悪夢のはじまり
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キルシマルヤの不安の正体は、直ぐに明らかになった。
結婚式の前日。キルシマルヤの家に、青くなったヨヴァンカが駆け込んできた。
「キルシー……」
「ヨヴァンカ?どうしたの?」
「お、親父と弟が……」
ヨヴァンカは指先を噛んで、がたがたと震えていた。ヨヴァンカの様子にただならないものを感じたキルシマルヤは、取る物も取り敢えず、彼女の家に走った。
寝室の床には、ヨヴァンカの父親と弟が横たわっていた。亡くなってからしばらく経っているようで、顔色を失くしている。苦しんだ様子はなく、瞼を開いたまま魂を抜かれたような姿は、不審死と言って良かった。
「どうしてっ……2人とも、昨日まではあんなに元気だったのに……!」
ヨヴァンカは取り乱して泣き伏した。
ヨヴァンカの嗚咽を聞きながら、キルシマルヤは混乱していた。ヨヴァンカの父親とは、つい昨日挨拶したばかりだ。いったい何故……?
キルシマルヤの頭に、ある考えが浮かんだ。
「そんな……でも、まさか……」
ここ何日か胸に巣食っている、漠然とした不安。その正体が、ゆっくりと浮かび上がってくる。狼狽するキルシマルヤに、ヨヴァンカが疑いの目を向ける。
「キルシー?あなた、なにか知っているの……?」
「…………」
「答えて!キルシー!」
キルシマルヤは一目散に部屋を飛び出した。ヨヴァンカも後を追ってきた。
向かったのは、村はずれの石碑だ。楡の木の枝の上に、彼はいた。胴体の2倍はありそうな不自然に長い足をぶらぶらさせて、満足そうに歯の掃除をしている。
キルシマルヤは悟った。ここ何か月かの不思議な出来事はすべて、キルシマルヤをこの石碑におびき寄せるための罠だったのだ。
『おやおや、これは御揃いで』
足長の悪魔は、木の下で立ち尽くす2人の姿に気付くと、くつくつと笑った。
「あなたなの……?私の母と、ヨヴァンカの家族を……」
『だとしたら、どうだと言うんだ?』
「お願い!元に戻して!せめてヨヴァンカの家族だけでもっ……!」
キルシマルヤは形振り構わず、楡の木の幹に縋り付いた。悪魔は枝の上から降りてきて、キルシマルヤの周りを、長い足で歩き回った。
『さて、どうしたものか。対価さえもらえばどんな願いを叶えることもやぶさかではないが、そいつは無理な注文だ。お前達の家族の魂はとっくに私の腹の中だ』
悪魔は見せつけるように、愛おしそうにぐるりと腹を撫でた。
「見返りがいるなんて知らなかったわ!こんな契約は無効よ!」
キルシマルヤは絶望し、あらん限りの力で叫んだ。
『おかしなことを言う。そこの碑にすべて書いてあるだろう?』
悪魔は石碑を指差した。キルシマルヤは石碑に爪を立て、表面にこびりついた汚れをこそぎ落とした。長い歳月をかけてゆっくりと、確実に絡みついた根は硬く、キルシマルヤの指先をぼろぼろにした。爪が割れ、血が滲み出した。
やがて現れた本体には、こう記されていた。『願いを叶えるためには、最も大切な者の魂を捧げること』
キルシマルヤはありったけの憎しみを込めて悪魔を睨んだ。噛んだ唇は破け、鉄の味が口の中に広がった。
「騙したのね……」
『騙した?いいや違う。上手い話には裏があると分かっていながら、軽々しく願いを口にしたお前が浅はかだったのだ。少しでも不審に思った時点で教会に連絡していれば、こうはならなかった』
悪魔は尤もなことを言って、キルシマルヤを黙らせた。悪魔は震えているヨヴァンカに視線を移した。
『例えばお前の父親なら、直ぐに気が付いただろう。『バッタが喋るなんておかしい。悪魔の仕業に違いない』とな。……お前の父親は賢明だった。命運尽きたと知るや、自分の母親の魂と引き替えに、娘のお前の『健全な死』を願った。死者との契約はルール違反なんだが、あまりに哀れだったので、さっき叶えてやったところだ』
悪魔はヨヴァンカを指差し、恩着せがましく言った。ヨヴァンカはへなへなと地面にへたり込んだ。「お祖母ちゃん……」
「っ……ヨヴァンカの弟は!?なぜ殺したの!?数が合わないじゃないの!」
キルシマルヤは悪魔に吠えかかった。
『それはこの娘が、欲張って2つも願い事をしたからだ。1つは顔のそばかすを失くすこと。もう1つは……』
「や、止めてっ!言わないで!」
『親友キルシーの結婚が、ご破算になりますように……ってね』
キルシマルヤは驚いてヨヴァンカを見た。ヨヴァンカはとっさに耳を塞ぎ、目を瞑った。悪魔は身体をくの字に折り曲げて、ヨヴァンカの顔を覗き込む。
『お前はいつも、口うるさい父親と、幼い弟を邪険にしていたろう?邪魔者を始末できて、良かったなあ?』
「この、悪魔っ……!!」
キルシマルヤの目から、塩辛い涙がどっとあふれ出した。涙は止まることを知らず、キルシマルヤの頬を濡らした。悔しい!憎い!悔しい!
