行き倒れの少年
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『もう大人になったか?』
翌朝ノラが目を覚ましてみると、見知らぬ人物がノラの顔をじーっと覗き込んでいた。驚いて飛び起きたノラは、昨夜の出来事を思い出した。
(そうだった……)
サリエリの腕輪から出てきたへんてこな悪魔だ。ろうそく立を直してもらった交換条件に、付きまとわれることになった。
『まだ小さいなあ……いつになったら大人になるんだ?』
「そんなの、知らない」
『ふむ』
悪魔はノラをベッドから起こすと、よっこらせと、危なげなく抱き上げた。
「な、なにするの……!?」
『早く大きくなるように、かわいがってるんだ』
悪魔はノラの頭を撫でてにっこりした。ノラは疲れの滲むため息をついた。
「……ねぇ、あなたは何者なの?」
頬を寄せてくる悪魔に、ノラは胡散顔でたずねた。
『私は古き腕輪の悪魔だ』
「そうじゃなくて……どうしてサリエリの腕輪の中にいたの?」
『それは逆だ。私が封じられていた腕輪を、あいつがはめたんだ』
「ふぅん……?じゃあ、名前は?名前はないの?」
ノラの質問に、悪魔は首をかしげた。
『私はこれまで、様々な名前で呼ばれてきた。お前も好きに呼ぶと良い』
「じゃあ、パン焼き窯のパン」
『……ミライと呼べ。私が持つ数え切れない名前の一つだ。一番気にいっている』
パンがよほど嫌だったのか、悪魔はすかさず訂正した。
『町のはずれに、おかしなものが入り込んだようだ』
ノラが学校に出かける支度をしていると、目を細めて窓の外を見つめていたミライが、唐突に言った。
「おかしなもの?」
『ああ。弱々しい気配だが、確かに感じる。この臭いは霊か魔物か、神々の類か……いずれにせよ徒人ではないな。こういうモノとは、関わり合わない方が良い』
ミライは流れ込んでくる、凛と張り詰めた空気を吸い込み、くすくすと笑った。不気味に笑うミライを見て、ノラは嫌な顔をした。
「……ねぇ。そういえばあんた、サリエリのとこに帰んなくて良いの?」
『なに?』
「だって、サリエリの腕輪の中にいたってことは、あの子があんたの元の持ち主でしょ?急にいなくなって、心配してるんじゃない?……腕輪、返そうか?」
『あんな恩知らずのことなど知らん』
ミライは口を尖らせた。むくれるミライを見て、ノラは首を傾げた。2人の間になにがあったんだろう?腕輪をお便所に落としたとか?
『北の森には近付くなよ』
着替えを終えて部屋を出て行くノラに、ミライは不満顔で忠告した。
いつもより早く起きたため、1階のダイニングにはまだ父とオリオもいて、のんびりと朝食をとっていた。父は先日よろず屋で手に入れた地方新聞を読んでいた。
「なにか面白い記事がある?」
ノラがたずねると、父は「そうだなあ……」と言って、数ページめくった。
「たいした事件はないね。……ああ、でも、ちょっと待てよ。たしかゴシップ欄に興味深い記事がのっていたっけ」
父は新聞の細かい文字を指先でなぞった。
「この記事によると、皇帝陛下のご正室のナラシャラ妃殿下には、亡くなられたエリオット殿下のほかに、もう1人皇子がいると言うんだ。幼い頃に臣下の家に預けられ、今は市井で暮らしているんだって。公正大衆党ではその皇子を探し出して、対立候補に立てようという動きがあるらしいよ。どうだい、まるでおとぎ話みたいな話だろ?」
「対立候補って?」
「その市井の皇子とアンリ殿下が、次の皇太子の座をめぐって競い合うということさ。皇太子っていうのはつまり、次の皇帝陛下になられる方だ」
「へぇー」
「ノラももう少し大きくなったら、新聞を読むと良いよ。挿絵の切り抜きを集めるばかりじゃなくね」
「はあい」
ノラは父とオリオにくっ付いて、乗合馬車で学校へ向かった。御者を務めるダニエルは男盛りの28歳で、恋人はウィナー大農場の1人娘、キャスリーン・ウィナー。馬の扱いにおいて彼の右に出る者はなく、創立者祭の戦車レースでは、1位の座を決して譲らない。
