな、がんばれ!」
手首にかけられた縄を解かれたおかげで、子供達はこちこちに固まった肩を解し、ひりひりと痛むお尻を摩ることができた。ほんの短い時間だったが、みんな久しぶりに地面を歩けることを喜んだ。気難し屋のフローレンまで笑顔を浮かべていた。
「おい。大丈夫なのか?縄を解いたりして……」
一列になって馬車の周りを行進する子供達の耳に、インゴとジャコモの会話が聞こえてきた。
「この子たちは、もうすっかり腹を決めている。心配いらないよ 」
「だが、万が一逃げられたりしたら……」
「この広野のどこに逃げるって言うんだい?狭い中に閉じ込めておいたら、ムタガンダに着く前に病気になっちまうよ」
ジャコモの真っ当な意見は、インゴとゲロルドに聞き入れられた。ちょうど昼時だったので、子供達は外で食事をとることを許された。
「2人とも、驚かずに聞いてくれ……」
食事を終えたノラとサリエリが木陰に座ってまどろんでいると、アンディが見張りの目を盗んで、そっと近寄ってきた。
「今夜、俺と一緒に逃げよう……3人で……計画があるんだ……」
アンディが緊張を孕んだ声で囁くと、ノラとサリエリはぎくりとした。
「ほ、他のみんなは……?」
ノラがたずねると、アンディは残念そうに首を振った。
「全員で逃げるのは無理だ。それに無事逃げ果せたとしても、彼等には帰る家がない。彼等は貧村の出身で、親や親戚に売られてここにいるんだ」
「…………」
「君達は違うだろ?待っている家族や友人があるんだろ?」
ノラはオシュレントンに残してきた両親やオリオの笑顔を思い出し、唇を噛んだ。旅をはじめて1週間足らずだというのに、町を出たのが遠い昔のことのように感じられた。瞳に涙を浮かべるノラを、サリエリが寂しげな瞳で見つめた。
「このまま順調にいけば、明日の午後にはヴォロニエ領を出る。決行するなら、今夜だ。迷っている時間はない」
胸が詰まって返答できないでいると、ジャコモが近付いてきた。
「俺は一人でも行く。その気があるなら、一緒に来い」
アンディは早口にそれだけ告げると、さっと2人から離れて行った。ノラとサリエリの答えは、問われずとも決まっていた。
その夜。アンディとノラとサリエリの3人は、ジャコモが小用に出て行った隙に、こっそりと馬車を抜け出した。抜き足差し足、馬車から数十メートル離れた場所まで来ると、3人は全速力で野原を駆け出した。
「あいつ等の話によると、ここから少し東へ行ったところに、大きな宿駅があるそうだ。そこへ逃げ込み、助けを求めよう!」
ゲロルドやインゴが起き出してくる気配はなく、作戦は成功するかに思われた。ところが……
「あ……!」
息急き切って飛び込んだ林の中で、小用に出ていたジャコモとはち合わせした。
「悪いことは言わない。直ぐに馬車に戻りなさい。ゲロルド達に見つかれば、殺されてしまう……!」
3人を見てすぐに脱走だと気づいたジャコモは、厳しい口調で忠告した。3人は怯み、顔を見合わせた。
「お願いおじさん、見逃して……」
ノラが弱々しい声で懇願すると、ジャコモは深いため息を吐いたあと道を開けた。
「気を付けて行きなさい。この道を真っ直ぐ行けば、林の外に出られるから……」
「ありがとう……!」
3人はジャコモに感謝し、言われた通りの道を進んだ。月の光の入らない夜の林は暗く、ノラは何度か木の根に足を取られて転び、サリエリはあちこち服を破いた。
半時程も歩くと、林の終わりが近づき、遠くの方に民家の明かりが見えてきた。闇に浮かびがる暖かな灯に、3人がほっと安堵の息をついた、その時だ。
「きゃあっ!」
林の外で待ち伏せしていたゲロルドが、1番後ろを駆けていたノラの首根っこを捕らえた。サリエリがゲロルドに飛び掛かろうとすると、木陰に潜んでいたインゴが飛び出してきて、その喉元に長剣の切っ先を突き付けた。
「ノラ!……くそっ……」
アンディが悔しげに悪態を吐き、脱走は失敗した。
「来い!大人を舐めたらどうなるか、たっぷり思い知らせてやる!」
3人は幌馬車に乗せられ、元の場所まで連れ戻された。焚火の前では、叩き起こされた子供達とジャコモが心配そうに待っていた。
「この餓鬼!優しくしてやれば付け上がりやがって!」
ゲロルドは荷台の上からノラを引きずり降ろすと、片手を振り上げた。殴られると思ったノラは、ぎゅっと目を瞑った。
「この子は女の子だ!殴るのは勘弁してやっておくれよ!」
ゲロルドの手がノラの頬に振り下ろされることはなかった。慌てて駆け寄ってきたジャコモが、ノラをゲロルドの暴力から守ったのだった。
「邪魔するな!こういう思い上がった餓鬼には、仕置きが必要なんだ!」
「だが、傷が付けば商品にならなくなる!そうだろう?ゲロルド!」
ジャコモに諭されたゲロルドは、いらいらと舌打ちした。
どうやら諦めたようだと、ほっとしたのも束の間、ゲロルドは振り向き様に、サリエリの腹を思い切り殴り付けた。
