仰ぐ誰時星の悪魔
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「気付いているんだろう?この肉体のもとの持ち主……リッキー・カールソンの魂が、もう俺の腹の中だってことに」
ノラは恐怖にがたがたと全身を震わせた。
「リッキー・カールソンは12歳の時に男爵家に見習いとして入って、御者になるための訓練を受けた。そして15歳の誕生日、3年間仕事を頑張った自分へのご褒美として、悪魔に屋敷のギャラリーの鍵を願った」
ノラの反応に気を良くしたリッキーは、調子付いて説明した。
「盗みを働くためにね。……この姿は言ってみれば、非望を抱き悪事を働こうとした人間の末路……自業自得ってやつさ」
リッキーはうっとりと言って、上唇をぺろりと舐めた。ミライはふんと鼻を鳴らした。
『それでお前は、その男の肉体を乗っ取ったというわけか』
「乗っ取るなんて人聞きの悪いこと言うなよ。ある人物に頼まれたんだ。この男の肉体をやるから、願いを叶えて欲しいって。俺はそいつとの取り引きに応じただけさ。おかげで俺は誰にも疑われずに新鮮な魂を調達できる。魔学者や教会の連中に追い回される心配もない」
『なんにせよ、趣味の悪いことだ』
「引っかかる方が悪いのさ。さっき湖で見たろ?……あさましい生き物だよ、人間ってやつは。死んでからもああやって、金や権力、美しさへの執着が捨てられずに、餌に群がってくる」
カウンターから料理が運ばれてきた。皿に乗った銀色の魚の正体は、ビクスビーが先ほど湖で釣り上げた、借金地獄の女の魂だ。名前はドッティ・ミラード。
リッキーは『失礼』と一言断ってからナイフとフォークを持ち、湯気の立つ料理を切り分けはじめた。
「……俺は強欲な人間の魂が好きでね。それも、できれば生きたやつが良いんだ。夢破れて余命幾許もないと知った瞬間の絶望こそ、最高のスパイスだ」
リッキーは魚をぱくりと一口食べて、『期待通りの味だ』と呟いた。
「男爵家で使用人なんぞしているのも、そのためさ。あそこには欲の皮の突っ張った人間がわんさといる。中でも1番うまそうなのがレーチェお嬢様さ。あんなろくでなしは、探したって見つからないよ。あの魂をいただくまで、俺は男爵家を離れるつもりはないんだ」
それからノラとミライは、リッキーの食事が終わるのを待った。かちゃかちゃと、食器がぶつかる音が響いた。
料理を見ていたくなかったノラは、店内に視線を移した。7人のお客は、食事を終えても誰1人帰らずに、ノラ達の方をちらちらとうかがっていた。ノラは灰を握っている右手を、いっそう固く握りしめた。
「……ねぇ。ここはどこなの?」
こんなに遠いところまできて、ちゃんと帰れるんだろうか?不安になったノラは、料理をぺろりと平らげ、まだ物足りなさそうにしているリッキーにたずねた。
「どこだと思う?」
意地悪なリッキーは、にたりと笑ってたずね返した。ノラは改めて、窓外に広がる風景を眺めた。きらきらと輝く大きな湖の向こうには、いくつかの寂れた町並みが見えた。
「わからないわ」
「わからない?本当に?そんなはずないよ、もっと良く見て」
さあ!とリッキーに促されて、ノラはもう1度景色を見た。
「……やっぱりわからない。見たことない場所よ。……悪いけど私、そろそろ帰る」
教会を出てまだ半時も経っていないはずなのに、もう何日もこの席に座っているような気がした。くたくたに疲れていて、一刻も早く帰りたかった。
「まだいいじゃない」
立ち上がろうとしたノラを、リッキーが引きとめた。
「だめよ。帰らなきゃ」
「帰るって、どこに?」
「?……そんなの家に決まって……」
答えかけて、ノラはぎくりとした。
「あ、あれ……?」
家?……家って、どこだっけ……?