「おはようノラ。今日は早起きだな」
運賃の50ピチを支払って馬車に乗り込むと、先に乗っていたお隣のカシマ・カルカーニが声をかけてきた。カシマはオリオと同じ銀行に勤めているが、見習いのオリオとは違って、正式な銀行員だ。
「おはよう、おじさん。今日はおばさんは?」
「まだ寝てるよ。……今日はだめな日みたいだ」
カシマの奥さんのアンジェラ・カルカーニは痴呆の気があり、昨日の夕食の献立を覚えている日もあれば、旦那の顔を思い出せない日もある。だめな日……ということは、今日は覚えていない日なんだろう。
馬車の中には他にも、母の宿敵、メリダ・ランベル夫人のご亭主であり、父の同僚のロベルト・ランベルが乗っていた。彼は軽く片手をあげて、ノラに挨拶した。
ノラを乗せた馬車は、7時10分には学校に到着した。教室にはまだ誰もおらず、ノラは一番前の窓際の席に座ろうとして気が付いた。窓際の席は、もうノラのものではないのだ。
「…………」
ノラは苦々しい気持ちで椅子を戻すと、窓際から二番目の席に座った。
7時半を過ぎると、ガブリエラの馬車が到着した。ガブリエラは毎朝町の中を巡回して、家が遠くて通学が難しい子を拾ってくる。クリフォードやシルビア、ウォルソン姉弟やデイビッド・ホールドなんかがそうだ。
「かわいそうなノラ・リッピー。勉強だけが取り柄だったのに」
「天狗になっているから罰が当たったのよ。良い気味だわ」
シルビアとカレンは、教室に入ってくるなりノラが二番の席に座っているのを目敏く見付けて、聞えよがしな陰口を叩いた。
ノラはむっとしたが、直ぐに思い直してにやりと笑った。
「さっさと自分の席に着いたらどう?13位のカレン・ウォルソンと、びりから3番目のシルビア・グッドマン」
シルビアとカレンは、かっと顔を赤らめた。ノラが洋服のことでは言い返せないのと同じで、シルビアとカレンは成績をつつかれると弱い。
「こら。あんまりいじめるなよ」
ざまみろ!とほくそ笑んでいると、後から教室に入ってきたクリフォードが、軽くノラを注意した。
「なによ。悪口言われても黙ってろっていうの」
「俺は去年まで13位だったんだ」
「…………」
シルビアは一瞬だけノラの方に向かって勝ち誇った表情をして、クリフォードにそそくさと駆け寄って行った。
「おはよう、クリフォード。今日の約束、覚えてる?」
「おはよう、お2人さん。もちろんだよシルビア」
「学校が終わったら家の前で待ってるわ。おじい様が素敵なリボンを送ってくださったの。あなたに一番に見て欲しかったから、今日は付けてこなかったのよ」
シルビアはクリフォードを上目づかいに見て、黄色い声で言った。その様子を見守る、クリフォードに熱を上げている女の子達―――カレンや、アガタ・デビ、エレオノーレ・アレシ、トリシア・フォローズ……味噌っ歯のマチュー・オッケルもだ―――の表情には、焦りといらだちが見え隠れした。ノラも我知らず耳をそばだてた。
「じゃあ1時半には馬車で迎えに行くから、リボンを結んで待ってて」
クラス中の女の子達が注目する中、クリフォードが返事をすると、教室に衝撃が走った。あのシルビアが、クリフォードにデートの約束を取り付けるなんて!
「2人きりでお出かけなんて、いつ以来かしら?楽しみだわ!」
その1日、シルビアは目に見えて舞い上がっていた。自慢半分の相談で友人のカレンを辟易とさせ、クリフォードの恋人を気取って教室をしらけさせた。学校が終わる頃にはみんなうんざりして、誰もシルビアの話を聞かなくなっていた。
「よろず屋に注文していた本が、昨日届いたばかりなんだ」
放課後。ノラは友人のマルキオーレに、本を借りる約束を取り付けた。
「親父が、ノラにならいつでも貸して良いって」
マルキオーレの父であるデムター・オシュレントン氏のお屋敷には立派な図書室があり、高価な本がたくさん置いてある。よろず屋に新しい本が入ったり、町で面白い本を見つけると、デムターさんが買い入れて、書棚の端に入れておいてくれるのだ。真っ先に読めるのは、息子の親友の特権だ。
「本当に!?わあ!楽しみ!」
