女帝 ②
白い湯煙が天井まで部屋を満たしている。
温かな湯は白く染まり、芳醇な花の香りが漂ってきては鼻をくすぐる。
大理石の湯殿に身を浸すヘンリーは、一人で入るには有り余る面積を独占していた。
「こうも広いと、落ち着かんなぁ」
長旅の疲れと汚れを洗い流すように、との計らいで宮殿の大浴場を用意されたものの、人生の殆どを船の上で生きてきた彼にとって入浴は然程習慣づいていなかった。
身体が汚れればその都度濡れた手ぬぐいで拭くか、あるいは錨を下ろした際に透き通った海へ飛び込む。
それが彼流の身の清め方だった。
故に慣れない湯とだだっ広い風呂を前にして、流石の彼も身の置き所がない。
思えば完全にひとりきりになる機会など滅多に無かった。
船には四六時中誰かがすぐ側におり、港に着いたところで酒場で呑み、眠るときも傍らには娼婦がいた。
船という集団生活が身に沁みた彼にとって、孤独な時間というのはある意味で貴重な体験といえよう。
おかげで先ほどから湯に身を沈め、右目が天井を見つめたまま動かない。
筋骨たくましく引き締まった肉体もそこら中に古傷が刻まれ、中には彼が少年時代に受けたムチの痕も残っていた。
彼はおもむろに自身の左目を指でなぞる。
産まれた時点で潰れていたこの目によって、全ては狂った。
神に呪われた子として親に捨てられ、気がつけば商船でこき使われ、ムチで打たれ、そして復讐した。
船長を撃ち殺し、己を虐めた船員たちを油と共に燃やし尽くし、一人生き延びた果てに悪の道へ走った。
奪い、殺し、犯し、死神と肩を組んで血の池の中を歩いてきたような人生だが、何をどうしたことか、今も生きている。
これだから人生は面白いのだ。
図太く楽しく短い人生にこそ価値がある。
陸で神に祈りながら無駄に長く生きるなど、さながら家畜の生き方だ。
どうせ生きるなら、家畜よりも狼として生きるほうがマシだ。
そうして今まで生きてきて、これからも生きていく。
たとえ波間に沈もうとも、たとえ縛り首になろうとも。
いい加減茹で上がりそうになったので大浴場から出ると、従卒として充てがわれた使用人が脱衣所で待機していた。
「レイディン卿、どうぞお召し物を」
そう言った使用人が差し出してきたのは、アイロンがけされてすっかり綺麗になった彼の衣装だった。
戦いで擦り切れた箇所も丁寧に縫われ、宮殿に仕える者たちの早業に舌を巻く。
「ありがとうよ。だがな、俺を卿だなんて呼ぶな。背中がむず痒くてたまらん」
「では、なんとお呼びすれば?」
「船長でいい。俺は元々卑しい海賊上がりだからな。他の貴族どもと一緒にしてくれるな」
アスコットネクタイをキュッと締め、上着を羽織ったヘンリーは、女帝の夕食会に出席するために宮殿の広間へ向かおうとしたとき、使用人が辺りに人気がないことを確認した上で彼に小さな紙切れを渡し、小声で耳打ちをする。
「どうぞこのまま宮殿を出て下さい。詳しくはお渡ししたメモを。では失礼致します」
と、使用人はそそくさと一礼した後に何処かへ走り去ってしまった。
訝しげに首を傾げつつも言われた通りに宮殿から外にでると、空は夕焼けに染まり、間もなく夜の帳が都を覆うことだろう。
街灯に小さな炎が灯され、家々でも夕飯の支度が進められている。
ヘンリーは使用人から渡された紙切れを開くと、そこには都のストリート番号と『渦潮亭』という短い文字が書かれているのみだった。
「あいつ、まさか……」
脳裏に予感を抱きながらも道行く民草に金貨と交換で場所を聞き出し、脚を運んでみれば、渦潮亭とやらは都の裏通りにある寂れた小さな酒場だった。
吊るされた看板はほとんど朽ちており、扉もボロボロで、蹴れば店ごと崩れてしまいかねないような見た目だった。
胡散臭いことこの上ないが、ヘンリーは面白いとばかりに不敵に笑ってドアを押し開ける。
来客を報せる鈴の音が鳴り響き、次の瞬間には、軽快な足音が聞こえた。
「船長! 来てくれたのね!」
真っ先に彼を出迎えたのは、他ならぬ女帝ルーネであった。
