キルシマルヤの過去
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「キルシー、あなた、なにをしたの?」
「?なにって?」
婚礼衣装の帽子にレースを縫い付けていたキルシマルヤは、親友のヨヴァンカに尋ねられて顔を上げた。
「その髪よ。つやつやで、1週間前とは明らかに違うじゃない。それに、その肌。まるで生まれたての赤ん坊よ」
「そう?」
「どんな方法を使ったの!?正直に教えなさい!」
ヨヴァンカに鼻息も荒く詰め寄られ、キルシマルヤは苦笑した。
「いやね、なにもしてないわよ。このところ家に引きこもっていて、潮風に当たっていないからじゃない?」
「……恋の力ってやつか。良いわねぇ」
ヨヴァンカは納得したような、していないような顔をした。キルシマルヤはほっとしながらも、少し後ろめたいような気持だった。
毎日同じ時間にやってくる、白い印の付いた奇妙なバッタ。はじめは頭がおかしくなったのかと思ったが、彼等が持ち寄る噂はどれも、嘘のような本当の話だった。
キルシマルヤは自分の髪を撫で、満足そうに微笑む。ヨヴァンカが言う通り、それは今や貴人に献上される上絹にも負けぬ美しさだ。太く健康で、黒々としている。
母の病気は快癒し、父の仕事は順調。キルシマルヤにとって、彼等はまさしく、幸運のバッタだった。
「それよりヨヴァンカ、そろそろ帰らなくて良いの?さぼっていると、またお父さんに叱られるわよ」
「構うもんですか。あんな人」
ヨヴァンカは口うるさい父親の姿を思い出し、悪態を付いた。仕事を手伝いたくないヨヴァンカは、しょっちゅう家を抜け出してキルシマルヤのところへ遊びに来る。泣いてばかりの幼い弟の存在も鬱陶しいようだった。
ヨヴァンカが重い腰を上げたのは、それから半時も経った頃だった。
キルシマルヤがヨヴァンカと別れて家に帰ると、村長のヘラスが訪ねてきていた。
「こんにちは、ヘラスさん」
「ああ」
ヘラスは不機嫌な様子で、短い返事をした。
キルシマルヤは台所でお茶の支度をしながら、リビングで話し込む父とヘラスの様子をうかがった。
「すっかり白状したらどうなんだ。もう何もかもわかっているんだ」
ヘラスの苛立った声が、特に耳をそばだてなくても、台所まで響いてくる。
「わかっているって、なにがです?」
「あくまでもしらを切ろうと言うのか?村の連中は騙せても、この私だけは騙されないぞ!」
ヘラスがテーブルを叩き、驚いたキルシマルヤは茶器を取り落した。ガシャン!と大きな音が響くと、誰が聞いているわけでもないのに、「ごめんなさい」と謝った。
「どこも毎日坊主なのに、あんたの船だけ大漁だ。なにか特別な方法で、魚を集めているとしか思えない」
「私がずるしてるって言うんですか?……まさか。特別な方法なんて、ありゃあしませんよ。なんなら、うちの下働きに聞いてみると良い」
「口裏を合わせているのかもしれん」
「はあ、ヘラスさん。だとしても、獲れた魚はみんなで平等に分け合っているんだ。問題ないじゃありませんか」
父が冷静に答えると、ヘラスは余計にかっかした。
「とにかく、これ以上この異常事態が続くようなら、排斥も検討する」
「排斥だって!?そんな馬鹿な!」
話が思いもよらない方向へ進んで行き、聞き耳を立てていたキルシマルヤも青ざめた。排斥などということになれば、今後漁は出来なくなる。町を出て行けと言われたも同じだ。
「組合の中では前々からそういう動きはあった。今まではこの私が、そうならないように、取り計らってやっていたんだ。妻を亡くし、男手一つで娘を育てなければならない、お前を哀れと思ってな」
「…………」
「しかし、今となっては間違いだったと思っているよ。傲慢な人間は、自分勝手な考え方しかできないものだ。今から身の振り方を考えておくんだな」
ヘラスは言い放ち、荒々しく扉を開けて出て行った。リビングが静かになったところを見計らって、キルシマルヤは恐る恐る台所から顔を出した。「父さん……」
「気にすることはないキルシー。ヘラスのやつは、私に村長の座を奪われやしないかと不安なのさ。相変わらず臆病な男だ」
父は憎しみのこもる眼で、玄関の扉を睨んでいた。
「父さん。父さんとヘラスさんは幼馴染なのでしょう?そんな言い方は……」
「ふんっ。あんなやつ友達なもんか。少しばかり良い船を持っているからって、威張りやがって」
普段物静かで言葉少なな父が、いつになく激昂しているのを見て、キルシマルヤは怖くなった。
「これからは、俺が村のみんなを引っ張って行く。もうあいつにでかい顔はさせん。排斥だと?やれるものならやってみろ!」
父はそんなキルシマルヤの心など知りもせず、口汚くヘラスを罵った。
「それよりお前、結婚式の準備は進んでいるのか?」
「ええ。順調よ父さん」
「先週叱ったばかりだと言うのに……ペトリのやつ、またミラと会っていたぞ。お前達、本当にうまくいっているんだろうな?」
父に問われたキルシマルヤはわずかに動揺したが、何食わぬ顔で答えた。
「ミラは大切な友達だもの……あの2人は家が近いから、仲が良いのよ。それだけよ」
「なら良いが、その大切な友人に婚約者をとられるような事態だけは避けてくれよ」
「わかっているわよ……」
キルシマルヤは薬草を摘んでくると言い、外に出た。父と2人きりで家にいると、息が詰まる。恋人のペトリとのことを、あれこれ詮索されるのも嫌だった。
教会の先の森で薬草を摘みながら、キルシマルヤは考えていた。
父の仕事の成功を願ったのは、他でもないキルシマルヤだ。良かれと思ってしたことだが、軽率だったろうか?
