出発
著作権は放棄しておりません。
無断転載禁止・二次創作禁止
次の日、夜明けまでまだ2時間はあるかという時間に、ノラとマリは自宅を出た。両親が目を覚ます前に、出発しようというのだった。書置きもせず、黙っていなくなることをマリは反対したが、アンセルムの指示だ。逆らうことはできない。
旅行鞄を抱えて歩いて行くと、教会の角に馬車が停まっていた。傍らにはダンテとアンセルムが立っていた。
「本当に、良いのか?」
ダンテに尋ねられたノラは、アンセルムの顔をちらりと見て頷いた。ダンテは悔しそうに、「俺はそんなに頼りないのか……」と呟いた。
「おーい!待って!待ってくれー!」
ノラとマリが馬車に乗り込もうとすると、道の向こうからオリオが駆けてきた。ノラとマリは顔を見合わせた。
「気持ちは変わらないんだろ?やっぱり俺が付いてなきゃさ」
すっかり旅支度を済ませたオリオは、目を丸くするノラとマリに、同伴をすることを伝えた。ノラは感激して、オリオの首に飛び付いた。
「マリも、良いよな?」
「もちろんです、兄上」
マリは快く了承した。オリオはアンセルムに向き直り、ぐいっと胸を反らした。
「妹はまだ小さい。そばにいて、道を示す者が必要だ。許してくれますね?」
「もちろん、歓迎しよう。ちょうど厩舎で下働きを探していたところだ」
アンセルムは取り澄まして答えたが、胸の内で舌打ちしているのが見え見えだった。
一同は馬車に乗り込んだ。御者のダンテが手綱をしならせ、いよいよ馬車が走り出すと、ノラは急に心細くなった。オリオはノラの不安を取り除くよう手を握った。
「年末には帰って来よう。3人で」
オリオに励まされ、ノラの気持ちが幾らか上向きかけたその時。
『待ってー!待ってー!』
がたごとという音に混じって聞こえてきた声に、ノラははっとした。幌の目隠しを捲ると、遠くに、裸足で追いかけてくる父と母の姿が見える。アンセルムは今度こそ、皆に聞こえるような舌打ちをした。
「ダンテ!もっと速く走れないのか!?」
アンセルムは御者台に座るダンテに向かって、大きな声で怒鳴った。反応がないので、「もっと速度をあげろ!」「速度をあげろ!聞こえないのか!?」と、何度か繰り返した。
スピードが上がり、父と母の姿が見えなくなると、ノラは堪らない気持ちになった。今すぐ馬車から飛び降りて、母の胸に飛び込みたい。本当は町を離れたくなんかない。
ぐらぐらと揺れていた心が、寝間着で走る母の姿を見て、一気に傾いた。迷い悩んだ末、ノラがおずおずと口を開いたその時だ。
「帝都に着いたら町を案内しよう。マリアン様と一緒に、観光を楽しむと良い」
ノラの様子をつぶさに観察していたアンセルムが、先手を打った。マリが「それは良いな」と賛成し、ノラはぎくりとした。
「帝都には娯楽がたくさんあるぞ。劇場街へ行って観劇を楽しむも良し、ゴンドラに乗って川下りに興じるも良し。競馬、拳闘、移動遊園地に、仮面舞踏会。夢中になること間違いなしだ。こんな田舎の生活など、直ぐに忘れるさ」
アンセルムはさりげなく、腰に佩いた剣に触れた。その動作には、ノラにしか分からないメッセージが込められている。今更気を変えてみろ。どうなるかわかっているだろうな?
三日月形に細められた瞼の奥、冴え冴えとした灰色の瞳が、ノラを見透かしている。ノラは口を噤み、喉の奥からしみ出した酸っぱい唾を飲み込んだ。
馬車は町の入口目指して、猛スピードで田舎道を駆け抜けていく。一度町を出てしまえば、父や母がどんなに急いでも追い付けないだろう。そして帝都に着いてしまえば、おそらくもう二度と、二人の顔を見ることはできない。ノラは悲しみに打ちひしがれた。
ヒヒーンッ!!
「な、なんだ……!?」
ノラの悲観的な思考は、馬が高く嘶き、馬車が急停止することで消滅した。ガッタン!と荷台が揺れ、膝を抱えていたノラは、隣に座るオリオの上に倒れ込んだ。
ハンスとアンセルムが、慌てて荷台を降り、確認に向かう。「なんだろう?」と、ノラ達も後に続いた。
御者台の上には、顔の色を失くしたダンテの姿があった。
「なにがあった!ダンテ!」
ダンテは震える指で地面を指差した。ダンテの指の先には、黒い影が転がっていた。鹿か猪かと思って近付いてみると、その正体は痩せっぽちの少年だ。
「こ、この少年が、急に飛び出してきたんです!慌てて手綱を引いたんですが、間に合わなくて……!」
ダンテは狼狽しきった様子で報告した。
「大変だ……!」
ハンスは驚愕し、アンセルムは忌々しそうに顔を歪めた。
「動かさない方が良い。すぐに医者を!」
「俺が行こう!案内する!」
ハンスとオリオは大慌てで馬車に飛び乗り、診療所目指して一目散に駆けて行った。
(し、死んでるの……?)
