ある悪魔学者の最後とマリの旅立ち
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「あの日を境に、私の人生は変わった。事件の後、直ぐに教会の人間がやってきて、私とヨヴァンカは帝都へ連行された。私は事件を不問にする代わりに、悪魔学者となり帝国のために尽くすことを……時には兵士として戦うことを約束させられ、ヨヴァンカは人質となった」
キルシマルヤが過去を語り尽くす頃には、ノラはすっかり顔色を失くしていた。
遠くの方から、小雨が屋根を打ちつけているような音が聞こえる。それが馬を駆る音だと気付いたのは、しばらく経ってからだった。迎えがきたのだ。
「村はどうなったの?」
「みんな燃えてしまったよ。疫病を恐れた近隣の村の人間が、火を放ったんだ。私が帰った時にはもう、辺り一面焼け野原で、家1軒、木1本残っていなかった」
「…………」
「つまらない話をしてしまったね」
キルシマルヤは話を締めくくった。
ノラが長い物語を読んだ後のような余韻にひたっていると、キルシマルヤが切り出した。「ところでね、お嬢さん」
「私が契約している13体の悪魔を、お前に譲りたい」
「悪魔を?私に?」
「ああ。もう直ぐ私の命は尽き、私に仕えていた悪魔達は野放しになる。その前に、新たな主を決めて逝きたいのだ」
ノラは少し迷ったが、快諾した。
「ありがたい。多くの人の命を奪ってきた私は地獄に落ちるが、これで、いつかまた生まれることができる」
突如襲ってきた抗い難い眠気が、ノラの意識をかき混ぜた。ノラは半分瞼を閉じたまま、夢うつつでその声を聴いた。
「目が覚めたらお前はこの場で起きた出来事をすべて忘れているだろう。しかしいつの日か与えられた使命に気付き、困難に立ち向かおうとする時。この力は必ずお前の役に立つ」
馬の蹄が地を叩く音は、いつの間にか直ぐそこまで迫ってきていた。仲間たちの、ノラを呼ぶ声が聞こえる。
「教会には気を付けなさい。1度捕まれば、生涯その桎梏から逃れることはできない」
眠りに落ちようとするノラに、キルシマルヤは最後の忠告をした。
「さらばだ、悪魔学者ノラ・リッピー」
ノラは意識を手放した。
次に目が覚めた時、ノラはすべてを忘れていた。それどころか誰1人……ハンスもダンテも、その他の騎士達も、キルシマルヤのことを覚えてはいなかった。キルシマルヤの存在は、朝靄のように、日の出とともに消えてしまった。
ノラが町に連れ帰られた少し後。
「おや、こんなところに良い乾木がある」
「本当だ。持って帰って薪にしよう」
キルシマルヤの肉体は薪になり、垣になり、野鳥の巣になり、椅子の脚になった。
結局、マリは騎士団と一緒に、帝都へ旅立つことになった。マリの口から別れを告げられたノラは悲しみ、自分を責めた。
「本当に行っちゃうの……?」
「うん」
「……許さないって言ったら?」
マリは少し困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「やるべきことを思い出したんだ。それは俺にしかできないことだから、行かなきゃならない」
「じゃあ、私も一緒に行く」
ノラの提案を、マリは却下した。
「この町には、ノラを愛している人がたくさんいる。俺のわがままで、みんなを悲しませるわけにはいかないよ」
「でも……」
「泣かないでノラ。きっとまた会える。俺達は固い絆で結ばれているんだから」
マリの言う通り、悪魔のミライによって結ばれた絆は、長い時を経て再び2人を引き合わせることになるのだが、そんなこと知るはずもないノラは、泣いて愚図って周りの大人達を困らせた。そして、騎士団が乗ってきた馬の手綱を1本残らずナイフで切って、マリを驚嘆させた。
傷付いた団員を癒すため、騎士団は出発を延期し、1週間ほど町に留まった。その間に、マリはノラやオリオと共に町中の人々に挨拶して回った。人気者のマリは別れを惜しまれ、たくさんの餞別をもらった。ヘンリエッタだけは、どこか嬉しそうだった。
余談だが、馬に蹴られたはずのサリエリは、半日後におっかなびっくり目を覚ました。なぜ彼があんないかれた悪戯をしたのかは、分からず仕舞いだった。
「道中の無事を願って、乾杯!」