「はあ……」
魚が獲れすぎるばかりに、父があらぬ疑いをかけられている。下手をすれば、この町を追い出されるかもしれない。
こんな時にばかり、嫌なことは重なるものだ。
家に帰る途中、キルシマルヤは婚約者のペトリを見かけたのだが、傍らには彼等の友人のミラがいた。肩を寄せ合い、裸足で浜辺を歩く様子は、恋人同士そのものだ。キルシマルヤはナイフで胸を抉られたような気持になった。
翌日、キルシマルヤはいつものように遊びに来たヨヴァンカに相談した。嫉妬に苛まれる醜い心を打ち明けると、ヨヴァンカは笑った。「あんたってお人よしね!」
「そんなに嫌なら、ミラにはっきり言えば良いじゃないの。私の婚約者にちょっかい出さないで!って」
「でも、ペトリはきっとミラのことが……」
「ばかねぇ。ミラは村長の1人娘よ。天涯孤独のペトリとは、身分が違うわ。2人が愛し合っていたとしても、結婚なんてヘラスが絶対許さないわよ」
「それは、そうだけど……」
「しっかりしなさいよ。ペトリが誰を愛していたって、婚約者はあなたなのよ。それに男なんて、子供ができれば変わるわ」
ヨヴァンカは知ったかぶって断言した。
「そういうものかしら?」
「そういうものよ」
ヨヴァンカに励まされ、少しは気を持ち直したキルシマルヤだったが、その日の夕方も、ペトリとミラは連れ立って歩いていた。子犬のようにじゃれ合う2人を目撃したキルシマルヤは、きりりと唇を噛んだ。腹の底からむくむくと湧き上がってくる嫉妬を、抑えられそうにない。
そんな時だ。キルシマルヤはふと思い出した。
『村はずれにある石碑の前で3度願いを唱えれば、必ず叶う』
先日、キルシマルヤの部屋の窓辺で、幸運のバッタが実しやかに囁いた噂。叶えたい願いが特になかったので忘れていたが、今がその時かもしれない。キルシマルヤは進路を変え、脇目も振らずに村はずれの石碑へ向かった。
楡の大木の根元に打ち捨てられた、赤子ほどの大きさの石碑。衝動にかられるまま駆けてきたキルシマルヤは、上がった息を整え、その前に立った。
古い石碑は、苔や木の根がこびり付いていて、なにが記されているかは不明だ。戦死者の墓か、偉人の詩か、もしかしたら、ただの道標かもしれない。 だが、村はずれの石碑と言われれば、この場所しか思い付かない。
「ペトリが私のことを、誰よりも、一番愛してくれますように」
キルシマルヤはきょろきょろと辺りを見回した後、早口で3回唱えた。しばらく待ってみたがなにも起こらず、キルシマルヤは苦笑した。どうかしている。悋気を起こして神頼みだなんて、こんな子供っぽい姿を誰かに見られたら、笑われてしまう。
馬鹿馬鹿しく思ったキルシマルヤだったが、家に帰り着いてみると、玄関の前でペトリが待っていた。早速願いが叶ったのかと思い、キルシマルヤはどきりとした。
「親父さんに怒られちゃったよ。君を不安にさせるなって」
キルシマルヤは焦った。父さん、余計なことを……
「気にしないでねペトリ。あなたとミラは親友なんだもの、私に気兼ねする必要ないわ」
嘘だ。口では寛容なことを言って、内心では妬ましくて仕方ない。ペトリはにっこりとほほ笑んで、キルシマルヤの手を握った。
「君が理解のある女性で良かった。頼むからおかしな誤解をしないでくれよ。いつも言っている通り、ミラはただの友達だ。俺が愛している女性は、君だけだ」
「ペトリ……」
「結婚式が……君の隣で目覚める日が待ち遠しいよ。本当は1秒だって離れていたくないんだ」
ペトリがはっきり告げると、キルシマルヤの不安は、嘘のように消え去った。
どうしたんだろう?いつもはこんな情熱的な人じゃないのに。あの石碑は、本当に魔法の石碑だったのかもしれない。
