御者と湖畔の料理店
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騒ぎ立てるミライを服の中に押し込むと、ノラは席を確保して、仲間たちが到着するのを待った。一番にきたアベルはノラの右隣に座り、それよりかなり遅れてやってきたマルキオーレが左隣に。クリフォードはお説教がはじまる5分前に駆け込んできた。
「あー!マルクに負けた!絶対間に合ったと思ったのに!」
クリフォードは席が埋まっているのを見ると、悔しそうに叫んだ。
「残念でしたー。マルクの方が1分早かったよ」
マルキオーレは得意顔をした。ノラとアベルはくすくす笑った。
「ちぇー」
クリフォードは仕方なく、マルキオーレの隣にお尻半分で座った。クリフォードが席につくと、それを見計らったように、近くの席の大人たちが集まってきた。
「親父さん、退院したってな。おめでとう」
「一時はどうなることかと思ったけど、回復して良かったわね」
「フォスターは本当に良い子を持ったね。これからもしっかり面倒見ておやり」
クリフォードは次々に握手を求められ、そのたびに立ち上がって、感謝の言葉を述べた。みんながクリフォードと話したがったので、なかなか説教がはじめられず、困ったロドルフォ神父は3回も咳払いをした。
説教と孤児院の子供達による合唱が終わり、子供達は帰る時間になった。
「行きがけに親父が腹減ったなんて言うもんだから、朝食を作っていたら遅くなったんだ」
クリフォードは通路を歩きながら、今朝教会に遅れた理由を説明した。
「体はもうすっかりいいのに、入院している間に人の使い方を覚えたみたいでさ。あれしろこれしろって、うるさいんだ。嫌んなっちゃうよ」
そう言うクリフォードは、口を尖らせながらも嬉しそうだった。クリフォードが元気になったことを、仲間たちは心から喜んだ。
4人がおしゃべりしながら、教会前の道に出ようとした、その時だ。
「きゃっ!」
「あ!ごめん!」
後ろ向きに歩いていたクリフォードの背中が、馬車を待っていたレーチェの背中に、どん!とぶつかった。レーチェは前のめりに倒れこみ、クリフォードは慌てた。不幸中の幸いだったのは、男爵夫人が事故現場を目撃しなかったことだ。男爵夫人は大人たちと昼食会に参加するため、教会の中にいた。
「痛かったろ。怪我はないかい?」
クリフォードはレーチェを助け起こそうと、手を差し伸べた。とっさに文句を言おうとしたレーチェだったが、クリフォードの顔を見ると、思わず口を噤んだ。
2人の様子をそばで見ていたノラは、あちゃーと額に手を当てた。シルビアとカレンも気が付いたようで、唇をへの字にひん曲げた。
「怪我してるかもしれない。ちょっと見せて」
「き、気安く触らないで……!」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ。ほら、手出して」
クリフォードはレーチェの腕を強引に取って、怪我の有無を確認した。真剣な瞳で手のひらを覗き込むクリフォードを、レーチェは目を皿のようにして見つめた。
「少し擦り剥いてる。……待ってて、アルバート医師を呼んでくるから」
そしてクリフォードが顔をあげると、レーチェはぽっと頬を赤らめた。ノラは内心でため息を吐いた。
クリフォードは教会へ走って行って、アルバート医師を連れて戻ってきた。アルバート医師は常に持ち歩いている鞄の中から道具を取り出し、レーチェの傷を手当てした。
「心配いらないよ。2、3日中には綺麗に治るだろう」
アルバート医師がしっかりと保証すると、クリフォードはほっと一安心した。