「きゃああ!」
ノラは絶叫してサリエリに駆け寄った。地面に崩れ落ちたサリエリは白目を剥いていた。
「見たかインゴ。俺ならこんな餓鬼は一発だ」
「馬鹿。俺は手加減したんだ。本気を出したら死んじまうからな」
笑い合うゲロルドとインゴを、子供達は怯えた目で見つめた。
ゲロルドとインゴは、馬車の中から大きな檻を持ってくると、みんなの前でサリエリをその中に押し込んだ。もともと犬かなにかが入っていたようで、木でできた檻の中には、獣の毛が散らばっていた。
「ムタガンダに着くまで、こいつはこのままだ」
ゲロルドは、サリエリを見せしめにしようというのだった。檻に入れられたサリエリの姿を見て、ノラはひどくショックを受けた。
サリエリを閉じ込めた檻は、太い鉄の鎖をかけられ、男達の手によって荷台に積み込まれた。子供達が乗る方ではなく、荷物や食糧を積んでいる方の馬車だった。
「餓鬼どもを馬車に戻せ」
子供達がもう一台の馬車に戻されると、首謀者のアンディは、ゲロルドとインゴに、焚火の向こうへ連れて行かれてしまった。これから酷い目に合わされるのだと思うと、ノラの胸は張り裂けそうだった。
「あたしがいけなかったんだ。こうなることはわかっていたのに……」
2人きりになると、ジャコモは後悔の滲む声で呟いた。
「ゲロルドは、今度こんなことがあれば、君達を殺すと言っている。次はあたしでも庇いきれない。あいつは恐ろしい男だ」
「…………」
「坊やのことを思うなら、諦めるんだ。2度と逃げたりしてはいけないよ。いいね?」
ジャコモは狼狽するノラに、篤と言い聞かせた。ノラは堰を切ったように溢れる涙を拭いながら、うん、うん、と何度も頷いた。ノラは責任を感じ、心の底から反省していた。アンディに誘われた時、ノラが一言『止めておこう』と言っていれば。サリエリは頷いたに違いない。
「坊やのそばに付いていておあげ。出してもらえるよう、お願いしてくるから」
ジャコモはノラを荷台に乗せて離れて行った。
「サリエリ……?どこ……?」
闇に向かって問いかけてみたが、答える声はなかった。幌が掛けられた荷台の上は真っ暗でなにも見えず、ノラは手探りでサリエリの檻を探し当てた。
身体を折り畳まれたサリエリは、顔を埋めた膝の間で、荒い呼吸を繰り返していた。ノラは格子の隙間から手を伸ばして、サリエリの額に触れた。汗でびっしょりと濡れていて、火傷をしそうなほどに熱かった。
「苦しいの?……待ってて、今お水をもらってきてあげる」
荷台を降ると、ノラはゲロルドやインゴに見つからないよう注意しながら、ジャコモを探した。ジャコモはゲロルドやインゴとともに、焚火を囲んでいた。アンディは別の場所に隔離されているのか、見当たらなかった。
とても水をもらいに行く勇気はなく、ノラが仕方なく馬車に戻ろうとした、その時だ。
「相変わらずお前の手腕は見事だなあ、ジャコモ」
赤い顔をしたゲロルドが、ナイフで大きく切り分けた燻製肉を頬張りながら、上機嫌で言った。
「そろそろ餓鬼どもが騒ぎ出す頃だからな。ここらで箍を締めておかんと」
ジャコモが答え、ノラは引き返すのを止めて、天幕の陰から様子をうかがった。
「わざと逃げ出すように仕向けて見せしめにするなんて、お前は天才だよ」
「うふふ。きつい仕置きを怖がって、密告するやつが出てきたら上出来さ」
ジャコモは言いながら、パイプの煙を深く吸い込み、満足そうに吐き出した。ちらちらと揺れる炎がジャコモの横顔を照らし出すと、ノラの背筋に冷気が走った。ジャコモは、いつもの好々爺ぶりが嘘のように、鋭い眼をしていた。
男達はノラが見ているとは知りもせず、げらげらと笑い合った。
「しかし、アンディは年々芝居が上手くなるなあ!そろそろお前の代わりをさせても良いんじゃないか?」
「馬鹿言え。この役は発案者の特権さ。俺は恐怖に竦み上がっている子供の頭を撫でるのが好きでねぇ」
ジャコモはインゴの提案を一蹴した。ノラは耳を疑った。
(そんな……)
親切者のアンディまでもが、こいつ等の仲間だったなんて!
「けっ。悪趣味な野郎だ。お前の本当の顔を知ったら、あの餓鬼どもはなんて思うかな」
「憎まれようと構わんさ。どうせ1年後にはムタガンダのどぶ川に浮かんでる。物言わぬ骸になってな」
真実を知ったノラは愕然として、がんがんと痛む頭を押さえて立ち上がった。身体を駆け巡る血はゆっくりと凍り付き、胸には冷たい怒りの炎が灯った。
「お前が仲間に加わってから、病気や怪我で使い物にならなくなる餓鬼が減った。本当に感謝してるよ」
「良いってことよ。これからも、よろしく頼むよ」
胸に灯った青い焔は勢いを増し、やがてノラの全身を包んだ。
ノラは音もなく、速やかにその場を離れた。今までぐずぐず悩んでいたのが嘘のように、頭も心も冴え冴えとしていた。
(やるんだ……)
サリエリと2人、助かるために……!