古き腕輪の悪魔
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「だ、だれ……!?」
なんとも奇妙な声だった。男の声でも、女の声でもない。子供のようでも、大人のようでもない。早朝の町に響き渡る鐘の音のような、じーんと空気を震わせる、そんな声だ。
ノラは恐ろしさに身構えた。回れ右して、家の中へ逃げ込もうとしたその時。
『私は古き腕輪の悪魔』
とつぜん窯のふたがバタンッ!と開いて、中からきらきらした灰と一緒に、銀色の煙が噴き出した。銀色の煙はもくもくと立ち上り、ついには人の形になった。
『起こしたからにはなにか願いがあるのだろう。言ってみろ』
人の形をした煙は、ノラの間抜けな驚き顔に向かって、威張って言った。
「べつに、願いなんかないわ」
『なんだと?』
「私はただ、腕輪を燃やしてやろうと思っただけよ」
ノラは正直に告白した。
『用もないのに私を起こすとは、不届きなやつ。しかしせっかく出てきたのにただ戻るのもつまらん。願いごとを言ってみろ』
ノラは困惑した。そう言われても……
「他の人は、どんな願いごとをしたの?」
ノラが質問すると、悪魔は誇らし気に、大きくふくれ上がった。
『富を望むものには、一生では使いきれないほどの金を出してやった。知恵を願った者には、世界の成り立ちを見せてやった。力を欲したものには、一振りで国を滅ぼせる剣を鍛えてやった。さあ、お前はなにを願う!』
「うーん……そうねぇ……」
『金が欲しくはないか?その手に持ちきれないほどの金貨を出してやるぞ』
ノラは母に『どうしたの!?このお金は!』とつめ寄られているところを想像し、ふるふると頭を振った。大金なんてもらったら、説明に困って大目玉を食うのが落ちだ。お使いのお駄賃をもらっただけで怒られるんだから。
『では、神のようにこの世の全てを知りたいとは思わないか?お前を虐げた愚か者達を、見返してやりたいと思わないか?』
「そう言われてもねぇ……?」
そういうのは、お馬鹿のベン・ウォルソンかマルキオーレに言ってやると良い。
興味を示さないノラを見て、悪魔は考え込んだ。
『……ならば、愛はどうだ』
「?……愛?」
『そうだ。今まで多くの人間が、私にそれを願ってきた。……愛する者の心を我がものにできたら、素晴らしいとは思わないか?例えばお前が密かに思いを寄せている、あの赤毛の少年の心を……』
―――バタンッ!
(なんてこと言うのよ……!)
ノラはすかさずパン焼き窯のふたを閉め、まわれ右してすたこらさっさと逃げ出した。
その日の午後、ノラのもとへ友人が訪ねてきた。
1人は地主の息子の、マルキオーレ・オシュレントン。もう一人はアベル・バスティードという、自由移民の子だ。白樺の木皮のような色の髪は赤んぼみたいに柔らかく、母親ゆずりのふっくらとしたばら色の頬にかかっている。くりっとした目と、笑うとえくぼができる口元が印象的だ。
「2人とも、どうしたの?」
「どうしたの?じゃないよ。今日はクリフんちに戦車を見に行く約束だろ」
マルキオーレが、不思議そうに首を傾げるノラを、半目で睨んで言った。クリフと言うのは、ノラがいつもつるんでいる仲良し4人組の最後の一人。クリフォード・ジョイマンのことだ。
「そうだっけ?」
「んもう、これだもん。ノラが行かなきゃ、あいつ絶対見せてくれないんだから」
3人はアベルの荷馬車でクリフォードの家に向った。
クリフォードの家は借家で、オシュレントンに存在する、数少ない店という店が集まる地域にあった。同じ通りにはジョーマリーの酒場や、ヨーハン・ギルデンの鍛冶屋、しゃべくりのブレトン夫妻が経営するパーラーなどがあり、少し上って行くと、ノラの父であるエドモン・リッピーが勤めている町役場や農民市場が、その反対側の通りには、兄のオリオ・リッピーがアルバイトをしている銀行がある。
クリフォードの家の前には先客がいて、見事な赤毛の少年―――つまり、クリフォードだが―――を取り囲んでいた。その顔触れを見て、ノラは思わず顔をしかめた。
「今年の戦車レースの優勝はクリフォードで決まりね」
「私達、祝賀会の準備をして待ってるわ」
「ねぇ、完成したら一番に乗せてね」