「あれ?あれ?」
『落ち着け、主よ』
混乱するノラの頬を、ミライの小さな手がべちんと叩いた。ノラは少しだけ落ち着きを取り戻した。
「と、とにかく、ここを出ましょう……ねぇリッキー、私達を家に帰して」
「いいよ」
リッキーはあっさりと了承して、満面の笑みを浮かべた。ノラの背筋が理由もなく、ぞぞぞと震えた。
「その願い、確と聞き届けた。お前達の亡骸は、この私が責任持って家族の元へ送り届けよう。その代わり……」
リッキーの唇がゆっくりと耳まで裂け、隙間から鋭い牙が覗いた。ノラは恐怖に凍りつくと同時に、大変な間違いを犯したことに気が付いた。
「お前の魂をよこせー!」
ノラが逃げ出そうとすると、リッキーは猛然と襲いかかってきた。
「悪く思うなよ、おちびさん!恨むなら主人を守れないしもべを恨め!」
「きゃ―――っ!」
ノラは絶叫しながら、店の中を逃げ回った。あちこちで椅子やテーブルが倒れ、皿や食器が宙を舞った。様子をうかがっていた7人のお客のうちの2人が店を出て行き、4人がリッキーに加勢した。
『2階だ!2階へ上れ!』
ノラとミライは、リッキーが自分で倒した椅子に足を取られている隙に、一先ず2階へ駆け上がった。
2階にはお客が1人いた。身なりの良い、従者風の男だった。くるみ色の細い髪に、塔のように高い鼻。おちょぼ口に似合う、ほっそりした顎。濃紺のベルベットの上着の下からは、懐中時計のチェーンが覗いていた。
『来るぞ!どこかに隠れろ!』
おろおろと逃げ惑っていると、のんびりと食後のお茶を楽しんでいた従者風の男が、ノラを手招きした。どたどた!とリッキーが階段を駆け上がってくる音が聞こえ、ノラは藁にも縋る思いで、男のそばへ寄った。
男は自分が座るテーブルの下に、ノラとミライをぐいと押し込んだ。幾らもしないうちに、リッキーが2階へたどり着いた。
「これは鮮やぐ縹草の悪魔。食事を邪魔してすまないな」
従者風の男……鮮やぐ縹草の悪魔は、リッキーと顔見知りのようだった。ノラとミライはできるだけ小さくなって息を殺し、様子をうかがった。
「それで、今し方ここへ、小さな女の子と悪魔が来たと思うんだが……」
「……なんのことやら」
鮮やぐ縹草の悪魔は、豪快にすっとぼけた。リッキーは気色ばんだ。
「俺の獲物を横取りする気か?……そのテーブルの下にいるのはわかっているんだ」
リッキーはゆっくりとした足取りで、テーブルに近付いてきた。ノラはおののき、狼狽した。
(どうしようっ……どうしようっ……)
2階の床面積は1階の半分しかないし、階段は別の悪魔に塞がれていて、逃げられそうもない。
(あっ……)
考えあぐねていたノラは、ふと、固く握りこんだ右手に気が付いた。ミライに言われて鞄いっぱいに詰めてきた、パン焼き窯の灰。これを投げれば、目眩ましくらいにはなるかもしれない。
ノラは左手にも灰を握り、時を待った。1歩、また1歩とリッキーのブーツが近付いてくる。リッキーの足は、テーブルのすぐそばで立ち止まった。
「さあ、出ておいで。美味しく料理してもらおう」
「えーい!」
リッキーがテーブルの下を覗いた瞬間、ばっくりと大きく開いたその口に向かって、ノラは思い切り灰を投げつけた。
「わっ……!」
するとどうだろう?顔面に直撃を受けたリッキーの体は、みるみる小さくなり……
「……魚」
山吹色の、へんてこな形の魚になってしまった。辺りを見回すと、銀色の灰を浴びた悪魔はみんな魚になり、明るい床の上をびちびちと跳ね回っていた。
「料理しようか?」
ノラが目を白黒させていると、ビクスビーが階段を上ってやってきて、親切に申し出た。
『頼んでもいいが……私はグルメなパン焼き窯の悪魔。貴殿の料理で私の舌を満足させられるかな?』
ミライはビクスビーを挑発して、ノラをぎょっとさせた。
「包み焼き、から揚げ、悪魔パイ、マリネ、チリソース炒め、昆布締に刺身、煮込むのに時間がかかるけど、ブイヤベースもできるよ」
