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砲声 ③

 視察一日目を終えたルーネは寝床であるグレイ・フェンリル号へ続く港の石畳を歩いていた。

 女帝であることを明かしたために将軍たちから兵舎の貴賓室で寝泊まりするように勧められたが、明らかに昼間のご機嫌を直そうと取り繕っているようだったので、断った。

 彼女が案じているのは前線で戦う兵士たちのことだ。

 いくら訓練を積み重ねた精鋭といっても、所詮は生身の人間。

 食事も休息も疎かにしてはいざという時に満足な結果を出せない。

 小難しい顔をするルーネの隣を歩くヘンリーはケラケラと他人事のように笑い、彼女の皺が寄った眉間を指で小突く。


「いい年した小娘が皺なんて作ってんじゃ無えよ。悩むのも結構だがな、大将はドンと笑って構えておくもんだぜ? 俺様のようにな」


「はぁ……本当、あなたが心底羨ましいわ。いざとなったら海へ逃げられるんだもの」


「逃げたくなったか?」


「いつも逃げたいわよ。皇女のときからね。あなたも知っているでしょ?」


「まあな。だが俺の見習いに、コソコソ逃げ隠れするような奴がいた記憶はないぜ?」


 そう言ってヘンリーは懐からワインの小瓶を取り出し、ルーネに差し出す。


「飲んで全部洗い流しちまえ。嫌なことなんざ、酔って寝れば明日には忘れるもんだ」


「……ありがとう」


 受け取ったルーネはコルクを引き抜き、喉を鳴らしてワインを飲み下す。

 政治のことなど考えたくない。

 何もかもが汚らしく、金が絡み、堕落した人間ばかりを目にしてしまうのだから。

 日々汗を流して働いている農夫たちのほうが余程信頼出来る。


「ぷはぁ! ほんと飲まなきゃやってられないわぁ! 女帝なんて罰ゲームよ! レイディン卿に命令! 今夜は私にとことん付き合いなさい!」


「へいへい、承りました。たく、とんだ君主様に雇われたもんだぜ」


 船長とルーネが酒盛りをするという話はあっという間に船内に漏れ、我も我もと甲板に酒樽が運びだされていった。どうせ無くなったら街の酒場から買い占めてやればいいのだ。

 普段は港に繰り出していく水夫たちも、今回ばかりは土臭い陸軍の縄張りということもあってか、外泊せず船に戻ってくる者が多かった。

 陸軍の演習とやらがどのようなものか聞きたがる連中も少なくない。

 特にエドワードら新人船乗りからすれば、雲の上の存在と思っていた女帝と直に語らい、杯を交わすことが出来るのだ。一生に一度あるかどうかという機会なので、こぞって彼女の周りに若い男たちが寄っていく。

