招集 ①
一隻の商船が神に見放された。
暗い灰色に染まった空から矢のような鋭い雨が甲板に打ち付ける。
白く濁った飛沫が竜巻となって舞い上がり、猛烈な突風が真新しい帆をボロ布へと引き裂いてしまった。
船体は激しく軋んで悲鳴を上げ、甲板では船長が怒号を飛ばす中、水夫たちが死に物狂いで太い綱を引いている。
時折、大波が頭上から覆いかぶさって、幾人かを攫っていった。
しかし振り返る余裕などあるわけがない。
気休め程度に船に乗せた神職者の祈りの言葉も、今となっては虚しく風の中に消えるのみ。
船長の苛立ちは頂点に達していた。こんなところで立ち往生などしている場合ではない。
一刻も早くこのマーメリア海の西方航路を抜けて、積み荷を南方の本国へ送り届けなければならないのだ。
積み荷が単なる交易品であれば、船の安全を再優先に考えて海へ投げ捨てる選択肢もあったろう。
だが船長にそれを選択する余裕もなければ度胸も無かった。
左右に激しく揺れる船倉の暗がりの中、樽や木箱に溢れんばかりに積み上げられた金銀財宝の山々の輝きが、狭く汚らしい船内において別世界を描いていた。
黄金には魔力が宿る。
人を堕落させ、正常な判断を狂わせる。
やがて身に合わぬ黄金は持ち主を破滅へと追いやるのが世の常であった。
ともすればこの嵐は、船長、ひいてはこの輸送船にとって、神から与えられた最期のチャンスであったのかもしれない。
しかし船長は積み荷を捨てようとは思わなかった。
無事に本国へ持ち帰り、国王へ献上すれば、自身の船乗りとしての地位と名誉は不動のものとなり、あわよくば貴族に取り立てて貰えるかもしれない。
もしもここで積み荷を捨ててしまえば、このまま一生しがない輸送船の船長で人生を終えるより他になくなるのだ。
老獪な船長の視線の先に山のような大波が迫ってくる。
「嵐め! 呪ってやるぞ! 貴様を乗り越え、俺は栄光をこの手に掴んでやる!」
そんな巨大な欲望を脳裏に描いていた船長の耳に、水夫の叫び声が響き渡った。
「ふ、船が近づいてくるぞぉ!」
船長が水夫の叫びにつられて咄嗟に右舷の波間に目を向けた刹那、一隻の巨船が大波を打ち砕きながら突如として輸送船の隣へ船を寄せてきた。
あわや衝突するかと思われたが、二隻の船は並列し、荒波を進む。
船長は一体何処の命知らずの馬鹿者かと腹を立てて相手のマストの旗を睨みつけ、次の瞬間には顔を真っ青に染めていた。
今の今まで沸き立っていた怒りも、そして富と権力への妄想も、黒地の旗に描かれた狼の紋章を目の当たりにした途端に全て吹き飛んだ。
あれこそがマーメリア海の灰色狼。
数多の船が彼の牙によって奪われ、食い尽くされ、奈落の水底に没していった。
海に生きる荒くれどもでさえ心から震え上がる男の船を前にして、船長だけでなく、先ほどまで吹き荒れていた嵐の風でさえ、今は勢いを衰えさせていた。
しかし狼の咆哮が沈黙を破る。
左舷側から黒光りする20門の32ポンドカノン砲が顔を出し、紅蓮の砲火と黒煙を立ち昇らせ、放たれた砲弾が輸送船のマストを小枝のようにへし折っていく。
そして無数の鉤つきロープが投げ込まれ、カットラスとフリントロックピストルで武装した男たちが一斉に乗り込んできた。
水夫たちは抵抗することも出来ずに斬り倒され、あるいは撃ち殺されて甲板が朱に染まる。
マストを折られ、航海士さえも失った輸送船は、もはや浮かぶ棺桶に他ならない。
腰を抜かした船長が舵輪の前に座り込むと、手下たちに続いて、狼たちの首領が輸送船の甲板に降り立った。
くたびれた白いシャツと洒落た紅いアスコットタイ。
その上に纏う丈の長い黒い外套を風に靡かせ、通り名の由来となった灰色の髪の間に、身の毛もよだつ獰猛な笑みを浮かべていた。
左目を覆う眼帯もまた良い具合に畏怖を与えている。
彼は気さくに頭に被った、大きな真紅の羽飾りつきの三角帽子を掲げて挨拶を送った。
「よぉ。今日はまた一段と時化るなぁ? えぇ?」
さながら旧知の仲にでも語りかけるような口調で、されど声色には隠す気のない肉食獣の殺意を込めて、灰色狼の首領が怯えきった船長の顔を覗きこんだ。
もしも船長に抵抗するだけの度胸が備わっていれば、あるいは違う運命を辿れたかもしれない。
が、元来の小心者であった船長は口を魚のようにパクパクと動かすばかりであった。
「おいおい、この船は魚が動かしていたってのか? こいつは傑作だ!」
高らかに嗤う彼に続いて、今しがた輸送船の水夫らを始末し終えた荒くれ共もゲラゲラと笑う。 そして彼の手が伸びて怯える船長の襟首を掴みあげた。
「魚がこんなところにいちゃ、さぞ息苦しいだろうよ。そんなに鰓呼吸がしたいなら、俺が丁重に海へ送り返してやる!」
「や、やめろ! やめてくれぇ!」
漸く人間の言葉を発したときには既に遅く、船長は哀れにも彼に引きずられた末に荒れた海目掛けて投げ飛ばされ、海面に落ちる直前に彼が銃声とともに放った鉛球によって心臓を撃ち抜かれた。
サメの餌を一つ拵えたところで、手下たちが船室に隠れていた聖職者を甲板へ引きずり出す。
両手に十字架を握りしめ、ぶつぶつと神へ救いを乞う聖職者の首筋に、彼のカットラスが押し当てられた。
言葉を失って見上げる聖職者に、彼は身の毛もよだつ魔界の軍団長のようにニヤリと笑う。
「どうした? お祈りの時間は終わりか?」
「か、か、神よ、我をお助け下さい……」
「おお、さっさと助けて貰え。もっと祈ってみせろ。今まで糞真面目に生きて、人生の全てを神へ捧げてきたのだろう? さあ、神に願ってみせろ。この俺に怒りの稲妻を落として下さいってな。それともお前が信じる神ってのは、哀れな子羊を見殺しにするような薄情者なのか?」
舐めるような動きでカットラスの刃で聖職者の頬をなで上げると、彼は手にした十字架を突きつけた。
「海の悪魔に神の裁きがあらんことを!」
すると彼は顔に怒りを滾らせてカットラスを振り上げる。
喉笛を切り裂かれた聖職者はドス黒い血を吹き出して息絶えた。
彼は返り血を美味そうに舐め、息絶えた神の使徒を嗤う。
「所詮は人間も獣。獣が神なんぞに祈ってるから喰われちまうんだよ、阿呆が。積み荷を運び込め! さっさとやらんと波に呑まれちまうぞ!」
輸送船の船倉を綺羅びやかに輝かせていた財宝たちは根こそぎ運びだされ、大波の揺れで幾つかは海にくれてやったものの、輸送船の船倉はすっかり片付けられ、輸送船自体も油が撒かれた後に炎に包まれた。
かくして狩りを終えた狼は、飢えた腹を財宝で満たした後に嵐の海原へ消え去った。




