クリフォードの退学
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男爵夫人が町を出て行った翌日の月曜日。教室には珍しくクリフォードの姿があった。「ガブリエラ先生に、退学届を出しに来たんだ」
クリフォードが告白すると、生徒達の間に激震が走った。喜んでいた女の子達の表情は一変し、教室は一時、授業もはじめられないほどの大混乱に陥った。
シルビアは『なぜ!?どうして!?』を連発し、カレンは『これじゃあなんのために学校に通っているのかわからない!』などと言って、担任のガブリエラを怒らせた。すべて知っていたノラとアベルとマルキオーレは、こっそりと顔を見合わせた。
放課後になると、ノラはガブリエラに職員室に呼ばれた。
「やっぱり知っていたようね……」
ガブリエラはノラの顔色を見て呟き、胸にたまった空気を残らず吐き出した。
「ガブリエラ先生は、クリフの退学に反対なんですか……?」
ノラはガブリエラの心痛な様子を見て、首を傾げた。
「そりゃあ、そうよ。せっかく今まで頑張ったのに、努力がぜんぶ水の泡になってしまうもの。ちゃんと卒業してほしいわ」
「でも、アベルやマルクは、退学なんて珍しいことじゃないって」
「お家の事情で来なくなってしまう子はたくさんいるけれど、クリフォードみたいに将来どこかに働きに出ないといけない子は、学校だけは卒業すべきよ。ましてやクリフォードは力のある子よ。頑張れば卒業だけじゃなくて、進学だって狙えるわ。何度も説得しようとしたのだけれど、あの子は取りつく島もなくて……」
ガブリエラは本来ならクリフォードにすべき忠告を、ノラに篤と言い聞かせて、頭を抱えた。困り果てている様子だった。
クリフは昔からこうと決めたら突き進む性質で、自らの正しさを確信しているので、意見を曲げるということがほとんどない。彼の説得は、友達のノラでも至難だ。
「大変な時だからこそ、良く考えるべきなのよ。やめてしまうのは簡単だけれど……勢いで決めて、後悔してほしくないの」
「はあ……」
「あなた、クリフォードと仲が良いでしょう?説得してみてくれないかしら?」
ノラは『はい』とも『いいえ』とも言えずに職員室を出た。
午後になると、ノラは婦人会の集まりに出かける母の馬車に乗せてもらい、クリフォードの家へ向かった。お屋敷の一件から、彼とは一度もちゃんと話せていなかった。説得するしないはさておき、仲直りしなければならないと思った。
よろず屋の角で降ろしてもらったノラは、クリフォードの家までてくてくと歩いた。ヨーハン・ギルデンの鍛冶屋の前を通り過ぎ、五分ほどすると、目的地の屋根が見えてきた。同時に、風に乗って言い争う声が聞こえてきて、ノラははっとした。
「どういうつもりだ!クリフォード!」
クリフォードと、その父親のフォスターが、道端で激しく口論していた。 クリフォードは地面に尻もちをつき、その頬を赤く腫らしていた。
「お前を学校に行かせるのに、いくらかかったと思ってるんだ!!今までの分をすべて無駄にするつもりか!?」
フォスターはクリフォードを、頭ごなしに叱り付けた。フォスターは相当頭にきているようで、首から耳から真っ赤だった。
「わかってるよ!返せばいいんだろ!?働いて、返せばいいんだろ!?」
「そういう問題じゃねぇ!」
口答えしたクリフォードの頬を、フォスターはぴしゃりと打った。クリフォードは唇をわなわなさせた。
「親父の稼ぎじゃ食っていくのがやっとじゃないか!俺が働きに出れば、借金だって返せるんだ!ロイやブレンダンも、学校に行かないで家の仕事を手伝ってる!俺だって……!」
「餓鬼がつまらんことに気を回すんじゃない!……金のことはぜんぶ俺がなんとかする!学校をやめることも、働くことも絶対に許さん!」
フォスターはクリフォードの訴えを一蹴すると、荷馬車の御者台に乗り込んだ。
「待てよ!どこへ行くんだよ……!」
「学校へ行って、退学を取り消してもらってくるんだ!」
フォスターの馬車がノラの脇を通り過ぎると、クリフォードはようやくノラの存在に気が付いた。
ノラと目が合うと、クリフォードはちっと舌打ちして、背を向けてしまった。ノラは慌ててクリフォードに駆け寄った。
「……なにか用かよ」
クリフォードは極まり悪そうにたずねた。
「わ、私……この間のこと、謝ろうと思って……」
言いかけて、ノラはクリフォードの唇の端が切れていることに気が付いた。ノラが触れようとすると、クリフォードはうっとうしそうに、ノラの手を振り払った。
