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ノラとパン焼き窯の悪魔  作者: kaoru
ノラと不思議な少年
17/91

悪夢のはじまり

著作権は放棄しておりません。

無断転載禁止・二次創作禁止

 キルシマルヤの不安の正体は、直ぐに明らかになった。

 結婚式の前日。キルシマルヤの家に、青くなったヨヴァンカが駆け込んできた。

「キルシー……」

「ヨヴァンカ?どうしたの?」

「お、親父と弟が……」

 ヨヴァンカは指先を噛んで、がたがたと震えていた。ヨヴァンカの様子にただならないものを感じたキルシマルヤは、取る物も取り敢えず、彼女の家に走った。

 寝室の床には、ヨヴァンカの父親と弟が横たわっていた。亡くなってからしばらく経っているようで、顔色を失くしている。苦しんだ様子はなく、瞼を開いたまま魂を抜かれたような姿は、不審死と言って良かった。

「どうしてっ……2人とも、昨日まではあんなに元気だったのに……!」

 ヨヴァンカは取り乱して泣き伏した。

 ヨヴァンカの嗚咽を聞きながら、キルシマルヤは混乱していた。ヨヴァンカの父親とは、つい昨日挨拶したばかりだ。いったい何故……?

 キルシマルヤの頭に、ある考えが浮かんだ。

「そんな……でも、まさか……」

 ここ何日か胸に巣食っている、漠然とした不安。その正体が、ゆっくりと浮かび上がってくる。狼狽するキルシマルヤに、ヨヴァンカが疑いの目を向ける。

「キルシー?あなた、なにか知っているの……?」

「…………」

「答えて!キルシー!」

 キルシマルヤは一目散に部屋を飛び出した。ヨヴァンカも後を追ってきた。

 向かったのは、村はずれの石碑だ。楡の木の枝の上に、彼はいた。胴体の2倍はありそうな不自然に長い足をぶらぶらさせて、満足そうに歯の掃除をしている。

 キルシマルヤは悟った。ここ何か月かの不思議な出来事はすべて、キルシマルヤをこの石碑におびき寄せるための罠だったのだ。

『おやおや、これは御揃いで』

 足長の悪魔は、木の下で立ち尽くす2人の姿に気付くと、くつくつと笑った。

「あなたなの……?私の母と、ヨヴァンカの家族を……」

『だとしたら、どうだと言うんだ?』

「お願い!元に戻して!せめてヨヴァンカの家族だけでもっ……!」

 キルシマルヤは形振り構わず、楡の木の幹に縋り付いた。悪魔は枝の上から降りてきて、キルシマルヤの周りを、長い足で歩き回った。

『さて、どうしたものか。対価さえもらえばどんな願いを叶えることもやぶさかではないが、そいつは無理な注文だ。お前達の家族の魂はとっくに私の腹の中だ』

 悪魔は見せつけるように、愛おしそうにぐるりと腹を撫でた。

「見返りがいるなんて知らなかったわ!こんな契約は無効よ!」

 キルシマルヤは絶望し、あらん限りの力で叫んだ。

『おかしなことを言う。そこの碑にすべて書いてあるだろう?』

 悪魔は石碑を指差した。キルシマルヤは石碑に爪を立て、表面にこびりついた汚れをこそぎ落とした。長い歳月をかけてゆっくりと、確実に絡みついた根は硬く、キルシマルヤの指先をぼろぼろにした。爪が割れ、血が滲み出した。

 やがて現れた本体には、こう記されていた。『願いを叶えるためには、最も大切な者の魂を捧げること』

 キルシマルヤはありったけの憎しみを込めて悪魔を睨んだ。噛んだ唇は破け、鉄の味が口の中に広がった。

「騙したのね……」

『騙した?いいや違う。上手い話には裏があると分かっていながら、軽々しく願いを口にしたお前が浅はかだったのだ。少しでも不審に思った時点で教会に連絡していれば、こうはならなかった』

