決着
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サインツは男爵夫人の前を横切ると、レーチェの腕をつかんで、強引にテーブルまで引っ張って行った。
「座りなさい」
サインツはレーチェに命令した。
「い、いや……」
「……いいから、座りなさい」
レーチェが抵抗していると、サインツは自ら椅子を引いて、レーチェを座らせた。
「なにをなさるの?」
サインツは男爵夫人の質問を無視し、そばにあったノラの黒板に3桁の足し算を書いて、レーチェの目の前に置いた。
「……この問題を解いてみなさい」
むくれるレーチェに、サインツは低い声で命じた。レーチェは不機嫌に体を揺らした。
「こんな問題がなんだと言うの……?」
「男爵夫人、どうぞそのままで。お嬢様の学力を正確に測るために、必要なことなのです」
黒板を覗き込み怪訝な顔をする男爵夫人に、オーボー校長先生が言った。
「レーチェの学力ですって?」
「はい。ほんの少しの時間ですので、お付き合いください」
男爵夫人は口を噤んで、サインツとレーチェの様子を静かに見守った。
頑固なレーチェはいつまで経っても、チョークを握ろうとしなかった。隙を見て逃げ出そうとしてはサインツに連れ戻され、その度に黒板の問題は簡単になった。3桁の足し算は2桁になり、ついには1桁になった。
すると、レーチェの手がようやく動き出した。レーチェはチョークを握ると、力強い文字で黒板に答えを書いた。
「おわかりいただけましたかな。お嬢様が国立魔学校に入学できない理由が……」
オーボー校長先生がたずねると、男爵夫人は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、けらけらと笑い出した。
「なにを言い出すかと思えば!あなた方はこんなことでレーチェの才能を見極めようと言うの?……恐ろしい人達ね」
「男爵夫人、お辛いでしょうが、どうか現実を受け止めてください。その上で、お嬢様にとってより良い道を選択して下さい」
男爵夫人はぎろりとオーボー校長先生をにらみ付けた。
「……頭の上からにらまれれば、誰だって緊張して当然よ。レーチェは昔から、人見知りする嫌いがあるんです」
男爵夫人は黒板を手に取ると、チョークでうんと難しい問題を書いた。
「さあレーチェ。この問題を解いてごらんなさい」
男爵夫人は黒板をレーチェの前に差し出して、猫なで声で言った。レーチェは両手を膝の上に置いたまま、石像のように動かなかった。
「どうしたの?あなたならこんな問題、簡単でしょう?」
「…………」
「さあ、これを持って」
男爵夫人はレーチェの手を取って、チョークを握らせた。ところがレーチェは、持たされたチョークを、力いっぱい床に叩きつけた。カレンが『私のチョーク!』と嘆いた。
「ええーん!ええーん!」
テーブルに突っ伏してわんわん泣き出したレーチェを見て、男爵夫人は困惑した。
「男爵夫人。失礼を承知で言わせていただきますが、お嬢さんには1日も早く家庭教師を付けるべきでしょう」
黙って成り行きを見守っていたサインツが進言した。
「……ずいぶんな言い方ですわね。私達を愚弄なさるおつもり?」
「お嬢さんの危機だと申し上げているのです」
サインツは怯まず、厳然とした態度をとった。男爵夫人はいら立たしげなため息をついた。
「……もうけっこう。もうたくさんよ。単刀直入におっしゃって下さらない?国立魔学校の入学資格を譲っていただくために、私はあなた方になにをして差し上げればよろしいのかしら?」
男爵夫人は、両手を胸の前で開いて、降参のポーズをとった。
「校舎の改築?援助金の追加かしら?なんでもおっしゃって下さいな」
サインツの顔が徐々に赤らんできて、爆発が近いことを覚ったノラ達は、両手で耳をふさいだ。
「お互い回りくどいことは止めて、素直になりましょうと言っているのよ」
「ふ……」
「え?」
「……ふざけるなっ!!」
サインツは、天の雲を穿つような鋭さで怒鳴った。
「あんたという人は、娘の一大事にいったいなにを考えているんだ!今しっかり学んでおかないと、恥ずかしい思いをするのはこの子なんだぞ!」
