新たな事件
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放課後になると、ノラは1人でクリフォードの家へ向かった。
学校から西に向かっててくてく歩き、2時間近くかけて、ノラはクリフォードの家の前までやってきた。小さな平屋の家は、光の加減か、いつもよりひっそりして見えた。
ノラが何気なく玄関の前に立つと、ドアの向こう側から、どたどたどた!という音がして、クリフォードが血相を変えて飛び出してきた。
ノラは飛び上がって驚いた。
「あ、あの、私……」
クリフォードは訪問者がノラだとわかると、がっかりした。彼の肩越しに、入口を入って直ぐのキッチンが見えた。どことなく雑然としていて、ノラは不思議に思った。
「……奥で親父が寝てるんだ。静かにな」
クリフォードは身体を半分ずらして、ノラを部屋の中に招き入れた。
クリフォードはテーブルに散らかったパンくずをかき集め、零れたミルクを布巾で拭いてから、ノラに椅子を勧めた。
ノラはこっそりと室内の様子を見まわした。
「…………」
いつもと違うのはせいぜい、テーブルに花が飾られていないとか、朝食の食器が出しっぱなしになっているとか、そのくらいだったが、室内には不穏な空気が漂っていた。奥の部屋からはフォスターの高いびきと一緒に、きついお酒の臭いがただよってくる。
「もしかして、寝てないの?」
ノラはクリフォードの瞼の下にくっきりと浮き出した、濃いくまを指してたずねた。クリフォードは疲れ果てた様子で、「ああ……いや、うん……」と言葉を濁した。
「……4日も学校をお休みするなんて、なにかあった……?」
ただごとではないと覚ったノラは、恐る恐るたずねた。
クリフォードは長い時間、ノラの質問に答えようとしなかった。彼は陰気な瞳でテーブルの木目を見つめ、ふと思い出したように顔を上げ、口を開きかけては、静かに首を左右に振り、両手で顔面を覆った。
フォスターのいびき以外室内に音はなく、とても静かだった。時折クリフォードの唇から零れるため息が、やけに大きく響いた。
ノラははやる気持ちを抑えて、クリフォードが口を開くのを根気強く待った。5分が経ち、10分が経ち、半時も経ったころ。
「……あの人が、帰ってこないんだ……」
長い葛藤の末、クリフォードは消え入りそうな声で呟いた。あまりに小さな声だったので、危うく聞き逃すところだった。
「……昨日の朝起きたら、もういなくてさ……おかしいと思ってタンスの中を見たら、あの人の服が全部なくなってて……」
クリフォードが落ち着き払った口調で打ち明けた。ノラはしばらく、『あの人』が誰なのかわからず、考え込んだ。やがて思い至ると、ノラは青くなった。
「そ、それって、カティナ……?」
クリフォードが力なく頷き、ノラは息を呑んだ。
カティナ・ジョイマンは、クリフォードの母親だ。まだ30歳と若く、少女のような風情の、美しい女性。
「親父は知ってたみたいなんだよな……変だと思ったんだ。突然出かけようなんて……」
クリフォードは嘆息して頭を抱えた。項垂れる彼を、ノラは言葉もなく見つめた。
「前の晩に、大喧嘩してさ。だから罪滅ぼしのつもりなのかなって……仲直りして、また3人で1からやり直すんだって……」
「…………」
「でも、違った……」
事情を話すうちに、クリフォードの声はだんだんと涙声に変わった。彼の瞳からぽろりと一粒涙がこぼれると、ノラは狼狽した。
「思い出作りだったんだ。一昨日、親父は1滴も酒を飲まなかったし、あの人はにこにこしてた。ちょっと考えればわかるよな。どうして気付かなかったんだろうな?」
自嘲気味に言うと、クリフォードはとうとうテーブルに突っ伏して泣き出した。
「浮かれてたんだ。家族で出かけることなんて、なかったから……」
「…………」
「連れてって、もらえなかった……!」
声を殺して涙するクリフォードを、ノラはただただ見つめていた。なにか言わなければと思うのに、戸惑うばかりで、慰めの言葉一つ思い付かなかった。
「しばらく学校は休む。親父が心配だから」