 悪魔は尤もなことを言って、キルシマルヤを黙らせた。悪魔は震えているヨヴァンカに視線を移した。

『例えばお前の父親なら、直ぐに気が付いただろう。『バッタが喋るなんておかしい。悪魔の仕業に違いない』とな。……お前の父親は賢明だった。命運尽きたと知るや、自分の母親の魂と引き替えに、娘のお前の『健全な死』を願った。死者との契約はルール違反なんだが、あまりに哀れだったので、さっき叶えてやったところだ』

 悪魔はヨヴァンカを指差し、恩着せがましく言った。ヨヴァンカはへなへなと地面にへたり込んだ。「お祖母ちゃん……」

「っ……ヨヴァンカの弟は!?なぜ殺したの!?数が合わないじゃないの!」

 キルシマルヤは悪魔に吠えかかった。

『それはこの娘が、欲張って2つも願い事をしたからだ。1つは顔のそばかすを失くすこと。もう1つは……』

「や、止めてっ!言わないで!」

『親友キルシーの結婚が、ご破算になりますように……ってね』

 キルシマルヤは驚いてヨヴァンカを見た。ヨヴァンカはとっさに耳を塞ぎ、目を瞑った。悪魔は身体をくの字に折り曲げて、ヨヴァンカの顔を覗き込む。

『お前はいつも、口うるさい父親と、幼い弟を邪険にしていたろう?邪魔者を始末できて、良かったなあ?』

「この、悪魔っ……!!」

 キルシマルヤの目から、塩辛い涙がどっとあふれ出した。涙は止まることを知らず、キルシマルヤの頬を濡らした。悔しい!憎い!悔しい!

 悪魔は鼻先で嘲笑った。

『そのような目で見られる謂れはないぞ。お前はこれまでに、たっぷり好い目を見たはずだ。不治と言われる母親の病は快癒、不漁が続く中父親の船だけは連日大漁、お前自身は傾国の美貌を手に入れた。本当なら、もっと対価をもらっても良いはずだ』

「っ……」

『そろそろ食事の時間なんだ。他に用がないなら帰ってくれ』

 悪魔は長い足をコンパスのようにして、くるりと地面に円を描いた。次の瞬間には、悪魔の姿は消えていた。

 長い時間、2人は石碑の前から動けないでいたが、夕闇が迫ってくると、キルシマルヤがヨヴァンカを促して帰路についた。2人は無言で村へと続く道を歩いた。疲れ果てていて、励まし合うことも、慰め合うことも出来そうになかった。特にヨヴァンカの顔色は悪く、潮風に煽られ今にも倒れそうだった。

