パン焼き窯の悪魔
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診療所から外に出ると、辺りはもう薄暗くなっていた。ノラはブルースに、荷馬車で家まで送ってもらった。
「あんまり気を落とすなよ。仕方がないことなんだから」
ロイは別れ際、しょげかえるノラをそう言ってはげました。
『いやな臭いがする』
暗い顔で部屋に入ってきたノラに、ミライが顔をしかめて唸った。
「いやな臭い?」
『血と暴力と、馬鹿な悪魔の臭いだ』
ミライは、『おお、臭い、臭い』と言って、ノラからささっと距離をとった。ノラはむっとしたが、同時に閃いた。そうだ!悪魔だ!
ノラはミライに北の森で見つけた少年のことを話し、助けてくれるように懇願した。
『だから近付くなと言ったのに……面倒に首を突っ込むんだ』
ミライはぶつぶつと文句を言った。
「助けてくれる?」
『ひと先ず、今から私が言うものを揃えてこい。腕輪の呪縛を解くんだ。話はそれからだ』
「わかった」
ノラは元気良く返事した。
『よろしい。ではまず、ワニナシの種を1つ、石榴の実を1つ。フサアカシアの枝、小麦を1握り、パン焼き窯の灰を少々……』
「ふむふむ」
『アメジスト200個、帝国金貨500枚、アウィス金貨2000枚。ぶどう酒を大鍋に一杯、生け贄の血を……』
「ちょっ……ちょっと待って……!」
『なんだ』
「そんなに無理だよ!」
『……無理なら諦めろ。私は見ず知らずの他人がどうなろうと知らん』
ミライは冷たく言い放った。
ノラは仕方なく、家中を探し回って代用品をかき集めた。ワニナシと石榴の代わりにソラマメ、フサアカシアの枝の代わりに刺繍針、小麦子の代わりに大麦、パン焼き窯の灰を小さじ一杯、綺麗な石ころ50個、ぴかぴかのオウィス銅貨1枚、ワインの代わりに、水で薄めたお酢……
『合っているのは灰だけじゃないか。なんだこの石ころは……』
「ただの石ころじゃないのよ。丸くて白いのだけ選んで集めてるの。ここまで集めるのに5年近くもかかったのよ」
『……こんながらくたで悪魔を使役しようとは、命知らずな……まあ良い。特別にこれで手を打とう。鍋の中にお前の血を1滴垂らせ』
ノラはフサアカシアの枝の代わりに用意した刺繍針で、自らの人差し指の先を突いた。ミライは顔をそむけて、『おお、痛い』などと呻いた。
「入れたよ」
『よし。では材料を全て鍋の中に入れろ。パン焼き窯に持って行くんだ』
ノラは言われたとおりに材料をすべて大鍋の中に放り込んで、パン焼き窯に持って行った。ミライは大鍋をパン焼き窯の中に入れてふたをした。
『腕輪をはめて、パン焼き窯に両手をかざせ』
「こう?」
『そうだ。では行くぞ。……私、ノラ・リッピーは』
「わ、わたくし、ノラ・リッピーは……」
『古き腕輪の呪縛を解き』
「古き腕輪の呪縛を解き……」
『封じられし悪魔に新たな肉体を与えるものとする』
「封じられし悪魔に新たな肉体を与えるものとするー!」
『…………』
「…………」
『…………』
「…………」
チーン!