「…………」
こんな荒んだ様子のクリフォードははじめてで、ノラはぎくりとした。クリフォードはノラの傷付いた表情を見ると、『くそっ……』と悪態をついて、頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
クリフォードはノラに背を向けたまま、道を歩き出した。
「ご、ごめんねクリフ……私……」
「ついてくるな!!」
後を追いかけようとしたノラを、クリフォードはぴしゃりと怒鳴りつけた。ノラは竦み上がった。クリフォードは石像みたいに動けないでいるノラを1人残して、歩き去ってしまった。
ノラは夕方まで玄関の前で待っていたが、クリフォードも、フォスターも、帰ってこなかった。ノラは仕方なく帰路についた。
ノラがとぼとぼと道を歩いていると、孤児院の子供達を乗せた荷馬車が通りかかった。荷台の上にはサリエリがいて、憂え顔を見られたくなかったノラは、さっと視線をそらした。
そのまま荷馬車が通り過ぎるのを待つつもりだったが、サリエリはノラの目の前で、ひらりと荷台を飛び降りた。
「な、なによ……」
ノラは驚いた。サリエリはノラの顔をのぞき込み、なにかを言いかけて、口を噤んだ。
ノラはサリエリの態度に小さく息を吐くと、彼を無視して道を歩き出した。サリエリはノラの少し後を付いてきた。100メートルほど歩くと、ノラは立ち止まり、はあーっ!と大きなため息をついた。
「隣にくれば?」
ノラは後ろを振り返ると、サリエリに提案した。サリエリはおずおずとノラの隣に並んだ。
ノラとサリエリは人気のない田舎道を無言で歩き続けた。空は鮮やかなピンク色から紫色に変わり、空には星が瞬いた。
小1時間ほども歩くと、分かれ道に差し掛かった。方向が違うにも関わらず、サリエリはノラに付いてきた。
ノラの家の玄関前にはクリフォードがいて、ノラが帰ってくるのを待っていた。
「待って!クリフ……!」
クリフォードはノラの隣にサリエリがいるのを見ると、鋭い視線で2人をにらみ、走り去ってしまった。クリフォードの背中が闇に消えると、ノラはしょんぼりと項垂れた。
サリエリは申し訳なさそうな顔をした。
「べつに、あんたのせいじゃないわ。ちょっと喧嘩してんの」
しゅんとするサリエリに、ノラは苦笑して見せた。
「……ねぇ。働きながら学校に通うのって、大変?」
ノラはサリエリにたずねた。サリエリは少し考えて、首を左右に振った。
「そもそも、なんで無理して学校に通ってるの?勉強なら、タリスン院長先生が教えてくれるでしょ?孤児院からでも進学はできるって、ガブリエラ先生が前に言ってたわ」
「…………」
「……嫌味じゃないわよ。不思議に思っただけ。なんで?」
ノラがたずねると、サリエリは俄かにたじろいだ。サリエリは臆病な目で、ノラの顔を矯め見た。
サリエリの黒い瞳を何気なく見つめ返しながら、ノラはミライの言葉を思い出していた。
『あいつに関わってもろくなことはないぞ』
ノラがじーっとにらむように目を細めると、サリエリはあたふたした。
「悪かったわよ、変なこと聞いて。……そろそろ帰らなくて良いの?おっかない院長先生に怒られるわよ」
「!」
サリエリは大慌てで来た道を引き返して行った。
ノラが玄関前でサリエリの背中を見送っていると、家の中からオリオが飛び出してきた。
「遅かったじゃないか。今捜しに行こうと思っていたんだ」
オリオは去って行くサリエリに気付き、目を細めて道の先をにらんだ。
「今のは誰だ?」
「サリエリ。遅くなったから、送ってもらったの」
「サリエリ?……ああ、例の孤児院の子か……仲が良いのか?」
「……友達なの……」
ノラは真っ赤な嘘をついた。
翌日の学校は、言わずもがなクリフォード退学の話でもちきりだった。教室の隅ではシルビアとカレン、小さなアガタ・デビが、放課後説得しに行こうと話し合っていて、その反対側ではベン・ウォルソンとデイビッド・ホールドが、退学祝いに気の利いたものをプレゼントしようと相談し合っていた。
ノラが教室に入って行くと、ジノ・シャルディニとエレオノーレ・アレシが近寄ってきた。珍しいこともあるもんだ!と目をぱちくりさせるノラに、クリフォードを説得するよう頼み込んだ。
放課後になると、ノラは再び職員室に呼び出された。
「昨日フォスターが訪ねてきたのよ。クリフォードの退学を取り消して欲しいって」
ガブリエラはため息交じりに言った。