悪魔は鼻先で嘲笑った。
『そのような目で見られる謂れはないぞ。お前はこれまでに、たっぷり好い目を見たはずだ。不治と言われる母親の病は快癒、不漁が続く中父親の船だけは連日大漁、お前自身は傾国の美貌を手に入れた。本当なら、もっと対価をもらっても良いはずだ』
「っ……」
『そろそろ食事の時間なんだ。他に用がないなら帰ってくれ』
悪魔は長い足をコンパスのようにして、くるりと地面に円を描いた。次の瞬間には、悪魔の姿は消えていた。
長い時間、2人は石碑の前から動けないでいたが、夕闇が迫ってくると、キルシマルヤがヨヴァンカを促して帰路についた。2人は無言で村へと続く道を歩いた。疲れ果てていて、励まし合うことも、慰め合うことも出来そうになかった。特にヨヴァンカの顔色は悪く、潮風に煽られ今にも倒れそうだった。
村に帰ってみると、近くの家の前に、人だかりができていた。何事だろうか?キルシマルヤは近付いて行った。
「なにかあったの……?」
「アーデンが亡くなったんだ!」
キルシマルヤとヨヴァンカの頭に『まさか』という思いが過ぎる。ヨヴァンカは歯をがちがち鳴らして、両腕で我が身をかき抱いた。
「……食事って言ってた……あの悪魔、アーデンの魂を……」
ヨヴァンカの呟きは、今正にキルシマルヤが考えていたことだった。『そんなはずない!』と、キルシマルヤは全力で否定した。
「私達の他には、誰も知らないはずよ!」
だって、私は誰にも言ってない。あなた以外は。
「…………」
「ヨヴァンカ……嘘でしょう……?」
どうか嘘だと言って!キルシマルヤは祈るような気持ちで訊ねたが、返ってきたのは最も聞きたくない、最悪の答えだった。
「だ、だって、迷信に決まってると思ったから……」
今すぐ耳を切り落として、聞かなかったことにしてしまいたい。キルシマルヤはこの時生まれてはじめて、親友のヨヴァンカを憎らしいと思った。
「他にも話した人がいるの?……言って!ヨヴァンカ!」
キルシマルヤは激しい口調でヨヴァンカに詰め寄った。ヨヴァンカは震える声で、しどろもどろに答えた。「ニルスとタピオ……あと、ミラにも……」
聞くなり、キルシマルヤは駆け出した。
最初に向かったタピオの家では、彼の父親と、2歳年下の妻が亡くなっていた。タピオは親戚や友人に囲まれていて、話を聞けそうになかった。
キルシマルヤは諦めて、ニルスの家に向かった。
ニルスの家はひっそりとしていた。キルシマルヤがそっと扉を開けて入っていくと、扉の傍にニルスの、年老いた祖父が横たわっていた。ヨヴァンカの父や弟と同じように、灰色の死に顔は安らかで、すうっと魂が抜け出て行ったような感じだった。
キルシマルヤはくじけそうになる心を叱咤して、ニルスを捜した。ニルスは2階の物置にいた。
「ニルス……あなた、ニルスなの……?」
キルシマルヤははじめに確認しなければならなかった。というのも、キルシマルヤと同じ18歳であるはずのニルスは、50歳ほどの年齢まで成長していた。張りのない肌は皺だらけで、身体は毛深く、紅茶色の髪には白髪が混じっている。キルシマルヤは驚愕した。
「キルシー……俺がわかるのか……?」
キルシマルヤが頷くと、ニルスの瞳がきらりと光った。恐ろしくて、今の今までここに隠れていたんだろう。ニルスは堰を切ったように泣き出した。
「いったいどうなってるんだ……!?俺は、どうしちゃったんだ!?」
キルシマルヤには原因がわかっていた。日頃から、早く大人になりたいと零していたニルス。彼の願いは叶えられたのだ。大切な祖父の魂と引き換えに。
キルシマルヤは、どうかお願いだから1人にしないでくれと懇願するニルスを宥めて、彼の家を出た。キルシマルヤには、まだ行かなければならないところがある。ヨヴァンカが石碑の秘密を打ち明けた相手は、3人。タピオ、ニルス、もう1人は……
「ペトリ……」
キルシマルヤの頭にふと、婚約者の顔が浮かんだ。ミラの思い人だったペトリ。もしも、もしもミラが石碑になにかを願っていたとしたら……
『願いを叶えるためには、最も大切な者の魂を捧げること』
キルシマルヤは我を忘れて走り出した。夕暮れの真っ赤な光の中を、髪を振り乱し、両手で空をかき、獣のように駆けた。ペトリの家にたどり着いた頃には、自分の肉体が自分の物ではないような感触さえした。
「いやあああああっ!!ペトリ!!ペトリ!!」
ペトリはキルシマルヤが到着する5分前に、息を引き取っていた。
キルシマルヤは乱暴にミラを押し退け、ペトリに駆け寄った。ペトリの頬はまだ温かく、そうと知らなければ眠っているようだった。キルシマルヤはペトリの身体に縋って泣き叫んだ。喉が破けるほど、その声は狼の遠吠えに似ていた。