昼間の絢爛なドレスから町娘が着る小麦色のチュニックとスカートに着替えている。
また外観とは裏腹に整頓された店内には、黒豹を始めとするレイディン一家の幹部たちが顔を揃えていた。
「おいおい、こいつは一体どういう訳だ? 俺はてっきり宮殿で晩飯かと思っていたんだが」
「あんな堅苦しいところでご飯なんて食べても不味いだけだもの。三年ぶりの再会なんだから、今夜だけは、あなたの見習いに戻りたいの。ね、いいでしょう?」
懇願するように彼を見上げるルーネの眼は、女帝という衣を脱いだ一人の少女のそれだった。
ヘンリーは見習いの髪を荒々しく撫でて願いに応じ、息を潜めて二人の様子を眺めていた仲間たちの渦中へ加わった。
小洒落た雰囲気の店内に種々の料理の香りが満たされていく。
竈では炎が赤々と燃え盛り、都の市場で仕入れた新鮮な食材がハリヤードの手によって調理されて、皆が囲む円卓に次々と運ばれては狼たちの胃袋へ収められていった。
ルーネもハリヤードを手伝いながら食事を楽しみ、久方ぶりの会話に花を咲かせていく。
「ああ、やっぱりハリヤードさんのご飯は美味しいわ!」
「ははは。ありがとうよ。でもルーネちゃんは女帝様だ。もっと腕のいい料理人の食事を味わっているんじゃないのかね?」
料理を一段落つけたハリヤードが尋ねると、ルーネは肩をすくめる。
「それがそうでもないの。確かに料理人は一流揃いだけど、立場上、かならず食べる前に毒味が入るから、口に入る頃にはすっかり冷めちゃって全然味気がないの。ぬるくなったスープなんて犯罪的に不味いんだから。それにここのところ忙しくて、ゆっくり食べている暇も無かったの。殆どサンドイッチで済ませていたかなぁ」
と、瑞々しいオレンジを頬張りながら彼女は苦笑した。
ここには毒味役もいなければ、彼女を気遣う臣下もいない。
熱い食事を堪能し、身分の差もなく語り合える仲間だけがいる。
それだけで彼女の疲れた心は弾み、屈託のない微笑がそれを示していた。
ヘンリーは好物の生焼けステーキを喰らいつつ彼女の言葉に耳を傾け、食後の煙草をくゆらせながら、ゆっくりと店内を見渡した。
椅子も机も全て職人が手がける調度品で、暖炉に使っているレンガもそこらのものとは質が違う。
また台所も元々外食店を経営していたハリヤードをして唸らせるほどで、どう考えても余程の資金がなければ揃えられない一級品ばかりだ。
「ルーネ……この店は、お前さんが取り仕切っているのか?」
「ええ。ちょうど前の持ち主が店仕舞いをするらしかったから、私がこっそり買い取ったの。今では私の隠れ家よ? 公務が嫌になったときはここに逃げてるわ」
「ほう。それを知っているのは、俺たちの他にいるのか?」
「宮中では私の侍従の一部とローズくらいよ。こんなことが知られたら、すぐに連れ戻されてしまうもの。だから他言無用に願うわ。酔って口が滑ることが無いように」
「酒に呑まれるような奴は、本物の酒飲みじゃねえよ」
コーヒーを飲み終えたヘンリーの隣へルーネが腰掛ける。
皆、存分に食べ、そして飲んだので、中にはそのまま居眠りをする者もいた。
黒豹はまだまだ飲み足りないと言って繁華街の雑踏へ消えていき、他の者たちも各々が手配した宿屋や船に戻っていく。
宮中に泊まるヘンリーらは店の後片付けを終えて、ルーネが戸締まりを確認してから宮殿へ帰ることとなった。
夜もすっかりと更けてしまい、通りを歩く人影は殆ど無い。
タックも疲れ果てて眠ってしまい、ウィンドラスに負ぶされて一足早く宮殿へ急いだ。
耳に波の音を聞き、月明かりと街灯に照らされながら石畳を歩く女帝と船長。
「いつかみたいに、エスコートして頂ける?」
手を伸ばして肩に触れてくるルーネに、ヘンリーはぎこちなく肘を差し出した。
「女帝が海賊にエスコートされていいものかねえ」
「ふふ。頼むわね? 私の海賊」
「懐かしいこと言ってくれるねえ。俺の女帝陛下」
腕を組み、潮風の中を歩く二人の姿を、夜空の月が静かに見守っていた。