追い詰められたアンセルム
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ダダダッ!ダダダッ!ノラとシスモンドを乗せた黒馬は、土煙を巻き上げながら、我武者羅に走り続けた。
「ねぇ!どこへ行くの!?」
「うるさい!黙っていろ!」
逞しい黒馬は速度を下げることはなく、一行は町からどんどん離れて行った。このままどこか遠く、救いの手の届かないところまで連れ去られるのか。ノラが恐怖していると、シスモンドは急に手綱を引き、馬を停止させた。
シスモンドは薄闇の向こうをじっと睨んでいた。ノラも同じように目を凝らした。
道の先にいたのは、人間ではなかった。少なくともノラには、上等の洋服を着せられた木偶人形のように見えた。
「お前達がここへ来ることはわかっていた。その娘をお放し」
しわがれた声が響き、ノラはぞっとした。
「あの人は……」
「魔女キルシマルヤ……女の身でありながら戦で数々の巧妙を立て、皇帝陛下の御傍に侍ることを許された、ただ一人の悪魔学者だ」
シスモンドは親切に答えたが、その声は硬く、緊張が見て取れた。
「恐れるなシスモンド。英雄などと言っても、30年も昔の話だ。いかな力も、時の流れには勝てぬ。あの枯れ木のような細腕では、ナイフどころか匙1本持てまい。それに、こちらには人質がいる」
いつの間にか追い付いてきたアンセルムが、勝利を確信して言った。
シスモンドは馬を降りると、ノラをアンセルムに預け、キルシマルヤに斬り込んでいった。シスモンドの剣はキルシマルヤの胸を貫いたが、その感触は空っぽの木箱を衝いたように、手ごたえがなかった。「な、なんだ?」シスモンドは混乱した。
「舐められたものだ」
キルシマルヤはくすりと笑って、その長い年月をかけて川縁に辿りついた流木のような片手を上げた。すると突然、シスモンドの両腕が燃え上がった。
「ぎゃあああっ!!」
炎は燃え広がることなく、しかし消えることもなく、シスモンドの肘から下の肉を焼き尽くした。
「その腕はそのまま使えるから、安心おし。剣は持てないだろうが、ペンくらいは平気さ」
骨だけになってしまった腕を見て気絶したシスモンドに、キルシマルヤが言った。ノラは恐怖のあまり、人質になっていることも忘れて、アンセルムに縋り付いた。
「来るな!化け物め……!」
アンセルムは後退りながら、滅多やたらに剣を振り回した。
「ダルワール、その娘をお放し」
キルシマルヤは距離を詰めながら、厳しい口調で警告した。
「なぜだ!皇帝陛下の側近であるお前が、なぜこの娘を気に掛ける!こんな身分の低い小娘、どうなろうと知ったことではないだろうが!」
「理由はお前が良くわかっているんじゃないかい?」
キルシマルヤがとの距離が徐々に詰まり、アンセルムはいよいよ焦り出した。隠れる場所がないかと、忙しなく視線をめぐらせるアンセルムを、キルシマルヤは笑った。
「さらばだ、アンセルム・ダルワール。マリアン殿下を手にかけようとしたその時から、お前の運命は決まっていた」
「ああああああっ!!」
どおおおおんっ!!と音がして、雲一つない空から、炎の滝が落ちてきた。炎の滝はノラを傷つけることなく、アンセルムの身体を粉々にした。
『ジゼラ……』
炎の柱に包まれた瞬間、アンセルムの唇が女性の名前を形作ったのを、ノラは見逃さなかった。アンセルムの身体は髪の毛1本残さず消滅し、後には何も残らなかった。
ノラが地面に座り込んだまま放心していると、キルシマルヤの身体がガラガラと音を立てて崩れた。
「お婆ちゃん……!」
ノラは慌てて駆け寄って、キルシマルヤの頭を拾い上げた。キルシマルヤはさもない風に説明した。「寿命が近付いているんだ」
「町の方を向かせておくれ」
ノラは町の方を向いて、キルシマルヤの抱えた。
「ああ、それで良い。良く見える」
2人はしばらくの間、朝焼けに染まるオシュレントンの町を……索漠とした草原の向こうに小さく、ぽつり、ぽつりと立つ家々を眺めていた。5分が経ち、10分が経つと次第に暇になって、ノラが口を開いた。
「どうして助けてくれたの?」
ノラの質問に、キルシマルヤはもったいぶって答えた。
「お前の噂を耳にしたことがある」
「噂?私の?」
「ああ。正確には、悪魔ミライとその主人の噂だ」
ノラは訳が分からなくなって、首を傾げた。
「噂って、いつ?誰に?」
「誰かと聞かれれば、バッタだがね。不思議なことに、今から半世紀以上も昔のことなんだ。私がその噂を耳にしたのは」
ノラはいっそう首をひねった。キルシマルヤは一体どうやっているのか、喉を絞るようにして笑った。
「私の故郷は、カリャンガ領の海沿いにある漁村でね。豊かではないが、人々は優しく、長閑で良い村だった。ちょうどこの町のように」
キルシマルヤは静かな声で語り出した。ノラは黙って耳を傾けた。
「当時私は、病気の母の看病をしながら、漁に出る父親の手伝いをしていた。幼馴染で婚約者のペトリ……優しい人だった……彼との結婚を間近に控えていて、私と友人達は、その式の準備に追われていた」
キルシマルヤはそこで一端話を区切り、長いため息をついた。
「ある日のことだ。窓辺に座って花嫁衣装をこしらえていた私は、サッシのところに2匹のバッタがとまっているのを見つけた。羽に白い印のある、見たことのない種類のやつだった。どこから入り込んだのか、早々に始末してやろうと立ち上がりかけた、その時だ。2匹のバッタのうちの1匹が言った」
―――悪魔ミライとその主、ノラ・リッピーには近づくな―――
「からかってるのね」
「この話には続きがあるんだ」
まあ、待て待てと、キルシマルヤは憤慨するノラをなだめた。
「夢のような噂話を引っ下げて、バッタは毎日やってきた。森の向こうのリンゴの樹には50個に1個毒りんごが生るだとか、新月の夜にだけ現れる泉の水で顔を洗えば3歳若返るだとかね。恐ろしく思ったのは最初のうちだけで、好奇心に駆られた私は、その幾つかを試してみた」
「噂は本当だったの?」
「そうさ。教会の敷石の下には銀貨が隠されていたし、彼等がどこかから運んできた花の蜜を入れたお茶は、母の病をたちどころに治した。私は有頂天になって、次から次へと噂を真実に変えていった」
キルシマルヤは声を低くした。
「もっと慎重に考えるべきだったのさ。幸せの絶頂にいた私は、幸運が悪夢に変わる日が来るなんて、思いもしなかったんだ」
「村はずれにある石碑の前で3度願いを唱えれば、必ず叶う」