最後の夜。旅立つ騎士達を励ますために、デムターさんがささやかな宴を開いた。騎士達はデムターさんの粋な計らいに感謝し、お礼に馬術や剣舞や、ピアノの演奏を披露した。リッピー家の人々もマリと一緒に参加したが、ノラだけは拗ねて部屋から出てこなかった。
「おい、なんでみんな裸足なんだ?」
出発の朝、屋敷の前に整列した騎士達の足元を見て、ハンスが尋ねた。1人がおずおずと前に進み出て、決まり悪そうに答えた。「靴が見付からないんです」
「見付からないって?どこで脱いだんだ?」
ハンスは不思議そうに首を捻った。昨夜はお屋敷の食堂で酔ってそのまま眠ってしまったので、靴を脱ぐ機会はなかったはずだ。
「さあ……それが、さっぱり覚えていないんだ」
「俺は覚えてますよ。誰かが脱がせてくれたんですよ」
犯人は言わずと知れていた。ハンスは改めて騎士達の足元を見て、「なるほど」と納得した。ちゃんと靴を履いているのは、ノラの暗中飛躍に気付いていたダンテと、警戒して手を出されなかったハンス、怪我をして宴に参加できなかった数人だけだった。
「こりゃあ、もう1日足止めかなあ?」
「冗談言ってないで、捜せ、捜せ」
騎士達は半日靴を捜し回った。屋敷のどこを捜しても見付からず、町や森の奥深くまで捜索の手を延ばした。民家を訪ね歩き、必要とあらば、庭先や家の中を捜させてもらった。
お屋敷の屋根裏に潜り、蜘蛛の巣だらけになったハンスは、素知らぬ顔で突っ立っているダンテに向かって、口を尖らせた。
「ダンテお前、気付いていたならなぜ止めなかったんだ」
「お忘れですか?この町を出るまで、俺は彼女の従者ですよ」
ダンテの言い分を聞いたハンスは悔し紛れに「主人が主人なら、従者も従者だ」と唸った。
片足も見付からないまま午後になり、騎士達は1度お屋敷に集まった。
ハンス達が屋敷に帰ってみると、大方の騎士達は食堂に集合していた。町の方を捜索に行っている2人……バーナバス・オケリーとルイス・マントルだけが、まだ戻ってきていなかった。
「川の底までさらってみましたが、だめです。見付かりません」
「同じく」
みんなの報告を聞いたハンスは、いらいらと膝を揺らした。
「本当にちゃんと捜したのか?どこか見落としているんじゃないか?」
朝のうちは、まだ余裕があった。子供のかわいい悪戯だ。これしきのことで、目くじらを立てるなんて大人気ない。早いところ見つけ出して、優しく諌めてやろうじゃないか。
「必ずどこかにあるはずなんだ。もっと良く捜せ」
ハンスは今、全く逆のことを考えていた。なにがなんでもとっ捕まえて、こっぴどく説教してやらなければ気が済まない。大人を甘く見るとどうなるか、思い知らせてやる!
拳をあごの下に当てて食堂を行ったり来たりするハンスを、マリは珍しそうに見ていた。ダンテはしれっとしていた。
「もっと範囲を広げて捜索するんだ。町中くまなく捜せ。床下や寝藁の中も忘れるな。あらゆる可能性を考えるのだ」
ハンスの号令した直ぐ後、戻ってきていなかった騎士の1人、バーナバス・オケリーが、食堂に飛び込んできた。
「見付けた!見付けたぞ!」
バーナバスは興奮した様子で、開口一番に報告した。
それを聞いた騎士達の顔の筋肉が、ほっと緩む。誰ともなく顔を見合わせ、ざわざわと頭が揺れた。「良かった。これで出発できる」
「で、どこにあるんだ?」
代表してハンスが尋ねると、バーナバスは答えようとして、口ごもった。 靴を発見したと言うのに、彼はまだ裸足のままだった。ハンスは頭に疑問符を浮かべた。
「ひょっとして、取りにくい場所にあるのか?」
「いや、それが……」
バーナバスの口からあらましを聞いたハンスと騎士達は、驚き呆れた。
「じゃあ、なにか?靴を取り返すには、奴等と追いかけっこして、捕まえなきゃならないってことか?」
「そういうことになるかな。なにしろ連中は、私ら全員分の靴を持って逃げ回っているわけだから」
連中というのは、言わずと知れた4人組のことだ。ハンスは怒りを通り越して感心した。どこを捜しても、見付からないわけだ。
「大仕事ですよ。この広い町の中で、逃げ回る子供を追いかけて捕まえるなんて……それも、4人も」
「今日中に出発するのは、まず無理でしょうね」
午前中の捜索で疲れ果てた騎士達は、げんなりして言った。誰もかれもが、「諦めよう」と言い出しそうな雰囲気だった。ハンスは両手で顔面を擦った。