書棚にぎっしり詰まった手に汗握る冒険の数々を思うと―――悲しい恋の物語や、美しい挿絵もだが―――ノラの胸はいつも、言い知れない興奮に震えた。
「でも良いの?まだ誰も読んでないんでしょ?」
「良いの、良いの。親父も俺もどうせ読まないんだから」
勉強が嫌いなマルキオーレは、本を見ると眠くなると言って、宝の山が直ぐそばにあるのに、見向きもしないのだった。
ノラはマルキオーレとともにお屋敷に向かった。
お屋敷に到着した2人が、2階の図書室に向かうため、おしゃべりしながら階段を上っていると、上から人が降りてきた。
良く図書室で見かける老人だった。お月さまみたいに黄色い肌に、白髪が混じった灰色の髪。痩せぎすで、上着を着ているにも関わらず、その腕は枯れ枝みたいだった。
すれ違った際、つんと鼻を突くような、独特の香りが漂ってきた。ノラはその気難しい横顔を見た。意志が強そうな黒い瞳と目が合うと、ノラはぎくりとした。
「こ、こんにちは」
「ああ。こんにちは」
老人はにこりともせず、挨拶を返した。ノラとマルキオーレは立ち止まって、老人が出て行くのを見送った。
「良く親父に会いに来るんだ。あの人が笑ったところは、見たことがないよ。名前は……なんだっけ?」
ノラは図書室で目当ての本を借ると、マルキオーレにお礼を言っていそいそと帰路についた。
ノラが本を大事に抱えて屋敷を出ると、前方から荷馬車がやってきた。御者台に乗っているのはクリフォードと、シルビアだった。シルビアは道の先にノラを見つけると、クリフォードの肩にしな垂れて、ノラをつまらない気持ちにさせた。
クリフォードはノラの傍まで来て、わざわざ荷馬車を停めた。
「ごきげんようノラ。またお屋敷の図書室に行ってきたの?」
シルビアは御者台の上から身を乗り出して、ノラの胸に抱かれた本を覗き込んだ。
「そうよ。新しい本が入ったって言うから。悪い?」
「べつに悪かないけど……いくら現実が思い通りにならないからって、空想の世界に逃げ込むのって、どうかと思うわ。本の中の男の子に恋したって実りがないもの」
シルビアはクリフォードの腕に、いっそう体を密着させた。
「ねぇ。クリフォードもそう思うでしょ?」
「うーん……どうかなあ?」
クリフォードは曖昧な返事をして、ノラを苛立たせた。
「お言葉ですけどね。これは恋愛小説じゃなくて歴史小説よ」
ノラはふんっ!と鼻を鳴らして言い返した。ノラはクリフォードを一睨みすると、荷馬車を避けて道を歩き出した。
「送って行こうか?」
「結構よ。私このあと、とても大事な用があるから」
ノラがクリフォードの申し出を断ると、彼は荷馬車を反転させて、ノラの後を追いかけてきた。今度はシルビアがいらいらする番だった。
「大事な用って?」
「関係ないでしょ」
「教えてくれたっていいだろ」
クリフォードはつんけんするノラに食い下がった。
「本当は用事なんてないくせに」
シルビアが嘲るように言い、図星を指されたノラは顔を赤くした。
早く退散してほしいと思ったノラだったが、クリフォードとシルビアを乗せた荷馬車は、ゆっくりとした速度で、しつこく後を付いてきた。耐えかねたノラは、しばらく行ったところで脇道に逸れた。
「おーい!どこ行くんだ!?」
「もう放っておきましょうよ」
クリフォードとシルビアを乗せた荷馬車は、諦めてもと来た道を引き返して行った。
ノラがやれやれと思っていると、今度は農具を肩に担いだサリエリが、ふたまたに分かれた道の向こうから(アリンガム家の畑や、アダム家の畑がある方だ)えっちらおっちら歩いてきた。
サリエリは女の子を連れていた。名前はソニア・アンダートン。サリエリと同じ孤児院の子だ。ちびで痩せていて、つぶらな、アヒルみたいな目をしている。孤児院の子は学校には通っていないので(サリエリは特別だ)、ノラは1度も彼女と話したことがない。
サリエリとソニアが腕を絡めて歩いているのを見て、ノラは衝撃を受けた。あんな根暗のがり勉に、腕を組んで歩く友達がいるなんて……
(それも、女の子の!)