ノラはミライにうながされて、おそるおそる窯のふたを開けた。窯の中には、銀色の小山が出来ていた。その上を青い炎がちらちらと踊っている。
ミライは炎にかまわず、灰の中から腕輪を取り出した。腕輪は乾いた木で出来ていて、軽く、光を受けると白馬の尾のように輝いた。
ミライは木の腕輪から灰を払うと、サリエリの腕輪がはまっている方とは反対の腕に付けてやった。
「どうなったの?」
『その腕輪が用済みになり、私は新たな肉体を得た。ソラマメなのは気に入らないが、良しとしよう』
「はあ……」
『古き腕輪の悪魔改め、私はパン焼き窯の悪魔。我が小さき主よ、なんなりと願うが良い。今日から私はお前の現金なしもべ!』
ミライは芝居がかった口調で、堂々と宣言した。
『手始めにそのいまいましい腕輪を粉々にして、髪飾りを作ってやろう。いっそ耳かきか靴べらにしてしまうというのはどうだ?』
「ミライ、そんなの後回しにして……」
『そうだな。お前の言う通りだ。せっかく自由の身になったんだから、もっと有意義なことをしよう。……そうだ!これまで私を粗略に扱ってきたやつ等を血祭りに上げてやろう!カリャンガの骨董商のおやじ……たったの300ピチで私を売っ払った。道端で私を拾った駄犬……全身よだれまみれになった。ハンノニアで元主を埋葬した愛人……一緒に墓に埋められて200年近くも出られなかった!待っていろ愚かな人間ども!目にもの見せてやるぞ!はははははっ!』
「ミライ、ちょっと落ち着いて……」
『これが落ち着いていられようか!主よ、共にカタシュタフへ行こう!あそこは良いぞ!水も風も、アヴロナリアとは違う!自由がある!』
「ミライ、ねぇ、時間がないんだってば」
『そうと決まればさっそく準備をせねばな。案ずるな、お前に不自由はさせん。お前はこの完全なるパン焼き窯の悪魔ミライの主。指1本動かす必要は……』
「ミライ!聞いてよ!……聞きなさい!!」
ノラは思わず声を荒げた。興奮していたミライはようやく我に返って、目をぱちくりさせた。
「んもう。ふざけてないで、早く行くわよ。手遅れになったらどうするの!」
『ああ……そうだった。小さき主よ。私をその死に損いのもとへ連れて行くが良い』
ノラはミライと共に、アルバート医師のもとへ向かった。アルバート医師は別室で書き物をしていたため、すんなりと病室に入り込むことが出来た。
『ひどい状態だ……このまま放っておけば、幾許もなくこと切れるだろう』
ミライは少年の様子を見て予測した。
包帯でぐるぐる巻きになった少年は、苦しげに呻いていた。見ていられなくて、ノラは視線を床に落とした。
「ミライの力で助けてあげてよ」
『無理だ』
「え!」
『手遅れだ。こうなったらもう、冥府の神にでも話を付けるしかあるまい。どうしても助けたければ、生け贄を捧げることだ。健康な若い美男子を……そうだな。100万人もいれば足りるんじゃないか?』
「100万人!!?」
ノラは仰天して、思わず大声を上げた。
『神の定め賜うた理を曲げようというのだ。それくらいで済めば安いものだ』
「そ、そんな……」
『なにを悲しむことがある。見も知らぬこの少年が死んだところで、お前にはなんの不都合もなかろう。高い代価を払ってまで助けることはない』
そりゃあ、そうだけど……でも!
