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ノラとパン焼き窯の悪魔  作者: kaoru
新しい友達
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夫婦喧嘩

著作権は放棄しておりません。

無断転載禁止・二次創作禁止

 クラブを終えてヨハンナやジノと一緒に帰宅したノラは、自宅の玄関の扉の前に立ったところで異変に気付き、ドアノブを回す手を止めた。

「…………」

 家の中で、誰かが口論している。ドアにぴったりと耳を寄せてみたが良く聞き取れず、ノラはリビングの方に回ると、開けっ放しの窓からそっと室内を覗いた。

 リビングでは母とオリオが向かい合ってソファに座っていて、ノラは首を傾げた。いつもならオリオはまだ銀行にいる時間だ。

「わかってくれよ母さん!早めに向こうに行って、準備がしたいんだ!」

「出発は来年という約束だったはずよ!それを来月なんて、急過ぎるわ!だめに決まっているでしょう!」

「どうしてさ!?明日行くのも、来年行くのも、同じことだろ!?」

 双方お互いの主張を曲げず、押し問答を繰り返した末、ついにオリオが席を立った。

「考えを変えるつもりはない!どうしても駄目だというなら、俺はこの家を出て行く!」

 オリオはきっぱりと宣言して、リビングを飛び出した。

「お、お母さん……」

 ノラは恐る恐る家に入ると、リビングの母のところへ向かった。

「あら、ノラ……お帰りなさい」

「オリオ、どうしたの……?」

 ノラがたずねると、疲れたように額を押さえていた母は、のろろのろと顔を上げた。

「帝都に出発するのを、早めたいと言い出したのよ。向こうに行って、1日でも早く料理の勉強をはじめたいんですって……」

 母は深いため息をついた。

「男の子って難しいわ。小さい頃は素直でかわいいのに、歳をとるほど頑固になって」

「はあ……」

「お父さんが帰ってきたら、説得してもらいましょう」

 その後、町役場から帰ってきた父に母が相談し、父がオリオを説得して、事態は収束に向かうかと思われた。ところが……

「あなたはいつもそうだわ!嫌な役はぜんぶ私にやらせて!どうして父親らしく、駄目なものは駄目だと、はっきり言って下さらないんです!?」

 いつも必ず母の味方をする父は、その日に限って、オリオの意見に賛成した。

「彼はもう立派な大人なんだから、自分の考えがあって当然だろう」

 とばっちりを食わないように避難したノラは、階段のところから、父と母の言い争う声を聞いた。

「あの子はまだ子供です!……私はもともと、あの子が町を出て行くことには反対なのよ!それをあなたが行かせてやれと言うから!」

「やれやれ、またそこに戻るのか……その件は2人で散々話し合ったろう?それとも君は、オリオをずっとこの家に縛り付けておくつもりなのか?」

「ずっとなんて……!16歳に独り立ちは早過ぎると言っているんです!」

「そうかな。私はむしろ、遅すぎるくらいだと思うけどね」

 父のエドモンは、冷たく言った。

「私がカリャンガの実家から奉公に出されたのは、12の歳だった。奉公先の縫製工場が潰れてからも、貴族や豪商の屋敷を転々として金を貯め、学校に通った。身を立てられるようになるまでは苦しかったが、今では良い思い出さ。友達もたくさんできた」

「当時と今では時代が違うわ!家族4人、それなりに暮らせているんです。なにも無理に家を出る必要はないじゃありませんか!……それともあなたは、オリオをこの家から追い出したいの!?」

 母がめったやたらに捲くし立てると、我慢強い父も、段々いらいらしはじめた。

「君がそんなことだから、いつまでも親離れできないんだ。オリオは今、自分が進むべき道を見つけようと足掻いているんだ。邪魔するべきじゃない」

「邪魔ですって!?子供を心配することの、なにがいけないんです!?」

「過保護は良くないと言っているんだ。……母親がこれじゃあ、家を出たくもなるさ」

 エドモンは、ちっ!と舌打ちをした。ノラはいよいよ青ざめた。温厚な父が、ここまで言うなんて……!