半時ほどして泣きやんだクリフォードは、玄関先でノラを見送って言った。
「クリフ……」
「ん?」
「大丈夫……?」
ノラがたずねると、クリフォードは甘く微笑んだ。
「お前がきてくれて助かった。……ごめんな、変なとこ見せて」
ノラは首を横に振った。
「そう言えば、なにか用事があったんじゃないのか?」
「いいの。……その、また遊びに来ても良い?」
「もちろん。いつでも来いよ」
クリフォードの家に行った帰り道、ノラはお屋敷に立ち寄った。
お屋敷の庭にはデムターさんがいて、馬車回しの縁に腰かけて、しょんぼりと肩を落としていた。
「やあ、ノラ……せがれに会いにきてくれたのかい?」
ノラはこっくりと頷いた。
「あの、マルクは……?」
「それが……部屋にこもって、一歩も外に出てこないんだ。まるで人が変わったようだよ」
デムターさんは胸に溜まった空気を、長い時間をかけて吐き切った。
「どうして気が付かなかったんだろうなあ……2人きりの親子なのに……他にも、私に言えずにいることが、たくさんあるのかもしれない……」
その日は結局、マルキオーレには会えなかった。
夕方。ノラは家に帰宅すると、ねずみのミライにカティナの件を相談した。
『やれやれ、また人助けか。お前はもしかして、あれか?英雄にでもなるつもりか?』
ミライは呆れたため息をつくと、胡散顔でノラをにらんだ。
『てっとり早く怪物でも出してやろう。人喰い虎の鋭い爪をひらりひらりとかわし、見事その首を打ち取る様を皆に見せ付ければ良い。人々は伏してお前に感謝し、教会の壁画には新たにお前の肖像画が加えられ、広場に銅像が立つ』
「んもう。冗談ばっかり言ってないで、話を聞いてよ」
ノラが口を尖らせると、ミライは鬱陶しそうに眉を寄せた。
『ふん。その女は自分の意思で出て行ったんだろう?私の力で呼び戻しても、また直ぐに出て行くさ。記憶を残らず消し去ってしまえと言うなら、話は別だが?』
ミライは図星をついた。嫌味な言い方!と、ノラはむっとした。
『何度も言うが、他人のために悪魔と取引するべきではない。そのカティナとかいう女は、お前の友人ですらないではないか。お前はこの町の人間の願いを全て叶えるつもりか?』
「そういうわけじゃないけど……」
カティナはクリフォードのお母さんだ。さよならも言えずにお別れなんて、悲しすぎる。
ミライは今にも泣き出しそうなノラを見て、はーっとため息をついた。
『……叶えてやっても良い』
「本当?」
『ああ。だがその代わりに、お前の母親を差し出せ』
「えっ……」
ノラはぎくりとした。
『出来ないなら、この話はなしだ』
ミライは動揺するノラを目を細めて見て、煙となって消えてしまった。
カティナが町を出て行ったという噂は、翌日の土曜日には、町中に知れ渡っていた。
午前中、ノラが両親と共に買い物に行くと、農民市場はジョイマン家の醜聞でもちきりで、お屋敷の泥棒事件が遠い昔の出来事のように思えた。
「パーラーのご主人が、朝早くこそこそ家を出て行くのを見たんですって。大きな荷物を持ってたって」
女たらしのヒューゴ・キャンピオンの母親の、エロイーズ・キャンピオンが囁くのを、ノラは母のお尻の陰から聞いていた。
「昨日の朝でしょう?そういえば町の入口に、ずいぶん立派な馬車がとまってたわ」
「言わないでおこうと思ったんだけど、隣町で何度か見たのよ。カティナが男の人と一緒にいるところ。このあたりでは見かけない男だったわ」
さんさん牧場のアギー・ワイアットとアガタの母親のベリル・デビが口々に言った。
「クリフォードはかわいそうにねぇ。あんな良い子を置いて行くなんて……」
「ねぇノラ、あんたクリフォードとは仲良しだろ?なにか知らないかい?」
ライラ・ポワソンが、母の背中にノラを見つけてたずねた。ノラはとっさに、『知らない』とうそをついた。
奥さんたちのうわさ話を聞いているうちに、ノラはだんだん心配になってきた。
今頃、クリフォードはどうしているだろう?望みを捨てられずに、あの雑然とした部屋で1人、カティナの帰りを待ち続けているんだろうか?
