誓約 ④
綺羅びやかな大理石の廊下に、複数の靴音が虚しく響いては消えていく。
宰相アーデルベルト公を先頭に各大臣やその下の長官ら、そして参謀総長カールハインツ元帥に第一軍団長ベルリオーズが続いた。
ルーネは自室の窓から外の様子を見ていた。
傍らではメリッサが主君の身の上を案じてずっと付き添っている。
二人の耳に廊下から響く足音が聞こえたとき、メリッサは咄嗟にルーネの前に立って彼女を庇った。
反乱軍が押し入ってきたとでも思ったのだろう。
扉が開き、アーデルベルト公が顔を見せると、彼女はホッと安堵のため息を吐いた。
「陛下、宰相閣下です」
「そう……メリッサ、部屋を出ていなさい。これから大事な話をするから。命令よ?」
背を軽く押して退室を命じ、渋々といった風にメリッサが部屋を出たのを見届けると、ルーネは手でアーデルベルト公に発言を促した。
「陛下……臣めらの無能ゆえ、帝国の命運はもはや尽きました。父祖の栄光は賊によって踏みにじられ、宮殿は汚され、民も軍も帝室から離反致しました。事ここに至っては、ブレトワルダ家の血筋を後世に残すため、議会を代表し、陛下に御退位を御薦めに参りました」
アーデルベルト公は言葉を紡ぐに従って声に涙が混じり、手は震え、崩れ落ちそうになる足を必死で直立させていた。
他の重臣たちもそれぞれの言葉で彼女に退位を薦める。
ルーネは彼らが喋る間は終始無言であり、一通り聞き終えると、自身の前髪を指でいじりながら椅子に腰を下ろす。
「退位? なぜ? この程度のことで何を弱気なことを言い出すの? 今のあなた達がいるのは誰のおかげ? 私の先祖と共にこの国を守ってきた忠臣の子孫でしょう? 少しは恥を知りなさい……」
「陛下、近衛軍団でさえ陛下の御手を離れたので御座います。反乱軍は、御退位なされた後の安全を保障すると申しております。どうか、帝室の血をお守りください。たとえ一時は下民になろうとも、生きていれば再起を図ることも叶いましょう」
「宰相、それは一体、何年後の話? 十年? 二十年? それとも五十年?」
「それは……」
「くだらない。話にさえならない。帝国の未来はあと一歩……いいえ、これから始まるところなのよ! 南方王国は下した! この海を手に入れた! 香辛料も! 黄金も! 全てはこれからだったのに! 全世界の、あらゆる大地に、海の果までも、この私の旗を打ち立てる! その夢が、やっと見え始めていたというのに! あなた達ときたら、ちょっと脅されて、自分の身分や命が危うくなっただけで、いつも格好よく忠義だとか何だとか言っているその口と舌で、今度は陛下どうか御退位を、ですって? 冗談じゃないわ!」
ルーネは怒りのままに壁にカップを投げつけ、打ち砕いた。
臣下たちは黙して彼女の激情と非難を身に浴びる。
この場で彼女に宝剣で刺殺されても構わない。
全ては自分たちの不徳が招いたことなのだから。
だがルーネは辛辣な言葉さえ浴びせども、決して臣下に刃を向けることはしなかった。
散々に自分がなそうとしていた夢をぶちまけ、力任せに地図を破り捨て、机の上に積まれた書類の山を床に投げ、やがて疲れ果てて床に座り込む。
「出ていって……一人にさせて……」
彼女の気持ちを察して、臣下たちは黙礼して部屋を出る。
頼みにしていた彼らさえ自分を捨てるのか……失望と孤独感が彼女の胸を黒く染める。
ルーネは這うように机の引き出しを開け、自分の拳銃を取り出して、その冷たい銃身を撫でる。
これに触れる度に、耳にあの頃の潮騒が聞こえてくるのだ。
彼らは決して仲間を見捨てるようなことはしなかった。
身分を偽って見習いとして乗せた少女が皇女であるとわかったときも、そのせいで帝国に追われる羽目になったときも、仲間は決して裏切らないという掟のもとで救ってくれた。
「ヘンリー……助けて……助けてよぉ」
銃を抱きしめ、彼の名を呼ぶ。
彼は今では遠い海の向こう。
どうして、こんなときに限って側にいてくれないのか。
頬が涙で濡れていく。
彼の顔が見たい、彼の声が聞きたい、彼の腕で抱きしめてほしい。
いや、彼だけではない。
あの船に乗る全ての人々の温もりが欲しい。
もう、世界などどうでもいい。
ただ仲間のもとへ帰りたい。
「もう、疲れちゃった……」
一時間ほど後、ルーネは再びレオンを部屋に呼び寄せた。