『ふむ。……そっちの5匹は貴殿に任せる。この黄色いやつは、そうだな……活け作りにしてもらおうか』
「はいよ」
ビクスビーは床の上を暴れ回る魚たちを、慣れた手つきで捕まえた。
「あ、あの……その青い子は、元に戻してあげて」
ノラはビクスビーに捕まった、青い魚を指して懇願した。魚の正体は、ノラとミライをテーブルの下に隠してくれた、鮮やぐ縹草の悪魔だ。彼は1番近くにいたので、もろに灰をかぶってしまったのだった。
『どうせ獲物を1人占めしようとしただけだ。元に戻せば、またお前を狙ってくる』
「意地悪言わないの。助けてもらったんじゃない」
ミライは反対したが、ノラはビクスビーの手から青い魚を助け出した。
「どうすれば元に戻るの?」
『……左右の胸びれを同時に引っ張るんだ』
ノラが青い魚の胸びれをぴんっと引っ張ると、辺りは銀色の煙に包まれ、青い魚は鮮やぐ縹草の悪魔に変身した。
「あなたのおかげで助かった……危うくこちらの御仁に喰われるところだった……」
鮮やぐ縹草の悪魔は、手袋をした手で額の冷や汗を拭った。
「魔学者殿は良い悪魔をお持ちだな。あの状況で主人を守り切るとは、大したものだ」
鮮やぐ縹草の悪魔はミライをよいしょした。『その手には乗らない!』と、ミライは横目でじろりとにらんだ。
「助けて頂いたお礼に、これを差し上げよう」
鮮やぐ縹草の悪魔は、懐から細い皮の袋を出して、ノラの手のひらの上に乗せた。皮の袋の中には、かぎ針が8本と、手芸はさみが入っていた。
「?……これは?」
かぎ針は金で出来ていて、木製の持ち手部分には、青い花のモチーフが彫刻されていた。手芸はさみは、切れ味がよさそうだった。
「見ての通り、裁縫セットだ。遠慮なく使ってくれ」
「あっ!ちょっと……!」
「機会があったらまた会おう。小さな魔学者殿」
鮮やぐ縹草の悪魔の肉体は、指先から小さな花に姿を変え、ぽろぽろと崩れ去った。かぎ針の持ち手に施された彫刻と同じ、青い花だった。
「行っちゃった……お礼もまだだったのに……」
後に残された薄藍色の花をすくって、ノラはがっかりと肩を落とした。
『主人のもとに帰ったのだろう』
「ミライが脅かすからでしょ」
鮮やぐ縹草の悪魔が消えてしまってから半時。4人用の広いテーブルの上には、ビクスビーが腕を揮った料理がずらりと並んだ。活け作りにされてしまったリッキーは、どろんとした瞳で虚空を見つめていた。
ミライは『待ってました!』と手を叩いた。
「……本当に食べるの?」
『もちろん、食べるとも。新鮮な悪魔料理は私の大好物だ』
ミライはぺろりと舌舐りし、ビクスビーが用意してくれた、小さなナイフとフォークを構えた。
「…………」
食欲を刺激する香ばしい香りを胸いっぱいに嗅ぐと、痛むほどにお腹が空いていることに、ノラは気が付いた。テーブルの上に並ぶのは、田舎育ちのノラが見たこともない、珍しい料理ばかりだ。ほかほかと湯気が立って、どれもとっても美味しそう……
『……お前は止めておけよ。人間が悪魔の肉を口にすれば、滅びの道が待っているぞ』
ごくりと生唾を飲み込んだノラに、ミライがすかさず注意した。
「い、いらないわよ」
怖くなったノラは、手近にあった皿をミライの方へ押しやった。確かにどの料理もおいしそうだが、材料のことを考えると、とても食べる気になんかなれない。
『このから揚げ絶品だ。こっちのスープも美味いぞ。舌がとろけるようだ!』
ミライはノラの見ている目の前で、遠慮なく料理にぱくついた。皿に盛られたリッキーはみるみるミライのお腹の中に消え、ついには頭としっぽだけになった。
ミライの食事が終わるのを待っている間、退屈なノラは1階の生け簀を観賞していた。ノラがしげしげと見ていると、ビクスビーの手によって、痩せて小さな魚が2匹、生け簀に追加された。