「そういえば、ルイスのやつはどうした?あんたと一緒じゃなかったのか?」
「捕まってるよ」
「なんだって?人質か?」
「いや、そういうわけじゃない」
バーナバスは首を横に振った。
「連中、私等の顔を見るなり近くの店に飛び込んだんだ」
ハンスの頭には、誘拐犯と間違われルイスが捕えられる映像が、ありありと浮かんだ。
「そういうわけでルイスは今、憲兵詰所で事情を聴かれてる。俺は見張りの目を盗んで逃げてきた」
「……なんという連中だ。まるで悪魔じゃないか」
ハンスは青ざめ、ダンテはくすくす笑った。ハンスはダンテをじろりと睨んでから、マリに向き直った。
「なにがなんでも、あなたを帰したくないらしい」
「そのようだな」
マリは嬉しそうに口の端を持ち上げ、ハンスは「けしからん!」と口をへの字にひん曲げた。
「これより我々は、彼等の追跡を開始します。よろしいですね?」
ハンスは確認し、マリは首をすくめた。「お好きに」
騎士達と犯行グループの追いかけっこは、深夜にまで及んだ。
マルキオーレは夜、お屋敷の貯蔵室に食料を盗みに入ったところを捕えられ、アベルは日付が変わった頃、母親の様子を見に自宅に戻ったところを捕まった。クリフォードは明け方、農民市場の前を馬車で通りかかったところ、農夫に変装した騎士達に取り押さえられた。
クリフォードはふん縛られて、お屋敷の庭に転がされた。先に捕まったマルキオーレとアベルが駆け寄る。
「良くも手こずらせてくれたな。さあ、吐いてもらおう。お姫様はどこにいるんだ?」
ハンスは額に青筋を立てて聞いた。クリフォードは不敵に笑った。
「さあ、どこでしょうねえ?」
「強情を張るな。素直に教えれば、お仕置きは勘弁してやる」
「そんなもん、怖かねえや」
「そうかい?……なら、風呂に入れるぞ。脇の下から指の股まで全身くまなく磨いて、ゆで卵みたいにつるつるのぴかぴかにしてやる」
ハンスはデムターさんの手前、怒りを押し殺した声で言った。目は笑っておらず、無理やり持ち上げた口元はひくひくしている。クリフォードとアベルとマルキオーレの3人は、「なんて恐ろしい罰だ!」と、大げさに怖がって見せた。
「ハンス様!捕まえました!」
そんなこんなしていると、間抜けな農婦姿の男が駆けてきた。彼の後ろからは、むっつり顔のノラが歩いてくる。逃げられないよう、周りを屈強な騎士達にがっちりと固められている。
クリフォードが舌打ちして、ハンスはにやりと笑った。「勝負あったな」
「良くやった。全員靴を履いて、直ぐに出発だ」
ハンスが生き生きと号令すると、騎士達は弱って、おろおろと顔を見合わせた。
「なんだ。まだなにかあるのか?」
「それが……捕まえたんですが、靴を持っていません」
「なんだと?持っていない?」
ハンスは、そっぽを向いているノラを見た。その顔を見る限り、簡単に口を割りそうにない。ハンスはがしがしと頭をかいた。これで終わりだと思ったのに!
「どこへ隠したんだ?」
「知らない」
つーんとして、ノラは答えた。
「ノラ、いい加減になさい。お別れが辛いからって、迷惑をかけて良いわけないでしょう?」
見かねた母やオリオが代わる代わる尋問したが、ノラは貝のように口を閉じ、脅しても宥めすかしても、頑として隠し場所を教えようとしなかった。
結局再び、靴を捜して町中を駆けずり回る破目になった。その間ノラは食事抜きで、お屋敷の客間に閉じ込められた。
午後になると、客間の扉を乱暴に開いて、ハンスがずかずかと侵入してきた。
「降参だ!降参!」
ハンスはのろのろとベッドから起き上がるノラに向かって、ばんざいのポーズをして見せた。
「ノラ、君は大した女の子だ。君は頭が良いし、行動力がある。もしも男の子だったら、騎士団に勧誘したいくらいだ。いや本当……」
ハンスはノラを褒めちぎった。その手には乗らない!と、ノラは顔面を引き締めた。
「俺達の負けだよ。認めるから、どうか教えてくれないか?いったいどこに隠したんだ?」
「…………」
「ねぇノラ……・君だってわかってるだろう?いつまでもこんなこと続けていられないよ。おっかない君のママが、許すはずないよ」
「…………」