「ノラ、今日はお掃除を手伝ってちょうだい」
午後になり、アベルと一緒にクリフォードの家へ向かおうとしていたノラは、出かける寸前になって母に手伝いを申し付けられた。
「えーっ」
「あら、なあにその顔は。もとはと言えばあなたのせいなのよ」
仕方なく、ノラはクリフォードのお見舞いをアベルに任せ、母と一緒に壁やドアの泥をこすり落とした。
何10回も井戸と家の前の道を往復し、へとへとになった頃。クリフォードの家からアベルが戻ってきた。
「案外元気そうだったよ。ベンやデイビッドも来ていてさ。戦車を見せてもらったんだ」
「そう……」
「ノラが来られないって知ったら、がっかりしてたよ」
翌日の日曜日、ノラは家族とともに教会へ向かった。
神父様の説教がはじまる時間になっても、クリフォードは礼拝堂に現れなかった。シルビアやカレン達も心配しているようで、何度もドアの方を振り返っていた。
マルキオーレも来なかったので、ノラの隣には2人の代わりに、ヘルガが座った。
優しいヘルガは、ノラが大変な時にそばにいられなかったことを悔いていた。
「サリエリは本当にあなたのことが好きなのね」
「え……?」
「友達のために我が身を差し出すなんて、なかなか出来ることじゃないわ」
ヘルガは言いながら、前の席を指差した。ヘルガの指の先にはサリエリがいて、身体ごと振り返ってノラを見ていた。ヘルガが手を振ると、サリエリは慌てて前に向き直った。
それは説教の間の、休憩時間のことだった。
ノラが裏の手洗いから戻ってくると、教会の前のメタセコイヤの陰で、孤児院のソニア・アンダートンが待ち伏せしていた。
「なんてことしてくれたのよ!」
ソニアはノラを捕まえて、出し抜けに喚いた。
「サリーが帝都に行っちゃったら、あんたのせいよ!」
なんのことかと思えば……ノラは呆れた。サリエリが大好きなソニアは、デムターさんの援助おかげで、彼が国立魔学校に入学できることになったのを怒っているのだ。
「今からそんなに大騒ぎしなくても……行くのは来年よ。それに、一生会えなくなるわけじゃないわ。ちょっとの間よ」
ノラが慰めると、ソニアはいっそう視線を険しくした。
「わかってないわね。この町を出て帝都で暮らせるのよ。一度出て行ったらこんな町、誰が帰ってくるもんですか」
ソニアが断言して、ノラは首をかしげた。
「どうしてそんなこと思うのよ?」
「私だったら2度と帰ってこないからよ!」
ソニアはひどい剣幕で怒鳴った。ノラは面食らった。
「私だけじゃないわ。運よくどこかに貰われていった子は、みんなひた隠しにするのよ。孤児だったことなんか忘れたいし、最初から良い家の子供だったんだって思いたいもの。……サリーだって同じよ。やっと出て行けるんだから……」
ソニアは打って変わってしょんぼりした。
「私達はこの町の生まれじゃないの。みんなあぶれたり、元の場所を追い出されたりして、どこかから連れてこられたの。帰ってきたって、タリスン院長に厄介者扱いされるのが関の山よ」
「…………」
「……この町には、嫌な思い出ばっかり。少なくとも私はそう」
ソニアは吐き捨てるように言った。
『哀れなやつだ』
ノラはミライの言葉を思い出した。
「とにかく、私はあんたを許さないわよ。復讐してやるからね」