「あっ……あなたは、子供がかわいくないんですか!?前々から冷たい人だと思っていたけど……まさかこんな人だったなんて!」

「大きな声を出すなよ!上にはノラもいるんだぞ!君の甲高い声を聞いていると、俺は首を括りたくなるんだ!」

 父がついに声を荒げ、母がめそめそと泣き出した。

 醜い罵り合いは、真夜中まで続いた。決着がつかぬまま明日に持ち越されることになり、母は父と同じ部屋で寝るのが嫌で、夜遅くノラのベッドに潜り込んだ。

「お母さん……大丈夫……?」

 狭いベッドの上で、背中にぴったりと寄り添う母に、ノラはたずねた。

「……大丈夫よ。ノラは優しい子ね」

 母はひどく疲れた声で言って、ノラの頭をよしよしと撫でた。滅多に怒らない父の怒声を聞き、いつも元気な母の涙を見て、ノラの心は言い知れない不安に駆られた。

 この犬も食わない夫婦喧嘩は、これから起きる大事件の序章に過ぎないということを、この時のノラはまだ知らなかった。

 翌日の早朝。一睡も出来ずに朝を迎えたノラは、母と一緒に部屋を出た。

リビングに下りて行くと、すっかり出かけ支度を済ませたオリオがいた。ノラはオリオの傍らに置かれた大きな旅行鞄を見て、ぎくりとした。

「しばらくティボーの家に泊まるから」

「待ちなさいオリオ!そんな勝手が許されるはずないでしょう!」

 リビングを出て行こうとするオリオを、母が引き止めた。オリオと母が口論していると、父が2階から下りてきた。

「朝っぱらから、またなにを騒いでいるんだ」

 父は険悪な目付きで、じろりと母を睨んだ。

「オリオが家を出て、ティボー・リヴィエールのところへ行くなんて言うんです!あなたも止めてください!」

 母も負けじと父をにらみ返した。ノラは3人の真ん中でおろおろした。

「好きにさせてやりなさいよ。外泊くらい。男なんだぞ」

 父はいらいらと靴底で床を叩いた。

「いけません!急に訪ねて行ったら、向こうのお宅にご迷惑がかかるわ!せめてご挨拶にうかがってから……」

「平気だよ。ティボーのおばさんは、理解があるから」

 オリオが少し含みのある言い方をすると、母が顔色を変えた。

「……どういう意味よ」

 母の全身がぶるぶると震え出し、父とオリオもまずいと思ったようで、顔を見合わせた。

「……朝から絡むのはよしてくれよ」

 結局、オリオは出て行った。

 父と母は一言も言葉を交わさず、朝食の席はぎすぎすしていた。ノラは出来る限り急いで支度を済ませ、逃げるように家を飛び出した。

 授業中、浮かない顔をしているノラを心配して、サリエリが『大丈夫?』と書かれた黒板を渡してきた。ノラは少し迷って黒板に『寝不足』と書き加えて返却した。2人はガブリエラの目を盗んで微笑み合った。

 サリエリに少し元気をもらって、休み時間に友人達とおしゃべりしていると、ノラは事態を楽観しはじめた。午後になり、家に帰宅する頃には、今朝の悲観的な気持は綺麗さっぱり消えさっていた。

(そうよ……)

 町でもおしどり夫婦で有名な2人だ。直ぐに仲直りするに決まっている。今頃2人とも、怒り過ぎたことを反省しているかもしれない。

 母はご馳走を作って父の帰りを待ち、父は母にプレゼントを買って帰ってくる。学校からの帰り道、ノラの頭の中は、そんな幸せな空想で溢れていた。

「いい加減にしろよ!疲れて帰ってきた夫に向かって、なんだ!その態度は!」

 事態はノラの期待通りには運ばなかった。その夜、癇癪を起した母はお客様用のカップを2つも割り、父は15回も舌打ちをした。言い争う声は、夜半過ぎまで聞こえていた。ノラは両手で耳をふさぎ、しっかりと目を瞑って、ベッドの中に潜った。

 次の日。土曜日で町役場は休みだというのに、父は朝からいなかった。遅く目を覚ましたノラがリビングに下りて行くと、ネグリジェ姿の母が、ソファにだらしなく寝そべっていた。

「お母さん、お腹すいた……」

「……キッチンの鍋の中にスープがあるから。勝手に食べてちょうだい」

 ノラは言われた通り、鍋の中のスープを勝手に食べた。午後になっても、母は朝と同じ位置にいた。

「お母さん、お掃除しなくて良いの……?」

 心配になったノラがおずおずとたずねると、母は弾かれたように身を起して、きっとノラをにらんだ。

「あなたまでそんなこと言うの!?」

 母がヒステリックに喚いて、ノラを驚怖させた。

「……良いのよ。今日はお母さんお休みするの。向こうだって自由にやってるんだから、私ばかり働く必要はないわよ」

 母はすてばちを言うと、再びソファに沈んだ。

 父は昼食の時間にも、夕食の時間にも帰ってこなかった。真夜中になって、ぐでんぐでんに酔っ払って帰ってきた父は、ノラのベッドに潜り込んできた。酒臭さに耐えかねたノラは自分のベッドを父に譲り、オリオの部屋で眠った。