「誰だ!」
ノラがミライに抗議しようと口を開いたその時、病室のドアがばたん!と開き、火かき棒を握ったアルバート医師が飛び込んできた。
「?……ノラ?どうしたんだ、こんなところで……」
「あの……私、この子のことが気になって……」
「そうだったのか。それなら一言声をかけてくれれば良かったのに……」
アルバート医師は、部屋の中にいるのがノラだと分かると、ほっと胸を撫で下ろした。
「ところで、今そこに誰かいなかったかい?」
「い、いいえ!誰も!」
「そうか……目の錯覚かな?」
アルバート医師は首をかしげつつ、頭をかいた。
「……先生、それは?」
ノラはアルバート医師が手に持っていた火かき棒を指した。
「ああ、これかい?暴漢から患者を守らねばと思って、とっさに握ったんだが……」
アルバート医師は恥ずかしそうに笑った。
「そんなことより、もう帰りなさい。夜に家を抜け出してくるなんて……エドモンとベスタが心配しているよ」
アルバート医師は、白い眉毛をぎゅっと寄せて怒った顔を作った。
「私、ここにいちゃだめですか……?」
病室を出る際、ノラはアルバート医師にたずねた。
「ええ?」
「だって……死んじゃうかもしれないんでしょ?この子……」
見知らぬ町で、たった一人で逝くなんて、あまりに哀れで……
アルバート医師は泣き出しそうなノラの顔を見て、ふーと長いため息をついた。
「……確かに、看取ってやる者が必要だ。こんなおじいさんよりは、若い女の子の方が良いだろう」
「じゃあ……!」
「ああ。……直ぐそこの憲兵詰所に行ってくるよ。連絡しないと、君のご両親が心配するからね」
アルバート医師は、上着を持って病室を出て行った。その際、アルバート医師はノラのために椅子を(脚の長さが揃わない、不安定な椅子だ。腰掛けるとぐらぐらする)用意した。そして徐に、少年の手を取って、ノラの手に重ねた。
「手を握っていておやり」
夜の9時くらいになると、オリオが2人分の夕食を持って訪ねてきた。はじめはノラを連れ帰ろうとしたが、少年の哀れな姿を見ると考えを改め、「しっかりやれ」と激励して引き上げて行った。
『諦めろ。そいつは助からない』
暗い病室で、少年の口元に手をかざして呼吸を確認するノラに、ミライは忠告した。ノラはミライの顔を陰気な目で一瞥して、深く長いため息をついた。
『当て付けがましいなあ。悪魔にだって、出来ることと出来ないことがある。……時々いるんだ。こういう道しるべを持たない魂は、戻って来られないんだ』
「道しるべ……?」
『生への執着だったり、死に対する恐怖だったり、未練だったり……魂をこの世に繋ぎ止める物のことさ。疲れ果てたのだろう。このまま見送ってやるのも、優しさだ』
ミライはそう言ったが、ノラには諦めることができなかった。ノラが頑固に少年を励まし続けていると、今度はミライが深いため息をついた。
『主人のたっての願いとあれば仕方がない……やるだけやってみるか』
「本当……!?」
『ああ。だが、ただという訳には行かんぞ。そうだな……その髪をもらおうか』
ミライが片手をかざすと、赤々と燃える暖炉の炎の中から銀色の灰が集まり、短剣の形に変化した。
『銀の刃で切られた髪は、短いまま、2度と伸びることはない。それでも良いなら差し出すが良い』
ミライは短剣をノラに手渡した。短剣はノラの手には大きく、ずっしりと重かった。
ノラは逡巡した後、髪を束ねて刃先を当てた。銀の刃は凄まじい切れ味で、柔らかな水を切っているような感触だった。
『……いいだろう』
ミライはノラの髪を1本だけ懐にしまうと、残りは灰に変えてしまった。
『お前は今晩片時もこの者のそばを離れず、魂を呼び続けろ。小さな光が地の果てに沈み、大きな光が顔を出すまで。この者が目を覚ますかどうかは、お前の声にかかっている』
「わかった」
『間違っても神様に祈るんじゃないぞ。……では、行ってくる』
ミライを見送ると、ノラは脚の長さが揃わない椅子に座りなおし、少年の手を握った。
その夜は、ノラの知らないところでたくさんの奇跡が起きた。
雪深い北の村では死産だと思われていた赤ん坊が大きな産声を上げ、日の光も届かぬ深い海の底では、何万という生命が突然に誕生した。東の森では不治の病に侵された村人たちが一斉に目を覚まし、西の国境近くの病院では瀕死の少年兵士が息を吹き返した。夜空をたくさんの星が流れ、月は煌々と輝き、世界はまるで真昼のように明るかった。助かった人々は、不思議がる家族や友人に、全ては悪魔ミライとその主、偉大なる魔学者ノラ・リッピーの仁慈によるものと伝えた。