「このお魚は?」
ノラは脚立の上のビクスビーに向かってたずねた。
「桶を洗おうと思ったら、自分から飛び込んできたんだよ。喰いでがなさそうなんで、逃がしてやろうかとも思ったんだがな」
ビクスビーは指先で水槽を弾いた。
「この2匹は生前、恋人同士だったそうだ。尾ひれが千切れている方が男で、もう1匹が……」
ビクスビーは言いかけて口を噤んだ。
「……止めておこう。生きてる人間が、死後の世界なんて知るべきじゃない」
「?」
ビクスビーの顔色が変わり、ノラは首を傾げた。
「恋人同士かあ……」
ノラは生簀に額を張り付けて、生け簀の中の2匹の小魚をまじまじと観察した。2匹はぴったりと身体を寄せ合って、片時もそばを離れなかった。
「この子達も買える?」
「食べたいのかい?」
ビクスビーがにやりと笑い、ノラはぎょっとして首を左右に振った。
「……譲ってあげても良いけど、支払はどうするんだ?」
「あ……」
ビクスビーにたずねられたノラは、しゅんとした。魚を買うには、お金がいるのだ。
「仕方ないな。その鞄の中のもので良いよ」
「?……この灰のこと?」
「ああ。それを全部くれれば、この2匹を譲ってあげるよ」
「ありがとう!おじさん!」
ノラは鞄の中の灰を残らず、ビクスビーが持ってきた鍋に移した。
ビクスビーは生け簀から2匹の小魚をすくい上げ、桶に入れてノラに渡した。ノラはそれを湖のほとりまで持って行いって逃がした。2匹は寄り添って、湖の深い深いところへ潜っていった。
水の底へ消えて行く2匹を最後まで見送って、ノラは店に戻ろうと踵を返した。
「えっ……!?」
振り返ったノラは、ぎょっと目を剥いた。湖のほとりに建っていたはずの店が、忽然と消えていたからだ。
「ミライ!?」
店があった場所には、お腹を毬みたいに膨らませたミライが、ぐったりと横たわっていた。ノラは慌てて駆け寄った。
「ミライ!起きて!……ミライ!」
『うーん……もう食べられない』
「もう、なに言ってるのよ。……さあ起きて。馬車に戻るわよ」
ノラはミライをせっついた。
『?……馬車に戻る?どうして?』
ミライは寝転んだまま、不思議そうに首を傾げ、ノラを困惑させた。
「どうしてって、だって、早く帰らないと……」
『帰るって、どこに?』
ノラはぎくりとした。
「……家に決まってるでしょ!ミライまでおかしな冗談はやめてよ!」
怖くなったノラが、きっ!とにらみ付けると、ミライはくつくつと笑った。
『まわりを良く見てみろ』
ノラはぐるりと辺りを見回して、目を瞬いた。
「あ、あれ?」
湖も寂れた町並みもいつの間にか消え失せていて、辺りには見慣れた景色が広がっていた。道の先には、デムター・オシュレントン氏のお屋敷が見えた。
振り返れば少し離れたところに男爵夫人の馬車が停まっていて、アベルとマルキオーレが、柔らかな座席に沈み込んで、すやすやと寝息を立てていた。
「帰ってきたんだ……」
ノラは人知れず呟いて、はて?と首を傾げた。帰ってきたって、どこから……?
『ぐっすり眠っていたからな。おかしな夢でも見たんだろう』
不思議がるノラに、ミライは素知らぬ顔で言った。ミライの言うとおり、長い夢を見ていた気がするのに、内容はちっとも思い出せなかった。
『うーん、苦しい……』
ミライは起き上がろうと手足をばたばたさせ、諦めた。ノラはミライのお腹がぷっくり膨れていることに気が付いた。
「んもー、なにをそんなに食べたのよ?」
『面目ない……げぇっぷ』
ノラはミライを服の中に隠し、遅れて起きてきたアベルとマルキオーレと共に帰宅した。灰を入れたはずの鞄が、空っぽになっていることが不思議だった。
家に帰ると、ノラはズボンのポケットの中に、なにかが入っていることに気が付いた。
「…………」
手芸セットが入った見覚えのない皮袋と、小さな青い花。ノラはそれを、机の引出しの一番奥にしまい込んだ。