湧き上がる喜びと同時に、キルシマルヤの胸にちくりと罪悪感の針が刺さる。キルシマルヤの願いが叶ったということは、ミラの恋心が打ち砕かれたということだ。こんなことを言えば、ヨヴァンカはまた「お人よしね!」と言って笑うんだろう。
薄暗い思考に囚われたキルシマルヤだったが、ペトリの顔を見ていると、後ろめたさはほんの一瞬で消えてしまった。
彼は私の婚約者。彼が誰を好きでも、譲ることなんて出来ない。
家に帰って行くペトリに手を振っていると、背中から忍び笑いが聞こえてきた。驚いて振り返ると、ヨヴァンカが立っていた。
「ヨヴァンカ。見てたの?声をかけてくれれば良いのに」
「邪魔したら悪いと思って。その様子じゃあ、心配することはなさそうね」
キルシマルヤは少し迷って、ヨヴァンカに石碑の秘密を打ち明けた。「あのね。実は……」
「白い印のあるバッタねぇ?夢でも見たんじゃないの?」
「私だって、はじめはそう思ったわ。でも本当なんだもの」
頭から疑ってかかるヨヴァンカに、キルシマルヤは言い張った。そして、「誰にも言わないでね」と付け加えた。
「どうしてよ?なんでも願いが叶うんでしょ?独り占めは良くないわ」
「だって……絶対に信じてもらえないわ。子供っぽいって笑われるだけよ」
「私は信じるわよ。証拠に、これから早速願いごとをしてくるわ」
ヨヴァンカはキルシマルヤと別れて石碑に向かい、キルシマルヤはそれを見送った後、家に戻った。いつになく浮かれていた。生真面目な彼から囁かれた甘い言葉。思い出せば頬は緩み、鼻歌が漏れる。
「ただいま」
父は出かけていて不在だった。誰もいない1階のリビングに声をかけてから、キルシマルヤは母の様子を見に、2階へ上がった。
母は眠っていた。開けっ放しの窓を閉め、揺り椅子に腰かけようとして、キルシマルヤは母の様子がおかしいことに気付いた。
「お母さん……?」
キルシマルヤは近付いて行って、母の口元に手をかざした。呼吸は止まっており、触れた頬は氷のように冷たかった。
「そんなっ……どうして!?病気は治ったはずなのに……!!」
母は眠るように死んでいた。キルシマルヤは急ぎ医者を呼びに行ったが、手遅れなのは明白だった。
葬儀は急がれた。キルシマルヤは嫌がったが、母の死の原因が病であった場合、人にうつるのを防ぐために、仕方のないことだった。母の遺体は、亡くなった翌日には火葬され、丘の上の墓地に埋葬された。
「あの、キルシー……」
「ヨヴァンカ……!」
葬儀の日、キルシマルヤはヨヴァンカの胸に縋って泣いた。
気落ちするキルシマルヤを励ますために、ペトリと父は話し合って、結婚式の日取りを早めることにした。キルシマルヤも賛成した。とにかく今は、寄り掛かれる人が欲しい。
結婚式の3日前のことだ。鏡の前で当日の衣装を試着していたキルシマルヤは、手伝いのヨヴァンカに言った。
「花嫁姿を見て欲しかったわ」
「見てるわよ。天国で」
ヨヴァンカの励ましに、キルシマルヤは笑顔を返した。
「そういえばヨヴァンカ、その顔……」
「気付いた?そばかすを消してもらえるように、石碑に願ってきたの。そしたら翌日にはすっかりなくなってたのよ。キルシーの言った通りだったわ」
告白するヨヴァンカはとても嬉しそうだったが、キルシマルヤの胸には、漠然とした不安がよぎった。なにか、とても大切なことを見落としているような気がするが、それがなんなのか分からない。
「ねぇ、ヨヴァンカ。石碑の話、他の誰にもしてないわよね……?」
「え?えぇ……」
ヨヴァンカが頷いたので、キルシマルヤは取り敢えずほっとした。
「絶対に秘密ね。約束よ」