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手土産 ④

 一週間の大修理を終え、見違えるように完全な姿を取り戻したグレイ・フェンリル号が、眩い朝日を受けて船体を輝かせていた。

 その名の由来となった灰色の帆も真新しく、さらに腕利きの水夫たちも新たに狼の旗の下に集った。

 出港の前、船長のヘンリーは慣例に従って領主のフォルトリウ伯へ挨拶に赴く。


「もう行くのかね?」


「ああ。アイツを待たせているからな。のんびりとしてはおれんよ」


「未だに信じられないねえ。本当に、あの要塞を落としたというのかね?」


「夢だと思ってるなら、俺がその真っ白な頬を抓ってやろうか?」


「い、いやいや、滅相もない。ついでと言っては何だがね、女帝陛下によろしくお伝えしてくれたまえ。忠心よりお喜び申し上げますと共に、このキングポートはフォルトリウにお任せあれ、と。お頼みいたすよ、准男爵殿」


「承った。伯爵殿」


 形式だけの作法で礼を尽くした二人。

 一方は書類の山の陰へ頭を沈め、もう一方は屋敷を出て港へ向かう。

 甲板では皆が慌ただしく出港準備を進めており、船長の乗船と共に岸壁に掛けられていたタラップと係留索が引き込まれ、メインセイルが展開してゆっくりと大海原に船首を向ける。

 もう何度となく繰り返してきた船出。

 しかし、これが最期かもしれぬと毎回腹をくくっているのだ。

 名残惜しそうに港を振り返る者も少なくない。

 とはいえ今回の行き先は言うまでもなく帝都。

 余程のことが無い限り、敵襲はありえない。

 外海に出ると同時に全ての帆を展開し、海流と風の力を受けて、海の狼は波濤を北東へ駆けた。

 航路には他国の商船がぽつりぽつりと浮かんでおり、いつもならば獲物として襲うところであるが、今は一刻も早く都へ行かねばならぬので無視することとした。

 新たに加わった新人水夫たちも先輩にしごかれながら仕事をこなしており、時折サボろうとする不届き者もいたが、そこは甲板長の黒豹のこと。

 勢い良く新人の尻を蹴飛ばして活を入れている。

 キャビンボーイのタックもすっかり先輩の風を気取り、船内の掃除やら芋の皮むきやらの雑務を年上の後輩に教えこんでいた。

 また雑用に不満を垂れる者には、女帝も同じ仕事をしていたのだと言って相手が驚く顔を見るのが、タックの最近の楽しみの一つでもあった。

 本当のことなのだから胸を張って言えるというものだろう。


 昼時になれば船内にある狭い食卓が男たちでごった返し、我先にとハリヤードとその部下が愛情込めて作った料理に群がる。

 大鍋一杯に作った豆のスープはあっという間に飲み干され、蒸かしたジャガイモも乾ききったビスケットもキャベツの酢漬けも、飢えた胃袋に収められていった。

 手早く食事を済ませた後は再び甲板で仕事をこなし、日が落ちれば夜の当直と交代して、ハンモックの中でいびきをかく。

 まともなベッドで眠れるのは、船長や航海士くらいのもの。

 そして日が昇れば夜の当直に叩き起こされ、早朝の冷たい風の中で割れたヤシの実を手に持ち、甲板を磨く作業が始まる。

 腰を低く落として波しぶきが降り注ぐ中を丹念に磨き上げた後には各部の点検や引き継ぎが行われ、帆の操作や見張りなどの業務をこなす。

 この繰り返しである。

 かくして帝都の入り口である断崖絶壁の海峡にさしかかり、帝国でも屈指の難所であるために舵取りをヘンリーが預かり、浅瀬や岩礁にぶつからぬように巧みに船を操った。


 海峡を抜ければ穏やかな内海が広がり、その先に純白の宮殿と街並みが美しい帝都が出迎えてくれる。

 正直に言えば、ヘンリーは帝都の港があまり好きではない。

 綺麗すぎるのだ。

 人も街並みも、そして空気も。

 数世紀もの間、他国から侵攻を受けたことがない都の平和ぶりは、常に死と隣合わせの仕事を生業としているヘンリーからすれば、決して居心地が良いものではない。

 こと宮殿の貴族らを毛嫌いしていることは周知の通りである。

 入港作業は滞りなく進められ、要塞攻略へ出港した際に見送ってくれた顔ぶれを見つつ都の地面を踏みしめると、十数名の水兵を引き連れた海軍少将ローズ・ドゥムノニアが真紅の士官用コートを翻しながら近づいてきた。


「まさか、おめおめと尻尾を巻いて逃げ戻ったのではないだろうな?」


かせ。俺様を誰だと思ってやがる」


 ヘンリーが懐から焼け跡が生々しく残る布切れを取り出し、ローズへ手渡す。

 それを見た彼女の顔色が一瞬で変わった。

 何故ならそれは要塞に掲げられていた南方王国の軍旗だったのだから。

 軍隊にとって命よりも守るべきものは、鉄の規律と、君主より戴く軍旗。

 その旗が焼け焦げ、ヘンリーの手にあるということが、何よりの証拠だった。


「ルーネは城か?」


「女帝陛下とお呼びしろ。畏れ多い」


「へいへい、悪う御座いました。で、いるのか? いないのか?」


「いらっしゃるとも。故に、この私を出迎えに寄越されたのだ」


「そいつはご苦労なことだったな。迎えなんぞ無くとも出向いてやったものを」


「冗談ではない。また宮殿内で騒ぎを起こされては、御公務の障りとなる。おとなしく私についてくればいいのだ」


 滑らかな銀髪を風に揺らせ、背筋をピンと伸ばし、コツコツと軍靴の音を鳴らしながら先導するローズに続く。

 口や態度ではヘンリーのことを毛嫌いしているように振る舞っているが、先の大公の乱に於いては共に轡を並べて皇女のために戦った間柄。

 心の中では互いのことを頼もしい戦友として認め合う仲でもあった。

 だからこそ、此度の無謀極まりない襲撃にあらん限りの手を貸した。

 二人は港から大通りを抜け、純白の宮殿の門をくぐる。

 綺羅びやかで汚れを知らぬ宮殿内に潮の香りが際立ち、波の冷たさも、嵐の恐ろしさも知らぬ連中が二人の道を開ける。

 衛兵は直立不動の敬礼を送り、使用人らは恭しく一礼し、多くの者たちが今を輝く海の人に羨望の眼差しを送っていた。

 ローズは階段を上がり、女帝の執務室や謁見の間がある東館とは逆の西館へ歩を進めていく。


「あいつは執務室にいないのか?」


 渡り廊下に差し掛かった頃合いでヘンリーが尋ねると、ローズは背中越しに頷く。


「貴様の船にお乗りになってからというもの、陛下には、ちょっとした悪癖があるのでな」


 そして二人が行き着いた先、元は奴隷であった使用人たちが暮らす西館の一角で、女帝は多くのメイドたちに囲まれていた。



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