「フォスターは必ず説得すると言っていたのだけれど……今日来ていないところを見ると、クリフォードの意志は固いみたいね」
「…………」
「私達は子供が学校に来るよう無理強いすることはできないの。こうなると、あなた達の力に頼らざるを得ないわ。彼を説得してみてちょうだい」
職員室を出ると、教室に生徒は誰も残っておらず、サインツが教室の机と椅子を整頓していた。
「浮かない顔だな。なにがあったかは、聞くまでもないが……」
サインツはノラの顔を見て苦笑した。
「サインツ先生は、クリフ……クリフォードの退学を、どう思いますか?」
「どう思う、とは?」
「……学校をやめるのは、クリフォードにとって良いことだと思いますか?悪いことだと思いますか?」
ノラが思い切ってたずねると、サインツは面白そうな顔をした。
「君はどう思うの?」
たずね返されたノラは、俯いて靴のつま先を見つめた。
「……わかりません」
ノラが正直に答えると、サインツはにんまりと口端を持ち上げた。サインツはしばらく、あごを親指と人差し指で撫でながら、適当な答えを探した。
「……難しい質問だな。勉強だけが人生ではないし、クリフォードならどんな道を選んでも、立派にやっていけると思うがね」
「…………」
「この辺りではまだ、学歴や教養が必要とされることはあまりないだろうが……例えばクリフォードに将来なりたいものができた時……医者や憲兵や、役所員でも良い、学校を出ていないばかりに夢を諦めなければならないなんて、つまらないだろう?」
「夢……」
「でもまあ、本人が聞く耳を持たないんじゃあ、我々にはどうしようもない。決めるのはクリフォードだからね」
ノラは迎えにきた母とともに、馬車で帰宅した。
家の前でクリフォードが待っていた。彼が近寄ってくると、母は少し嫌な顔をした。
ノラとクリフォードは、家の前の道を東に向かって歩きながら話した。
「昨日はごめん……俺、八つ当たりなんかして……」
クリフォードは極まり悪そうに謝罪した。ノラが『気にしてない』と首を振ると、クリフォードは安堵した。
「フォスターおじさん、説得できた?」
「まだだけど……そのうち根負けするよ。親父がどんなに反対しても、俺は学校をやめる。もう決めたんだ。なあに、行かなきゃこっちのもんさ!」
クリフォードは頑固に言い張って、ノラを落胆させた。
「平日はブルースが使ってくれるって言うんだ。ウィナー農場も人手が足りてないって言うし、これから忙しくなるぞ」
「ねぇ、クリフ」
「うん?」
「クリフの夢ってなあに?」
ノラがたずねると、クリフォードは不思議そうに目を瞬いた。
「夢ねえ?……うーん、夢かあ……いきなり言われてもなあ」
「?……ないの?」
「あるような、ないようなさ。特別やりたいこともないし、今のままで満足って言うか、たぶんずっとこの町で暮らして行くだろ。牛や馬の世話なんかしてさ」
クリフォードはのんきに言った。
「本当にないの?なんでも良いのよ。進学したいとか、お金持ちになりたいとか……」
「俺はこの町を出て行く気はないよ。親父を残して行けないよ」
クリフォードは肩を竦めて言い「それに……」と続けた。
「もしかしたらあの人が、ひょっこり帰ってくるかもしれないだろ……?」
カティナのことだ。クリフォードは今まで、それどころじゃなかったということもあるが、母親のことを一言も口に出さなかった。待っているのかと思うと、ノラは切ない気持ちになった。
「……強いて言うなら、親父が長生きすることかな。あとはとびきり元気な嫁さんが、毎日俺を困らせてくれたら、言うことないよ」
クリフォードはノラの顔をじっと見つめて、大人びた頬笑みを浮かべた。
その夜。夕食を終えて部屋に引っ込んだノラは、難しい顔で考え込んでいた。
『なにを考えている?』
ろうそくの炎とにらめっこするノラに、ねずみのミライは不思議そうにたずねた。
「ねぇ、ミライ……」
『なんだ?』
「なにがあっても、あんたは私の味方よね……?」
ノラが確認すると、ミライはひげをピンと伸ばして、誇らしげに胸を反らした。
『もちろんだとも!私はけな気なパン焼き窯の悪魔。常に主人の傍らにあり、主人の肉体と心に寄り添う。……して、願い事はなんだ?』
「なあんにも。ずっとそばにいてね」
『???』
ノラはうふふと笑うと、指の腹でミライの全身を撫でまわしてやった。ミライは不思議がったが、マッサージの気持ち良さに抗えず、早々に思考を手放した。