 それらに睨みを効かせていたのが、空になった酒樽に腰掛ける先輩キャビンボーイのタックだった。


「こらぁ! ルーネが困っているだろぉ! 紳士ならもっと遠慮し給えよ!」


「そんなこと言って先輩が独り占めするつもりなんでしょう!? そうはいきませんって!」


 茶化すエドワードはタックの制止を振りきってルーネの前に躍り出ると、恭しく一礼してみせた。


「船大工見習いのエドワードでありまッス! 以後、よろしくッス!」


「ああ、キールさんのお弟子さんね? 私もこの船では同じ見習いだから、仲良くしましょうね!」


 と、ルーネはエドワードの血豆だらけの手を握って微笑んだ。

 これにはタックも嫉妬の炎を燃え上がらせ、服の袖を噛んで悔しがった。

 その肩を黒豹が同情的に叩く。


「あんたも苦労するねえ。他の奴らに負けるんじゃないよ?」


「姐さん……」


「まっ! オレは毎日ルーネの裸を堪能させてもらってるけどね! 胸とか脚とか撫で放題さね! アッハッハ!」


「グギギギギギ!」


 歯ぎしりを鳴らしてヘラヘラと余裕を見せる黒豹を睨むタック。

 そんな二人の耳にも、ついつい踊りたくような音楽がすぐ側から聞こえてきた。

 視線を向けてみれば、腕に覚えのある水夫たちが得意の楽器を持ち寄ってちょっとした演奏会が始まっているではないか。

 航海士ウィンドラスがヴァイオリンを奏で、一人が太鼓を打ってリズムを取り、更に笛を吹く男が小躍りしながら皆の周りをぐるぐると歩き回っている。

 すると一人、また一人と酒場にいるときと同じように唄い、踊り、景気付けとばかりに夜空へ向けてピストルを撃ち放つ。

 付近に停泊していた商船の乗組員たちは、突然響き渡った銃声に飛び上がるほど驚いた。

 慌てて甲板に出て様子を伺えば、荒くれたちがどんちゃん騒ぎを繰り広げている。

 中には抗議してやろうと腕をまくる者もいたが、そんな彼らを面白げに眺めるヘンリーの姿を見るやいなや、誰もが口を噤んで船の中へ戻っていった。


「ケッ、腰抜けどもが。喧嘩も出来んのなら船乗りなんか辞めちまえ!」


 聞こえるように大声で言ったヘンリーはハリヤードが作った料理を摘みつつ、見知った連中や見新しい連中を感慨深げに見渡す。

 幹部たちの顔に変わりはないが、名も無き水夫たちは随分と面子が入れ替わったものだ。

 しぶとく生き残った水夫も、懲りずにヘンリーに付き従っている。

 彼らに何故かと問えば口を揃えて同じ答えを返すだろう。


 船長についていけば金と名誉が手に入るからだと。


 他の例に漏れず、彼らもまた善良な商船や客船乗りであったところを、ヘンリーに誘われて悪の道に自ら堕ちていったクチだ。

 おかげで今では陸で恐れられている半端な殺人鬼などよりも多くの命を奪い、こうして美味い酒を味わっている。

 商船に乗っていたときはヘマをすればムチで打たれ、理不尽な叱責も多かった。

 だが今ではヘマをしたところで少し睨まれるだけで済む。

 あとは生き残るか先に逝った同僚同様に死ぬだけだ。

 なんとも単純で明快で磊落な日々であろうか。

 其の上に大金が手に入るとなれば、むしろ、こんな美味しい仕事をやらない奴がどこにいるというのか。

 しかも女帝陛下の直属ともなれば、もう言うことはない。


「船長バンザイ! 女帝陛下バンザイ! 俺たちバンザイ!」


 全員がジョッキを高々と掲げ、二人と自分たちを称える。

 世界で最も偉大な帝国と、世界で最も強い男の下に集ったからには、何を恐れることがあろうか。

 敵の要塞すら陥落させた。

 数えるのも億劫になるほどの敵船を拿捕した。

 両手に収まりきらないほどの金貨も手に入れた。

 もう、いつ死んだところで胸を張れる。

 やがて来るであろう大国同士の戦いを思うと、武者震いがしそうだった。

 頼もしい悪党たちの士気に応えるべく、ヘンリーは一人ひとりのジョッキに酒をなみなみと注いで回り、ルーネも凛々しい女帝の顔つきに戻る。


「帝国にとって、いえ、私にとって、貴方達のような海の勇士こそが頼みです。悪党結構! 海賊結構! 私も今は立派な暴君! 歴史に悪名を刻みつけることを恐れない! 私達に歯向かう連中に思い知らせましょう! 私達の牙の鋭さを!」


「応! 応! 応!」


 意気は天を衝くばかりに高まり、全ての酒樽を飲み干した男たちはその身を甲板に投げ出し、深い幸せな眠りについた。


 ヘンリーとルーネは場所を船長室に移し、さらにワインのコルクを開ける。


「一晩中飲むつもりか? 明日に響いても俺は知らんぞ?」


「あら、さっきも言ったじゃない。私は暴君だって。暴君なら、いつも酔っ払って女を侍らせているものでしょう? ま、侍らせているのは女じゃなくて海賊だけど」


「違い無え。じゃあ、海賊の俺様も当然酔っ払っていていいわけだ」


 互いのグラスにワインを注ぎ、小さな音を立ててグラスを重ねる。

 願わくば、このひと時が永遠に続きますように……。

 そんな儚い願いを心に抱くルーネは、日付が変わる頃に微睡み、ヘンリーに抱えられて彼のベッドへ移された。まだ何処かに幼さも残る彼女の寝顔を覗きこむヘンリーは誰にでも無くつぶやく。


「俺に温もりを与えてくれたのは、お前さんだけだ……お前のような女がお袋だったなら……」


 未だ夢に見る顔のない母親の影。

 お前など産まなければ良かった……その言葉が耳に響いて離れない。

 神罰すら怖じぬ己が恐れる夢を今日も見るかも知れぬと自嘲し、帽子を顔に被せ、ソファに身を沈めるのであった。

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