 翌日の朝。キッチンで朝食をとっていると、2階から父と母の言い争う声が聞こえてきて、ノラはうんざりした。

「あなたも少しは考えて下さいな!あなた1人が出席しなければ、なにかあったと思われるじゃないですか!」

 原因は、昨晩深酒をした父が、教会に行くことを拒否したことだった。

「頭が痛いんだ!そうぎゃんぎゃん怒鳴り散らさないでくれよ!」

 父は布団に潜ってしまい、母は地団太を踏んだ。

 仕方なく、ノラと母は2人で教会へ向かった。

「みんなにあれこれ詮索される私の身にもなって欲しいもんだわ!あの人は私の気苦労なんて、ちっともわかっていないのよ!」

「…………」

「お酒の飲み過ぎで教会に行けないなんて、なんてだらしないの!こんな人だと知っていたら、結婚なんてしなかったわ!」

 馬車に揺られている間中、ノラは母の愚痴を聞かされていた。寝不足でいらいらしていたノラは、母に気付かれないように、小さく舌打ちした。

 教会に到着すると、ノラはさっさと母から離れ、アベルとマルキオーレの元へ向かった。

「おはようノラ。遅かったね。なにかあった?」

「ちょっと寝坊したの」

 心配するアベルに、ノラは肩をすくめて見せた。

 午前のお説教が終わり、孤児院の子供達による合唱がはじまろうという頃だった。

「ロベルトったら、私が腕によりをかけて作ったサラダ・ドレッシングを、ぼろくそにけなしたのよ。本当にどうしてあんな頑固者と結婚したのかしら?」

 ノラの耳に、母とメリダ・ランベル夫人の会話が聞こえてきた。

「あなたのところは仲が良くて良いわね。夫婦円満の秘訣を教えてちょうだいよ」

 ランベル夫人のおべっかに気を良くした母は、上品ぶっておほほと笑った。

「秘訣と言いますか、ええ、そう大したものではないんですが。気を付けていることなら、幾つかありましてよ」

「是非うかがいたいわ」

「そうですわね。色々ありますけれど……1番はやはり、目を瞑ることですわ。夫の幼稚な発言や思慮に欠けた行いを、笑顔で水に流すんです。良き妻には寛容の精神というものがありますから」

 見栄っ張りな母は立派なことを言って、ノラを白けさせた。

 母は昼食会の準備のために、ランベル夫人達とキッチンへ向かった。

「ノラ、大丈夫かい?ずいぶん長いみたいだけど……」

 ノラがうつらうつらしていると、お隣のカシマ・カルカーニが心配して声をかけてきた。人に聞かれないよう、ノラはカシマを廊下まで引っ張って行って、事情を説明した。

「そうか、原因はオリオか……もしかしたら、あれかなあ?」

「あれって?」

「いやね、少し前の話なんだが……オリオのやつ、別の仕事に追われていて、イーノック支店長の部屋にお茶を持って行くのを忘れたんだ」

 カシマは顎の先を指で撫でながら言った。

「虫の居所が悪かったのか、イーノック支店長が『オリオはジュリアンに比べて責任感がない!』なんて吹聴して回ってね。ほら、ジュリアンとオリオは同い年だろ?あの2人はなにかと比べられやすいんだよね。オリオもずいぶん我慢していたんだけど、先週の木曜日、とうとう飛び出しちゃって……」

 それだ!とノラは確信した。オリオが出発を早めたいと言い出したのが、ちょうど先週の木曜日。間違いない。

「ジュリアンは確かに優秀だよ。仕事は早いしミスはしないし、無愛想だが誠実だ。劣等感を抱いたとしても無理はないよ」

 ジュリアン・アニュコフは、サリエリと同じ孤児院出身の少年だ。感情の起伏が乏しく、いつもつまらなそうな顔をして、周囲の人々を恐縮させている。

「しかしオリオにだって同じくらい良いところはあるんだ。仕事を頼みやすいところとか、みんなに親切なところとかな」

「はあ……」

「まあ、あまり酷いようなら、うちに避難しておいで。部屋は幾らでもあるから」

 カシマにお礼を言って礼拝堂に戻ってみると、ノラが座っていた席の近くで、アベルとマルキオーレ、それにクリフォードとジノの4人がおしゃべりをしていた。

「やっだあ!アベルったら!」

 アベルが冗談を言い、ジノがころころと笑っているのを見て、ノラはぎくりとした。

 1度は席に戻ろうとしたが、楽しい雰囲気の中に入って行けず、ノラは誰にも見付からないように、こっそりと礼拝堂を出た。

 教会を出ると、ノラは人知れず唇を噛んだ。脳裏には先ほど見た光景が、ありありと浮かんでいた。

「…………」

 ジノが立っていた場所は、ついこの間までノラのものだった。クリフォードと喧嘩さえしなければ、みんなに囲まれて笑っているのは、自分だったはず。そう思うとノラは醜い嫉妬に駆られ、忘れかけていた後悔に苛まれた。

(いやな子……)


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