「良かった。ありがとうございました、アルバート医師」
クリフォードは濡らした手拭いで、土で汚れたレーチェの腕や膝を綺麗にしてやった。その頃には、レーチェはすっかりクリフォードに熱を上げ、彼の一挙手一投足を、とろんとした目付きで追っていた。
「ずいぶん念入りじゃないの。私が怪我したって、唾つけときゃ治るって言うくせに」
ノラはやっかみ半分で冷やかした。
「変なこと言うなよ。俺のせいで怪我したんだぞ。……俺、屋敷までこの子を送って行くよ。じゃあなみんな」
クリフォードとレーチェを乗せた馬車が行ってしまうと、教会から御者のリッキーが出てきた。
「ありゃ?レーチェお嬢様は?」
リッキーはきょろきょろと辺りを見回して首を傾げた。
「クリフが送って行ったよ」
「そうなの?まいったなあ、奥様からお嬢様を送り届けるように言われてるんだけど……」
リッキーは困り顔で頭をかいた。
「仕方ない、急いで後を追いかけよう。……君たち、途中まで乗って行くかい?」
リッキーはノラとアベルとマルキオーレを誘った。3人は顔を見合わせた。
「いいの!?」
「もちろん、どうぞ」
3人はリッキーの気が変わらないうちに、いそいそと馬車に乗り込んだ。ミライが洋服の中で暴れたが、ノラは無視した。
男爵夫人の箱馬車は、子供達の想像以上に、贅沢で気が利いていた。
「見ろよ!俺の顔が映ってる!」
「このソファふかふかだ!男爵夫人の席はどこだろう?」
3人はぴかぴかの車体に興奮し、座席の柔らかさに驚き、馬車が発進すると、その走りの滑らかさに感動した。
馬車が走りはじめて5分もすると、あまりの心地良さに、アベルとマルキオーレはうとうとしはじめた。ノラの頭も次第にぼんやりとしてきた。
3人が船を漕いでいる間も馬車は順調に走り続け、窓外の景色は次々に移り変わった。鮮やかな緑の野山は雪景色に変わり、月が昇ったかと思えば、静かな車内を夕日が照らした。生い茂る木々は町並みになり、道は川になり、空に浮かぶ雲は旅鳥の群れになった。
『起きろ!目を覚ませ!』
ノラがミライに蹴り起こされた時、馬車は巨大な氷の上を走っていた。
「うーん……えっ!?」
眠りから目を覚ましたノラは、窓外の景色を見て、ぎょっと目を剥いた。空は黄緑色で、6月だというのにちらちらと雪が舞っていた。どこからか、どーん!と、流氷がぶつかり合う音が聞こえてきた。
「ア、アベル!マルク!2人とも起きて!」
ノラは慌てて、アベルとマルキオーレを揺り起こした。2人とも死んだように眠っていて、目を覚ます気配はなかった。ノラはぞっとした。
「ね、ねぇ、ここは……」
どこなの……?ノラが呆れ顔のミライにたずねようとした、その時だ。馬車がゆっくりと停車して、ノラは身構えた。
こつこつ。
しばらくして馬車の窓が叩かれた。御者のリッキーが、車内を覗き込んでいた。ノラはごくりと唾を飲み込んだ。
『灰を握っておけ』
ノラの肩先に立ったミライは、そっと耳打ちした。ノラは言われたとおり、そろそろと鞄の中に右手を突っ込み、パン焼き窯の灰を握りこんだ。
馬車を降りてみると、そこは大きな湖のほとりで、ノラはぱちぱちと目を瞬いた。先ほど馬車の中から見た巨大な氷の塊は、どこにも見当たらなかった。空は海のように真っ青で雲1つなく、足元には緑の絨毯が広がっていた。湖の向こう側に、寂れた町並みが見えた。
ノラ達が馬車を降りたすぐ近くに、釣りをしている男がいた。小太りの、どこにでもいそうな男だった。男の傍らには水を張った桶が置かれ、その中を魚が5匹、元気よく泳ぎ回っていた。