 村に帰ってみると、近くの家の前に、人だかりができていた。何事だろうか?キルシマルヤは近付いて行った。

「なにかあったの……?」

「アーデンが亡くなったんだ!」

 キルシマルヤとヨヴァンカの頭に『まさか』という思いが過ぎる。ヨヴァンカは歯をがちがち鳴らして、両腕で我が身をかき抱いた。

「……食事って言ってた……あの悪魔、アーデンの魂を……」

ヨヴァンカの呟きは、今正にキルシマルヤが考えていたことだった。『そんなはずない!』と、キルシマルヤは全力で否定した。

「私達の他には、誰も知らないはずよ!」

 だって、私は誰にも言ってない。あなた以外は。

「…………」

「ヨヴァンカ……嘘でしょう……?」

 どうか嘘だと言って!キルシマルヤは祈るような気持ちで訊ねたが、返ってきたのは最も聞きたくない、最悪の答えだった。

「だ、だって、迷信に決まってると思ったから……」

 今すぐ耳を切り落として、聞かなかったことにしてしまいたい。キルシマルヤはこの時生まれてはじめて、親友のヨヴァンカを憎らしいと思った。

「他にも話した人がいるの?……言って!ヨヴァンカ!」

 キルシマルヤは激しい口調でヨヴァンカに詰め寄った。ヨヴァンカは震える声で、しどろもどろに答えた。「ニルスとタピオ……あと、ミラにも……」

 聞くなり、キルシマルヤは駆け出した。

 最初に向かったタピオの家では、彼の父親と、2歳年下の妻が亡くなっていた。タピオは親戚や友人に囲まれていて、話を聞けそうになかった。

 キルシマルヤは諦めて、ニルスの家に向かった。

 ニルスの家はひっそりとしていた。キルシマルヤがそっと扉を開けて入っていくと、扉の傍にニルスの、年老いた祖父が横たわっていた。ヨヴァンカの父や弟と同じように、灰色の死に顔は安らかで、すうっと魂が抜け出て行ったような感じだった。

 キルシマルヤはくじけそうになる心を叱咤して、ニルスを捜した。ニルスは2階の物置にいた。

「ニルス……あなた、ニルスなの……?」

 キルシマルヤははじめに確認しなければならなかった。というのも、キルシマルヤと同じ18歳であるはずのニルスは、50歳ほどの年齢まで成長していた。張りのない肌は皺だらけで、身体は毛深く、紅茶色の髪には白髪が混じっている。キルシマルヤは驚愕した。

「キルシー……俺がわかるのか……?」

 キルシマルヤが頷くと、ニルスの瞳がきらりと光った。恐ろしくて、今の今までここに隠れていたんだろう。ニルスは堰を切ったように泣き出した。

「いったいどうなってるんだ……!?俺は、どうしちゃったんだ!?」

 キルシマルヤには原因がわかっていた。日頃から、早く大人になりたいと零していたニルス。彼の願いは叶えられたのだ。大切な祖父の魂と引き換えに。

 キルシマルヤは、どうかお願いだから1人にしないでくれと懇願するニルスを宥めて、彼の家を出た。キルシマルヤには、まだ行かなければならないところがある。ヨヴァンカが石碑の秘密を打ち明けた相手は、3人。タピオ、ニルス、もう1人は……

「ペトリ……」

 キルシマルヤの頭にふと、婚約者の顔が浮かんだ。ミラの思い人だったペトリ。もしも、もしもミラが石碑になにかを願っていたとしたら……

『願いを叶えるためには、最も大切な者の魂を捧げること』

 キルシマルヤは我を忘れて走り出した。夕暮れの真っ赤な光の中を、髪を振り乱し、両手で空をかき、獣のように駆けた。ペトリの家にたどり着いた頃には、自分の肉体が自分の物ではないような感触さえした。

「いやあああああっ!!ペトリ!!ペトリ!!」

 ペトリはキルシマルヤが到着する5分前に、息を引き取っていた。

 キルシマルヤは乱暴にミラを押し退け、ペトリに駆け寄った。ペトリの頬はまだ温かく、そうと知らなければ眠っているようだった。キルシマルヤはペトリの身体に縋って泣き叫んだ。喉が破けるほど、その声は狼の遠吠えに似ていた。

 その日、キルシマルヤはペトリの亡骸と共に夜を明かした。石碑の悪魔を、自分を、そしてペトリを愛したミラを呪いながら。

 絶望の底に沈むキルシマルヤは知らなかった。悲劇の後には、更なる悲劇が待ち受けているということ。そして今この瞬間こそが、彼女の本当の人生の始まりだということを。

 翌日の早朝、キルシマルヤは様子を見に来た近所の人に説得されて、ペトリの家を出た。

 ぞろり、ぞろり。鉛のように重たい足を引きずりながら歩いていると、前方から一団がやってきた。漁業を生業とする、村の男たちだった。彼等はヘラスを筆頭に、真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる。