少し離れたところから固唾を呑んで様子を見ていたノラは、恐る恐る少年の……サリエリの顔を覗き込んだ。
(うん?)
ノラがその青白い顔をじーっと見つめていると、気絶しているはずのサリエリが、そろりと片方の瞼を開いた。ノラと目が合い、はっとして、死んだふりを再開する。
(こいつ……)
ノラは呆れ返った。当り屋の真似事なんかして、どういうつもりだ。
ダンテがアンセルムの目を盗んで、ノラの肩を叩いた。彼の静かな瞳を見て、ノラは悟る。ダンテはサリエリの悪戯に気付いていて、上手いこと彼の芝居に乗っかったのだ。
「もしもお前が望むなら、俺はお前の従者として、アンセルムの企みを阻止してみせる」
ダンテは小さな声でノラに耳打ちした。ノラはちらりとアンセルムの方を見た。アンセルムはマリと話していて、こちらに気付く様子はない。
「俺を、信じてくれるか?」
真っ直ぐに見つめてくるダンテの瞳に、ノラは頷いた。もはや迷いはなかった。
「私、この町にいたい。ダンテ、助けて」
やっぱり、帝都へ行くことはできない。心の声はうるさいほどに、愛する家族のそばにいたいと叫んでいる。無視すれば、ノラはもう2度と、心から笑うことはできないだろう。
こうして、ノラは覚悟を決めた。
サリエリは駆け付けてきたアルバート医師の診察を受けた後、大事を取って診療所に運ばれた。
「我々も、一度屋敷に戻ろう。あの少年の無事が確認できるまで、出発は延期だ」
「延期だと?冗談じゃない」
ハンスの提案に、アンセルムは案の定異を唱えた。
「あの餓鬼には金を渡せば済む話だ。感謝こそすれ、文句は言わんだろう。いや、はじめからそれが狙いかもしれん」
「口を慎め、アンセルム。騎士にあるまじき暴言、見過ごせないぞ」
ハンスが咎めると、アンセルムの顔色が変わった。アンセルムの頬や太い眉毛が、ぴくぴくと痙攣する。
「……偉くなったものだな、成り上がりのビューヒナー。田舎男爵の四男坊ごときが、由緒あるダルワール家の嫡子たる私に意見するとは」
溢れ出しそうになる怒りを、なんとか抑え留めていると言う様子だった。顔を真っ赤にするアンセルムに対し、ハンスは無表情だった。
「我らの任務はマリアン様を捜し出し、帝都まで無事に送り届けること。他に優先すべきことなどないはず。黙るのはお前の方だ」
アンセルムは苛立ちを抑え、毅然として言い放った。
「ノラ、君はどう思う?」
アンセルムは出し抜けに、傍らで怯えきっているノラに話を振った。
「1日も早く町を出て、帝都へ向かうべきだ。君もそう思うだろう?」
アンセルムの鋭い瞳が、ノラに、『頷け!頷け!』と訴えている。ノラは戸惑い、弱り切ってハンスの方を見た。
「……残念だよアンセルム。お前は嫌な奴だが、分かり合えると思っていたのに……」
ハンスは長いため息を吐き、人差し指と中指で眉間を揉んだ。
「ダンテがなにもかも話してくれた。お前が彼を脅迫しノラを誘拐させたことも、マリアン様を手にかけようとしたこともな。本当は町を出てから話を聴くつもりだったが、こうなっては仕方ない」
ハンスは腰に佩いた剣を抜き、切っ先をアンセルムの方に向けて構えた。
「なにを馬鹿なことを。私がマリアン様を……殺害だと?寝言は寝て言え」
「寝言かどうかは、事情を聴いてから決める」
「ハンス……子供のたわごとなど、信じる訳ではあるまいな」
ハンスに追い詰められたアンセルムは、じりじりと後退した。睨み合いの決着は、残りの騎士団のメンバーが駆け付けてきたことで保留となった。黒い馬を駆ってやってきた騎士達は、瞬く間にアンセルムの周りを取り囲み、長い槍の先を彼に向けた。
「カレル・ベルナスコーニ、グスターボ・ゴイティアの両名が犯行を自供しました」
その内のリーダーの一人が、ハンスに向かって敬礼し、きびきびと報告した。アンセルムの顔は赤から紫へ、紫から土気色に変わった。
「このようなことをして、ただで済むと思うのか?ダルワール家当主の、この私に」