空気がびりびりと震え、男爵夫人は飛び上がった。
「見なさい!羞恥に震え、悔しさに身悶えるこの姿を!この期に及んで、まだ無視するつもりか!?それともあんたには、目が付いてないのか!?」
サインツはレーチェを指差した。レーチェは驚きのあまり泣き止み、ぽかんとしてサインツを見上げた。男爵夫人も呆気にとられて、間抜けな大口を開けた。
「進学だなんだと言う前に、勉強をさせなさい!他人任せにするから、こういうことになるんだ!」
「…………」
「親の責任だぞ!」
サインツが言いたいだけ言って締め括ると、放心している男爵夫人の前に、ヘルガが進み出た。
「マントウィック男爵夫人……残念ですが、国立魔学校の入学資格はやはり、お譲りすることはできません。申し訳ありません」
「…………」
「それでその……向こうの試験官に問い合わせたところ、レーチェお嬢様は試験時間中、ずっと寝ていたそうです……」
ヘルガはレーチェをちらりと見やって、言い辛そうに告げた。男爵夫人の頬がみるみる、りんごのように赤く染まった。
気まずい沈黙が流れる室内に、ノックの音が響いた。
「お話し中に申し訳ありません、みなさま」
廊下に立っていたのは、タリスン院長先生と、サリエリだった。
「この子がどうしても、男爵夫人にお会いしたいと言うものですから……」
ノラはサリエリと目が合うと、『がんばれ』という気持ちを込めて、こっくりと頷いた。サリエリは頬を染めて、唇をむにゅむにゅさせた。ぎゅっと握った拳から、意気込みが感じられた。
サリエリは緊張の面持ちで、男爵夫人に近付いて行った。
サリエリがそばにくると、男爵夫人は腰をかがめた。サリエリは男爵夫人の耳に唇を寄せ、2、3言囁いた。
「……あなたの気持はわかったわ。困らせてしまって、ごめんなさいね」
男爵夫人は、サリエリの頬をそっと撫でた。
「国立魔学校は諦めます」
男爵夫人が宣言して、子供達は歓声を上げた。先生達はほっと胸を撫で下ろし、ノラとサリエリはにこにこと微笑み合った。
浮かない顔をしているのは、2人。鶏を亡くしたマルキオーレと、みんなの前で恥をかかされたレーチェだ。レーチェは絹のスカートを握り締め、憎しみに燃える瞳でノラをにらんだ。
「先生、この子、もう手遅れなんてことは……」
男爵夫人はサインツに向き直り、弱弱しくたずねた。
「子供の力を、親であるあなたが信じてやらなくてどうします。これから努力すれば、大丈夫」
サインツは男爵夫人を力強く励ました。
一同は鶏の羽で散らかった部屋を片付けるため、一先ず1階に下りることにした。
その事件は、突然に起こった。
みんなの後ろを歩いていたレーチェが、たたたっ!と走ってきて、階段に1歩を踏み出そうとしているノラの背中を力いっぱい突き飛ばしたのだ。バランスを崩したノラは両手をばたばたさせ、声にならない悲鳴を上げた。
「レーチェ!?」
「きゃあー!」
娘の犯行現場を目撃した男爵夫人が真っ青な顔になり、シルビアとカレンは両手で顔を覆って叫んだ。とっさに手を伸ばしたサインツが一瞬ノラのシャツの端を掴んだが、止めることはできなかった。ノラの身体は宙に投げ出された。
「っ……!」
ノラは固く目を瞑って、来たる衝撃に備えた。ところが、ノラを待っていたのは、想像していたような硬い床の感触ではなかった。すぐ下を歩いていたサリエリが、間一髪でノラを抱き留めたのだ。
「あ、ありがとっ……」
ノラは飛び込んだサリエリの胸の中で、どぎまぎとお礼を言った。サリエリは右手で階段の手摺を、左手でノラの肩を、しっかりと掴んでいた。
「大丈夫か!?」
サインツとヘルガとオーボー校長先生が血相を変えて駆け寄ってきた。ノラとサリエリの無事を確認すると、3人はほっと安堵の息を吐いた。
男爵夫人の顔色が、みるみる青から赤に変化した。
「レーチェ……!あなた、なんてことを……!」
男爵夫人がレーチェを叱りつけようとした、その時だった。
下の踊り場のところから一部始終を見ていたアベルが、ノラとサリエリの脇をすり抜けて、だだだ!と勢いよく階段を駆け上がって行った。
アベルはむっつりするレーチェの目の前に立ち、その手を振り上げた。
ぱんっ!