その日、キルシマルヤはペトリの亡骸と共に夜を明かした。石碑の悪魔を、自分を、そしてペトリを愛したミラを呪いながら。
絶望の底に沈むキルシマルヤは知らなかった。悲劇の後には、更なる悲劇が待ち受けているということ。そして今この瞬間こそが、彼女の本当の人生の始まりだということを。
翌日の早朝、キルシマルヤは様子を見に来た近所の人に説得されて、ペトリの家を出た。
ぞろり、ぞろり。鉛のように重たい足を引きずりながら歩いていると、前方から一団がやってきた。漁業を生業とする、村の男たちだった。彼等はヘラスを筆頭に、真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる。
キルシマルヤは後ろを振り返った。道の先にあるのは楡の大木と、あの石碑だ。キルシマルヤはぞっとした。
「やあ、キルシー」
立ちすくむキルシマルヤに、ヘラスが声をかけた。
「これからみんなで御祈祷に行ってくる」
「み、みんなで……?」
ひりひりと痛む喉からは、自分のものとは思えない、老人みたいなしわがれ声が出た。
「ああ。神頼みなんて馬鹿らしいと思うが、娘がどうしても試してみろと言うのでな。聞けば、あの石碑を最初に発見したのは君だそうだな」
「…………」
「ミラは、君の父親の船にだけ魚が集まり出したのは、石碑のせいじゃないかと言うんだ」
言い当てられたキルシマルヤは、ごくりと唾を呑んだ。
「ヘラスさん、どうか冷静に私の話を聞いてください」
キルシマルヤは1度大きく深呼吸した後、慎重に言葉を選んで切り出した。
「あの石碑は、悪魔の石碑なんです」
キルシマルヤは丁寧に、順を追って説明した。家の窓辺に現れた奇妙なバッタのこと。そのバッタから、石碑の噂を聞いたこと。深く考えもせず身勝手な願いを口にしたばかりに、母や、ヨヴァンカの家族が亡くなったこと。被害はそれだけに留まらず、ニルスやタピオ、ペトリまで犠牲になったこと。
すべてを話し終えると、大人たちは腹を抱えて笑った。
「君は作り話がうまいな。言葉を喋るバッタなんて、どこで思い付いたんだ?」
「作り話じゃありません!本当なんです!あの石碑は危険なんです!」
キルシマルヤは熱心に訴えたが、村人たちは信じなかった。特に村長のヘラスは、頭から尻尾までキルシマルヤを疑った。
「神様のお恵みまで独り占めするつもりか?親子揃って業突く張りめ」
「私、そんなつもりは……」
「まあいい。我々は石碑に豊漁を祈願してくる。これで魚が集まらなかったら、君の父親には今度こそ組合を抜けてもらう。……退け!」
ヘラスはキルシマルヤを押し退けて再び歩き出した。後に続く組合員たちが、すまなそうな顔で脇を通り過ぎる。
「ねぇ、お願い、ヘラスさんを止めて。このままでは大変なことになるわ」
キルシマルヤは組合員の1人を捕まえて懇願した。彼は残念そうに首を横に振った。
「ヘラスさんは、なにがなんでも君のお父さんを排斥にしたいんだ。御祈祷は口実さ」
「そんな……」
「俺達漁民は1人じゃ船を出せないし、ここのところ不漁が続いて、蓄えも底をついてる。今村長に逆らうわけにはいかんのだ。すまないが、私にはどうすることも出来ないよ」
なす術もなく、次々に人が死んでいった。1日に1人か2人。多い時には、5人一遍に亡くなることもあった。ある者は誰かの願いの犠牲になり、ある者は絶望して、自ら首を吊った。残ったのは、賢明な父親の願いによって『健全な死』を与えられたヨヴァンカと、キルシマルヤの2人きりだった。
「あなたのせいよ!あなたのせいよ!」
ヨヴァンカは罪の重さに耐えられず、キルシマルヤを激しく責めた。彼女の精神は、取り返しがつかないほどに壊れてしまっていた。
最後の1人が命を絶ったその夜、キルシマルヤは1人、石碑へと足を向けた。瞳に憎悪をたぎらせ、拳に愛する婚約者と父親の髪を握り締めて。
『待っていたぞ』
石碑の悪魔は、はじめてその姿を見た時と同様、楡の木の上で長い足をぷらぷらさせて、歯の掃除をしていた。
『お前のおかげで、うまい魂にありつけた。実に2百年ぶりの食事だった。お礼に1つ、良いことを教えてやろう』
「…………」
『お前の母親が死んだのは、ただの寿命だ』
キルシマルヤははっとして、石碑の悪魔を仰いだ。石碑の悪魔はにっこりと、まるで天使のような微笑みを浮かべて言った。
『お前の婚約者は、お前のことを誰よりも愛していた。だからお前の願いは叶わなかった』
「あっ……」
『お前は誰も殺していないよ。良かったなあ?』
「あああああああああっ!!」