1人はシルビア・グッドマン。お金持ちで、ヴォロニエで宝石商を営む祖父がいる。父はアヒム・グッドマン、母はヘンリエッテ・グッドマン。親子そろって見栄っ張りの自慢屋だ。しかし一番の問題は自慢しいの性格より、赤んぼでもつまめば折れそうな細くて低い鼻を、はかなげだと称する男の子がいることだ。いまいましいことに。
もう1人は、シルビアの取り巻きのカレン・ウォルソンだ。騒がし屋のベン・ウォルソンの姉で、クリフォードに夢中。
最後の1人は、アガタ・デビ。この3人の中では、一番年下の11歳。最近シルビア達のグループに入れてもらったばかりなのに、お姫様みたいに偉そうにしている。彼女もクリフォードに夢中。
「でも戦車だぜ。危ないから、女の子にはどうかなあ」
クリフォードは長く伸ばした赤毛を、きざったらしくかき上げた。
ノラとアベルとマルキオーレの3人はポプラの木の下に荷馬車を止めて、談笑する四人に近付いて行った。
歩いてくるノラ達に真っ先に気付いたのは、シルビアだった。シルビアは集団の中にノラを見つけると、眉を吊り上げてじろりと睨み付けた。
「ノラじゃないか。アベルとマルクも」
クリフォードはノラ達の姿を見つけると、嬉々として駆け寄ってきた。
「あの3人は放っておいていいの?こわーい顔でにらんでるわよ!」
「良いんだ。もう話は終わったから。それより、今日はどうしたんだ?」
「あんたがなかなか見せてくれないから、押しかけてきちゃったわよ。戦車見せて」
「だめだめ。創立者祭のお楽しみさ。そのかわり、当日は特別席を用意するから!」
「あんまり付き合い悪いと、もう遊んであげないわよ!」
「意地悪言うなよ。俺、ストレイスさんにベンチの修理を頼まれてるんだ。またな」
クリフォードはノラの頭を帽子ごとぐしゃぐしゃとかき交ぜると、逃げるように走って行ってしまった。
「……クリフォードったら。あんなことしたら、ノラがまた勘違いするわ」
クリフォードが道の先に消えて、シルビアが聞えよがしに言った。クリフォードが大好きな彼女たちは、彼と仲良しのノラが邪魔なのだった。
「いやねシルビア。クリフォードがノラなんか相手にするわけないじゃない。見てよあの汚い靴。どこを歩いたらあんなにどろんこになるの?」
「クリフォードは一緒にいて恥ずかしくないのかしら?」
「彼、優しいのよ」
カレンとアガタが続いて、シルビアが満足気に締めくくった。
「なんて酷いこと言うんだろ。俺、ちょっと注意してくる」
「良いわよ。ただのひがみなんだから。行きましょアベル。マルクも」
ノラとアベルとマルキオーレの3人は、シルビア達を無視して馬車に乗り込むと、もときた道を引き返しはじめた。
3人はデムター・オシュレントン氏のお屋敷(つまり、マルキオーレの家だ)の前でまでやってきた。
お屋敷は、オシュレントンの町で最も大きな建物だ。人々が自由に本を借りられる図書室や、町のみんなで食事ができるほど広いダイニング。創立者祭や年末のヘルベヘヌ祭に解放される、ダンスフロアなどがある。
「また明日、教会でね」
「遅刻しちゃだめよ」
お屋敷の前でマルキオーレを降ろすと、2人はノラの家へ向かって馬車を発進させた。
「神様がなんでも願いを叶えてくれるって言ったら、なにをお願いする?」
道すがら、ノラは手綱を握るアベルにそれとなくたずねた。
「なんでもかあ……難しいね」
「やっぱり、そう簡単には思い付かないわよね」
アベルはちらちらとノラの顔を盗み見た。
「?なにか思い付いた?」
「……秘密」
「秘密ー?もしかして恥ずかしいお願い?」
「そ、そうじゃないよ!……ノラと……ずっと一緒にいられますようにってさ!」
「ふぅん?でも、お願いなんてしなくても、私達はずっと一緒よ。だって、どこへ行くって言うの?」
その夜、ノラは家族にも同じ質問を投げかけた。
「そうだなあ……ノラが良い子になりますようにって、お願いするかな」
兄のオリオの答えは、ノラが望んだようなものではなかった。ノラは続いて、父のシャツにアイロンをあてている母に聞いた。
「そうねえ……願いごとって言うか、ろうそく立が壊れちゃったのよ。お父さんとの結婚の記念に、おばあちゃまに頂いたものだったのよ。ヨーハンさんに頼めば、直してくれるかしら?」
「お父さんは?」
「お父さんの願いは、お母さんやお前達が幸せでいることだよ」
「……そういうんじゃないんだけど……」
「???」