乾いた音が響いた。アベルがレーチェの横っ面を引っ叩いたのだった。みんな……特にアベルを良く知る人々は、目を疑った。温厚な彼が、まさか女の子を叩くなんて……!
「君みたいな子、大っ嫌いだ!!」
アベルは頬を押さえて放心するレーチェに向かって、力の限り吠えた。
「次にノラに手を出したら、絶対に許さない!絶対に、絶対に、許さないからな!」
アベルは眉を吊り上げ、鋭い眼差しでレーチェを射竦めた。レーチェは恐怖に凍り付いた。
「ご……ごめんなさいっ……」
みんなの視線が集まる中、レーチェは弱弱しく謝罪した。
男爵夫人は、次の日曜日に帰ることになった。
町を出るまでの間、学校はレーチェのために特別授業を行った。教壇に立ったのはおっかないサインツだ。往生際が悪いレーチェは、逃げ出そうとしてはノラやシルビアに連れ戻され、癇癪を起してはクラスメート達を失笑させた。泣きべそをかきながら授業を受ける愛娘を、男爵夫人は教室の後ろから、優しい眼差しで見守った。
出発の日。学校の生徒達は、出迎えの時と同じように、町の入口で男爵夫人を見送った。
「良いアルバイトだったのになあ……」
男爵夫人が帰ってしまうことを、クリフォードはとても残念がった。反対に、アベルとマルキオーレは心の底から喜んだ。
「帰ってくれて良かったよ。あんな子には2度と会いたくないね」
アベルはレーチェがノラを階段から突き落とそうとしたことが、どうしても許せないらしかった。(張手がよほど効いたのか、レーチェは最後までアベルから逃げ回っていた)
「そうだそうだ。仕事なら、また見つければ良いだろ」
マルキオーレは鶏の恨みが晴れないようだった。(哀れな鶏は後でおいしく頂いた。もちろん、マルキオーレも)
「あんなうまい仕事、そう簡単に見つかるもんか」
「仕事を見つけるより、ノラと仲直りする方が先だと思うけど」
鼻頭にしわを寄せるクリフォードに、アベルが忠告した。
「わかってるよー」
クリフォードはたじたじとなった。
「あれ、そう言えばノラは……?」
ノラがいないことに気付いたマルキオーレが、きょろきょろとあたりを見回した。ノラは集団から少し外れたところに……サリエリと一緒に立っていた。
サリエリはだんだん小さくなる男爵夫人の馬車を、目を細めて見つめていた。
「……寂しいの?」
ノラがたずねると、サリエリは薄く微笑んで、首を左右に振った。
「そう……」
「…………」
「変な人達だったわねぇ……」
ノラはさりげなく、さりげなく、サリエリの方に身体を寄せた。
ノラとサリエリは、男爵夫人の馬車が道の先に消えるまで見送った。嵐が去った翌日には、更なる嵐が来ることを、この時のノラは知る由もなかった。