「やあビクスビー。釣れてるかい?」
リッキーは小太りの男……ビクスビーに近付いて行き、気安い調子で話しかけた。
「ああ、あんたか。……大漁、大漁。ちょうど大きいのが釣れたところだ。食べてくだろ?」
ビクスビーは桶の中の1番大きな銀色の魚を捕まえて、得意げに掲げた。
「どうしようかなあ?今、連れと一緒なんだ」
リッキーはノラの方をちらりと見やった。
「そう言わずに、食べて行きなよ」
ビクスビーはしつこく誘った。
「あんた好みの、欲深なやつだよ。名前はドッティ・ミラード。若い頃に愛人のもとで経験した甘い生活が忘れられずに、兄弟や知人に借金してドレスや宝石を買い漁り、首が回らなくなって自殺したそうだ」
「そりゃ確かに美味そうだ。……後でもらうよ。ソテーにしておいて」
リッキーとビクスビーの会話を聞いたノラは青ざめ、ミライは『げぇ』と顔をしかめた。よく見れば、ビクスビーが釣り糸の先に付けていたのは、虫ではなく真珠の耳飾りだった。傍らに置かれた餌箱には、ネックレスや宝石、金貨や銀貨などが入っていた。
「老いさらばえても、こんなもんが欲しいかね?女ってのは」
ノラの視線に気づいたビクスビーは、皮肉っぽく言って、真珠の耳飾りがついた釣り糸を湖に投げた。
怖くなったノラは、慌ててリッキーの後を追った。
リッキーの案内で、ノラとミライは湖のほとりに建てられた店に入った。
田舎風の、なかなか良い店だった。4人用のテーブルが、1階と2階、合わせて14卓あり、吹き抜けになっていて、2階の客席から下の客席の入り口側半分が見渡せた。1階の真ん中には大きな生け簀があり、澄んだ水の中を、銀色の魚が泳ぎ回っていた。
店内には7人のお客がいて、それぞれ新鮮な魚料理に舌鼓を打っていた。彼等はリッキーに連れられて入ってきた珍客を、食事する手を止めて、物珍しそうにうかがい見た。
「いらっしゃい。ご注文は?」
3人が席に着くと、カウンターの方から女性が近付いてきた。女性はノラの目の前に、メニューを開いて置いた。メニューには、不貞を繰り返して恋人に殺された男のフライや、夫を寝取られて自分で自分の顔を焼いた狂女の塩蒸し、業突く張りの金貸しのつみれ汁などがあった。
「今日のお勧めはお喋り女のムニエルよ。生け簀の中から選んでくれても良いわよ」
ノラが固まっていると、女性は親切に説明した。ノラが青い顔でメニューを閉じると、女性は席を離れて行き、リッキーは不思議そうに首を傾げた。
「食べないの?」
「い、いらない……」
「君じゃなくて、彼に聞いたんだ」
リッキーはミライを指差した。
『この悪食め。人間の魂なんて、誰が喰うか』
ミライが罵ると、リッキーは目を丸くした。
「そうなの?……俺はてっきりお前のことを、小さな子供を騙して魂を喰おうとする、血も涙もない悪魔なんだと思っていたよ」
リッキーが告白すると、ミライは『心外な!』と腹を立てた。
『私は忠実なパン焼き窯の悪魔。主を騙してその魂を喰おうなどとは、夢にも思わん』
「主?このおちびさんが、お前の主人だと言うのか?」
ミライは胸を張って、『いかにも』と頷いた。
「これは驚いた。こんな小さな魔学者は見たことがない。……さてはお前、生まれたばかりの赤んぼだな?かわいそうに……パン焼き窯の悪魔なんて、けったいな名前を付けられたもんだ」
リッキーはミライをよくよく哀れんだ。ミライは全身の毛を逆立て、大きな尻尾をぶんぶん振りまわした。
『私のことは放っておいてもらおう!……そういうお前は誰なんだ!怪しいやつめ!』
「俺か?俺は仰ぐ誰時星の悪魔だ」
リッキーは少々自慢げに自己紹介をした。