 キルシマルヤは後ろを振り返った。道の先にあるのは楡の大木と、あの石碑だ。キルシマルヤはぞっとした。

「やあ、キルシー」

 立ちすくむキルシマルヤに、ヘラスが声をかけた。

「これからみんなで御祈祷に行ってくる」

「み、みんなで……?」

 ひりひりと痛む喉からは、自分のものとは思えない、老人みたいなしわがれ声が出た。

「ああ。神頼みなんて馬鹿らしいと思うが、娘がどうしても試してみろと言うのでな。聞けば、あの石碑を最初に発見したのは君だそうだな」

「…………」

「ミラは、君の父親の船にだけ魚が集まり出したのは、石碑のせいじゃないかと言うんだ」

 言い当てられたキルシマルヤは、ごくりと唾を呑んだ。

「ヘラスさん、どうか冷静に私の話を聞いてください」

 キルシマルヤは1度大きく深呼吸した後、慎重に言葉を選んで切り出した。

「あの石碑は、悪魔の石碑なんです」

 キルシマルヤは丁寧に、順を追って説明した。家の窓辺に現れた奇妙なバッタのこと。そのバッタから、石碑の噂を聞いたこと。深く考えもせず身勝手な願いを口にしたばかりに、母や、ヨヴァンカの家族が亡くなったこと。被害はそれだけに留まらず、ニルスやタピオ、ペトリまで犠牲になったこと。

 すべてを話し終えると、大人たちは腹を抱えて笑った。

「君は作り話がうまいな。言葉を喋るバッタなんて、どこで思い付いたんだ?」

「作り話じゃありません!本当なんです!あの石碑は危険なんです!」

 キルシマルヤは熱心に訴えたが、村人たちは信じなかった。特に村長のヘラスは、頭から尻尾までキルシマルヤを疑った。

「神様のお恵みまで独り占めするつもりか?親子揃って業突く張りめ」

「私、そんなつもりは……」

「まあいい。我々は石碑に豊漁を祈願してくる。これで魚が集まらなかったら、君の父親には今度こそ組合を抜けてもらう。……退け!」

 ヘラスはキルシマルヤを押し退けて再び歩き出した。後に続く組合員たちが、すまなそうな顔で脇を通り過ぎる。

「ねぇ、お願い、ヘラスさんを止めて。このままでは大変なことになるわ」

 キルシマルヤは組合員の1人を捕まえて懇願した。彼は残念そうに首を横に振った。

「ヘラスさんは、なにがなんでも君のお父さんを排斥にしたいんだ。御祈祷は口実さ」

「そんな……」

「俺達漁民は1人じゃ船を出せないし、ここのところ不漁が続いて、蓄えも底をついてる。今村長に逆らうわけにはいかんのだ。すまないが、私にはどうすることも出来ないよ」

 なす術もなく、次々に人が死んでいった。1日に1人か2人。多い時には、5人一遍に亡くなることもあった。ある者は誰かの願いの犠牲になり、ある者は絶望して、自ら首を吊った。残ったのは、賢明な父親の願いによって『健全な死』を与えられたヨヴァンカと、キルシマルヤの2人きりだった。

「あなたのせいよ!あなたのせいよ!」

ヨヴァンカは罪の重さに耐えられず、キルシマルヤを激しく責めた。彼女の精神は、取り返しがつかないほどに壊れてしまっていた。

最後の1人が命を絶ったその夜、キルシマルヤは1人、石碑へと足を向けた。瞳に憎悪をたぎらせ、拳に愛する婚約者と父親の髪を握り締めて。

『待っていたぞ』

 石碑の悪魔は、はじめてその姿を見た時と同様、楡の木の上で長い足をぷらぷらさせて、歯の掃除をしていた。

『お前のおかげで、うまい魂にありつけた。実に2百年ぶりの食事だった。お礼に1つ、良いことを教えてやろう』

「…………」

『お前の母親が死んだのは、ただの寿命だ』

 キルシマルヤははっとして、石碑の悪魔を仰いだ。石碑の悪魔はにっこりと、まるで天使のような微笑みを浮かべて言った。

『お前の婚約者は、お前のことを誰よりも愛していた。だからお前の願いは叶わなかった』

「あっ……」

『お前は誰も殺していないよ。良かったなあ?』



「あああああああああっ!!」






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