アンセルムは低い、地を這うような声色で唸った。
「後のことは後で考えるさ。それに、お前が言ったんだ。我らの任務はマリアン様を捜し出し、帝都まで無事に送り届けること。他に優先すべきことなどないとな。俺はお前を危険だと判断した」
「…………」
「アンセルム・ダルワール殿。マリアン様殺害未遂の容疑で、貴殿を拘束させて頂く」
ハンスが宣言すると、馬を降りた騎士達がアンセルムににじり寄った。アンセルムは大きな舌打ちをして剣を抜いた。
「皆、殿下を守れ!」
アンセルムの標的はマリに違いない。そう判断した騎士達は、マリの周りをがっちりと固めた。しかし、アンセルムが実際に手を伸ばしたのはノラだった。
アンセルムに腕を引っ張られたノラは、声にならない悲鳴を上げた。
「気が触れたか!アンセルム!」
「おっと、動くなよ!」
アンセルムは素早く、ノラの背中に剣を突きつけた。
「こういう品のない真似はしたくないんだがな」
「ノラ!……お前の目的は俺だろう。俺がそちらへ行く!ノラを離せ!」
勇敢にも、マリが人質交代を申し出た。アンセルムは首を左右に振って、きっぱりと拒否した。
「お断りします。この娘さえ手に入れば、私が手を汚す必要はない」
「…………」
「その顔、あなた様は気付いておられたようですな」
マリはぎりりと奥歯を噛みしめ、事情を知らないオリオとハンスは困惑した。「どういうことだ?なぜノラを?」
アンセルムはくつくつと、歯の隙間から笑いをもらす。
「分からぬのも無理はない。この娘は……」
「ええい!」
今だ!ノラはアンセルムの手に思い切りかぶり付いた。
「ぎゃあっ!」
アンセルムは首を絞められた鶏みたいな情けない悲鳴を上げ、思わずノラを突き飛ばした。オリオは地面に投げ出されたノラを、すかさず保護した。
「ダンテ!」
合図と共にハンスが放った剣が、空中できれいな弧を描いてダンテの手に納まる。ダンテは素早く剣を構え、アンセルムに斬りかかった。
向かってくるのがダンテだとわかると、アンセルムはにやりと笑った。本物の騎士ならともかく、相手は子供。それにダンテの利き腕は今、使い物にならない。勝機は十分ある。
アンセルムの底意地の悪さを知っているノラには、彼の考えが手に取るようにわかった。怪我をした腕を痛めつけて、ダンテを人質に取るつもりだ。
ノラはハンスに助けを求めようとしたが、それは大きな間違いだった。
「ぐっ……うっ!」
目にも留まらぬ速さで繰り出される技の数々に、ノラは目を瞬いた。ダンテはまるでダンスでもするかのように、華麗にアンセルムを追い詰めて行く。アンセルムは防戦一方で、なす術もなく、しまいには剣を取り落した。鼻頭に剣先を突きつけられたアンセルムは、良く知っているはずの義弟の変貌に驚き、混乱した。
「相手が俺であったことを、ありがたく思うんだな。ハンス様が剣を抜いていたら、お前などとっくにあの世行きだ」
ノラはダンテの雄姿をうっとりと見つめた。日頃から鍛錬していたのは知っていたけど、こんなに強かったなんて!
ハンスは愛弟子の活躍を見て、満足そうに笑った。
「潔く諦めろアンセルム。家の名とこねで騎士になったお前など、ダンテの敵ではないよ」
ハンスが片手をあげて合図すると、騎士達がだだだ!と駆け寄って、アンセルムを連行して行く。これですべて落着かと、誰もが気を抜いた瞬間に、事件は起きた。
「ぐあっ!!」
仲間の1人が裏切り、味方に斬りかかったのだ。アンセルムも懐から小刀を取り出し、別の騎士の脇腹を素早く切り付けた。油断していた騎士達は仲間の負傷に取り乱し、アンセルムをあっさり解放した。
「良くやったぞシスモンド!」
シスモンド、と呼ばれた裏切りの騎士は矢のような速さで駆けてきて、盾になろうとしたオリオを殴り倒し、ノラの体を荷物みたいに抱え上げた。
「追って来ればこの娘は殺す!」
シスモンドはノラを抱えたまま馬に跨ると、言い捨てて逃走した。アンセルムも馬を強奪し、後に続いた。良く計画された、鮮やかな手際だった。