サリエリに気付かれそうになったノラは、慌ててもう一方の道に入った。こそこそせずに通り過ぎれば良かったと後悔したのは、けもの道を夢中で歩き続け、半時程も経った頃だった。
(どうしよう……)
いつの間にか森の奥深くに入り込んでしまったノラは、方角を見失い、おろおろして辺りを見回した。広いとはいえ、何度も遊びに来ている森だ。いつもなら道に迷うことなんてないのに……
ノラが途方に暮れていると、一匹の狐がノラの眼の前を横切った。狐はその口に、花を一輪くわえていた。その時はちっとも不思議に思わなかったが、花をくわえた狐が二匹、三匹、四匹と続くと、さすがに奇妙に思いはじめた。その後も、ノラの目の前をねずみやうさぎが横切ったが、みな口に花をくわえ、いそいそと森の奥へと消えて行った。
『北の森には近付くなよ』
ノラはふと、悪魔のミライの忠告を思い出した。彼等の後を付いて行けば、今朝ミライが言っていた『おかしなもの』の正体がわかる。
ノラは少し迷ったが好奇心に負けて、次に通りかかった蛙の後を(もちろん花をくわえている)付いて行くことにした。
「どっちへ行ったんだろう……?」
道なき道を歩くこと10分。蛙の姿を見失ったノラがぽつりと呟くと、ぶなの木や樫の木がざわめいて、いっせいに茂みの奥を指差した。これにはノラも驚いたが、次の瞬間には、森は元の静けさを取り戻していた。
ノラがしばらくぽかんとして木々を見つめていると、なにか硬く尖ったもので、背中が突かれた。振り返るとそこには花をくわえた牡鹿がいて、迷惑そうにノラを睨んでいた。牡鹿の後ろにはリスやトカゲや熊(……熊!?)が列を作っていた。
「あ、ちょっとっ……」
牡鹿はその立派な角で、ノラを茂みの奥へと押し込んだ。茂みの奥にはなんとも不思議な光景が広がっていた。
「…………」
開けた空間に、何十頭、何百匹の動物や昆虫達が集まっていた。日差しがさんさんと差し込む広場の中央には、色とりどりの花で―――ゆりや、水仙、野ばら、ゆきやなぎなど……夏の花も冬の花もごちゃ混ぜだ!―――小山が出来ていて、動物達は一列に並び、花を手向ける順番を待っているようだった。そして花を手向け終わった動物達は、どこか悲しげな瞳で花の小山の中心を見つめていた。
(お葬式なんだわ……)
しめやかな雰囲気に、ノラは漠然と理解した。あの花の小山の中心には、高貴な者の骸が横たわっているのだ。風変わりな参列者達は、食べる方も食べられる方も一様に、彼の死を悼んでいる。証拠に、すずめやひばりが声高らかに、お別れの歌を合唱している。
ノラはせっかちな牡鹿に突かれて、列の最後尾に並んだ。ノラの直ぐ前には鳩が並んでいて、カモミールをくわえていた。
とうとう自分の順番がやってくると、ノラはまごついた。肝心の花を持っていない。ノラが花の小山を前におろおろしていると『早くしろ』と後ろの牡鹿が背中を突いてきた。
仕方がないから、このままそっと列を外れよう。ノラが一歩を踏み出そうとすると、奇妙なことが起こった。
「えっ……!?」
地面に伸びたノラの影がひとりでに動き出し、うやうやしく跪いたのだ。ノラの影はノラに代わって捧げ物をした。はっとして視線を戻すと、そこにはシロツメクサにすみれをあしらった、見事な花輪が供えられていた。
ノラは視線を上げて、花の小山の中心をまじまじと見た。白い大理石の寝台に、美しい少年が横たえられていた。その黄金に輝く髪や、薔薇の蕾のような唇に見惚れていたノラは、形の良い眉が苦しげに寄せられたのを、見逃さなかった。
(生きてるの……!?)
ノラは花をかき分けて寝台に近寄ると、少年の口元に手を持っていった。動物達は耳をや鼻をぴくぴくさせて、様子をうかがった。
「まだ息がある……!」
ノラが声高に叫ぶと、興奮した動物達は吠え、鳴き、唸り、嘶いた。
ノラは一目散に広場を飛び出した。森の木々や草花は、少年の命を救おうとひた走るノラのために道を開けた。
小鳥達の先導のおかげで、ノラは5分もしないうちに森の出口にたどりついた。
「助けて!助けて!」
ノラは一番近くのアリンガム家の畑に着くと、遠くに見える人影に向って夢中で叫んだ。
ノラが助けを求めたのは、ロイ・アリンガムだった。兄のオリオより1つ年下の15歳で、学校には通わず、家の仕事を手伝っている少年だ。
「ノラじゃないか。どうしたんだ?」
「森の奥で誰か倒れてるの!」
「なんだって……!?待ってろ。直ぐに親父を呼んでくる」
ロイは大慌てで父親のブルース・アリンガムを呼びに行った。
ノラは駆け付けてきたブルースとロイとともに、森の奥へと急いだ。
「この茂みの向こうよ!」
ノラは一番先に茂みに飛び込み、そして驚いた。
(あ、あれ……!?)
動物達はいなくなり、大理石の寝台も、花の小山もなくなっていた。
首を捻ったノラだったが、広場の中心に血だらけの少年が倒れているのを発見すると、記憶の中の不思議な光景は夢か幻のように消え去り、しまいには何に驚いていたのかさえ忘れてしまった。
「こりゃひどい……すぐアルバート医師のところへ連れて行こう!」
ブルースとロイは少年を協力して荷馬車に乗せ、町の診療所へ連れて行った。
「……出来るだけのことはしてみるが、おそらく助からないだろう。目に見える切り傷の他にも、身体のあちこちに打撲や火傷の痕がある。熱も高いし……今夜が峠だ」
少年を診たアルバート医師は、残念そうに首を振った。ノラは憮然として、包帯だらけの少年を見つめた。少年はベッドの上で死んだように眠っていた。