「引っ込みがつかないんだったら、俺も一緒に謝ってあげる。お腹空いたろ?下に美味しいスープがあるんだ。ママは、君が本当のことを言うなら、食べて良いって」
いるもんか!と思ったノラだったが、正直なお腹の虫はグーッと、うるさいほどになった。ハンスが目を細めて、ノラは顔を赤らめた。
ノラは唇をぎゅっと引き結んで、両手で耳を塞いだ。口の形で言葉がわからないように、目も瞑った。ハンスは嘆息した。「なんて強情っぱりなんだ……」
誘惑が過ぎ去るのを待っていると、ノラの膝の上にそっと手のひらが乗せられた。ノラが身じろぎしても、手のひらはしつこくそこに留まった。
「ノラ」
耳触りの良い声がして、ノラは恐る恐るまぶたを開いた。マリの困ったような笑い顔が目の前にあった。ノラは口を尖らせてうつむいた。
「もう、いいんだよ」
「…………」
「俺のためなんだろう?」
手綱を切ったのも、靴を隠したのも、全部。ノラはおずおずと顔を上げて、マリを見た。
「ありがとう、ノラ。俺はもう大丈夫だよ」
「…………」
「俺はもう、寂しくないよ。この先ずっと寂しくならない。わかったんだ。俺は本当は、この町に生まれるはずだったんだって。神様がどっかで間違えただけだって」
嘘だと思う?マリが聞いて、ノラは首を横に振った。
「……私も、男の子に生まれるはずだったのを、神様が間違えたんだって」
宿敵のシルビアに、いつか言われた憎まれ口だ。漸く口を開いたノラに、マリとハンスはほっと口元を綻ばせた。
「……私は悪い子だって思う?」
ノラは傍らに立つハンスを見上げてたずねた。ハンスは苦笑いして首を横に振った。
「いいや。ちっとも」
「…………」
ノラは少し考えて、口を開いた。「あのね……」
「あったー!ありましたー!」
一足はお屋敷の煙突の内側に括り付けられていて、一足はピカピカに磨かれ、よろず屋の店頭に並べられていた。他には、ヴォロニエに向かう出荷用の荷物に紛れていたり、鍛冶屋のヨーハン・ギルデンが履いていたりした。『良いだろ?ノラにもらったんだ』
「よくもまあ、次から次へと思い付くもんだ」
ハンスは呆れ返って言った。怒る気はすっかり失せていた。その夜、騎士達は靴を抱きしめて眠った。
次の日の朝。ハンスと騎士達は屋敷の前に集まっていた。今度こそ出発するためだ。
「全員、靴は履いているな」
念入りに荷駄のチェックを済ませたハンスが確認すると、騎士達はそろって片足を高く上げて見せた。
出発の準備をしている傍らでは、マリとリッピー家の人々がお別れを済ませていた。父もオリオも寂しそうだったが、1番悄然としていたのは母だった。
「どこにいようと、あなたのマリです。母上」
マリはきっぱりと宣言して、母を泣かせた。
両親はマリに、早々と巣立ってしまう愛息へのはなむけだと言って、あちこちから借金してつくったお金を渡した。マリは涙し、熱い抱擁を交わした。
後ろ髪を引かれながら馬車に乗り込むマリを、ノラは笑顔で見送った。一晩中泣いたので、涙は出なかった。
「ノラ」
出発の間際。名前を呼ばれて振り向くと、ダンテが立っていた。
「お前は良い主人だったよ。俺は必ず騎士になるから、そしたらもう一度、主人になってくれるか?」
「お姫様はこりごりよ。次は、友達になりたい」
微笑み合う2人を、騎士達が荷馬車の荷台から身を乗り出して見守った。にやにやしながら、お互いを小突きあっている。
「あー、おほんっ……ノラ」
ハンスがわざとらしい咳払いをした。
「君はダンテのご主人様として、頑張った従者に、褒美をやるべきではないかな」
「褒美?」
ハンスはにやりと笑った。ダンテは苦笑して、ノラは頭に疑問符を浮かべた。
「ダンテ、跪きなさい」
ダンテは言われた通り片膝を地面に付け、戸惑うノラの顔を仰いだ。
「彼にキスを」
「えっ!?」
「ほっぺで良いから」
馬車の中から抗議しようとしたマリの口を、示し合わせたように四方八方から伸びてきた手が塞いだ。
ノラは跪くダンテを見つめた。彼はノラを真っ直ぐな目で見上げて、純な唇が下りてくるのを待っていた。ダンテの頬に、小鳥が餌を啄むように素早くキスしたノラを、誰が責められただろう。
一行は帝都へ向けて出発した。マリが乗る荷馬車の轍は光り輝き、その跡を、森から顔を出した三頭の熊が辿って行った。鳥たちは高らかに歌い、旅の無事と再会を祈った。