分裂 ①
燃え盛る店内、砕けた窓ガラス、泣き叫ぶ女性店員……。
平穏な昼下がりが突如として修羅場と化し、通りを歩いていた群衆も一体何事かと驚き慌てふためく。
そんな大騒ぎの中、砕け散った机や椅子の瓦礫の山が微かに動くと、ローズを肩で支えたヘンリーがむくりと立ち上がった。
破片で頭を切ったのか頬に血が滴っている。
爆弾が転がってきた直後、咄嗟に机をひっくり返して盾にしたまでは良かったが、思いの外威力が強く吹き飛ばされてしまった。
ローズは完全に気を失っているが、息はあった。
己等の悪運の強さに半ば呆れつつも瓦礫から脱出したヘンリーは、狼狽える店員たちに吠える。
「なにをやってる! 医者を呼べ! それから鬱陶しい火を消せ! お前らの持ち場だろうが! 客に教えて貰う気か!」
「は、はい!」
店員たちが店長の指示の下で動く中、ヘンリーは入り口ではなく割れた窓から外に出た。
騒ぎを聞きつけた警備兵が駆けつけると、肩に担いでいたローズを彼らの両手に預ける。
「軍の病院に運んでやれ。そっちのほうが安全だろう。いいか、入り口を固めてなるべく窓から遠ざけろ」
「はっ! 閣下もご一緒に?」
「俺はいい。こんなものは怪我の内にも入らんよ。さっさと行け! 刺客が何処に潜んでいるか分からんぞ!」
尻を蹴飛ばすような剣幕で兵を叱咤した後、ヘンリーが群衆の隙間を鋭い目で睨むと、やたらと慌てた様子で現場から離れようとする男の背が見えた。
ちらりとしか見えなかったが、彼の野獣的な直感が足に追えと命じる。
気がついたときには駆け出していた。
野次馬を両腕で払い除け、男が背後をちらりと振り返ったとき、彼の右手が猛禽の如く男の頬面を掴み上げた。勢い余って石畳の道路に押し倒し、男の鼻が砕ける。
尚も暴れて逃げようとする男だったが、首筋にカットラスの冷たい刃が触れると、途端に死の恐怖という荒縄で縛り上げられたように静止した。
「よくも俺の昼飯を台無しにしてくれたな? えぇ? 代わりにお前をどう料理してくれようか」
「ち、違います! 誤解です! 私は何も――あぁ!」
必死の弁明を試みるも、ヘンリーは目敏く男のズボンに仕込まれたナイフを奪ってみせた。
爆弾が不発であったときは直接手を下そうと考えていたのだろう。
「さあて、たっぷりと締め上げてやる! 俺は軍の連中ほど人道的ではないぞ!」
「くそっ!」
男は悪態をつくや奥歯を強く噛み締め、数秒の後には、白目を剥いて喀血した。
ヘンリーは男の胸ぐらを掴み上げたが、その時には既に息絶えており、しかも顔は勝ち誇るように微かに笑っていたのである。
ヘンリーは舌打ちを鳴らして男のまだ温かな骸を投げ出した。
これで真相は闇の中かと思われた。
だが彼の右目が、男の乱れた襟の内で光る何かを見逃さなかった。
カットラスの切っ先で襟元を切り裂くと、そこにはごく一般的な十字のネックレスがあった。
普段であれば気にもとめないほどの物だ。
多少の信仰心を持つ者であれば、装飾品がてらに身に着けて神の加護を期待する者は数知れない。
だが、この男は違う。
無関係なものを殺傷することも厭わずにヘンリーとローズを亡き者にしようと凶行に及び、そして奥歯に仕込んだ毒で自らの口を永遠に封じた。
忌々しく思う一方で、中々に鮮やかな手並みとも思えた。
はじめから生きて雇い主のところへ帰るつもりは無かったのかもしれない。
不運な男だ、とヘンリーは鼻で笑った。
刺客の遺体とその後の調査は軍に任せ、自分自身は屋敷へ戻ることにした。
もはや猶予は無い。
明日にでも出港の準備に取り掛かろう。
己が暗殺の対象となった懸念が早くも実証された。
帝都よりもキングポートの方がはるかに安全であるし、人も情報も集めやすい。
傷ついた船長を見た一同は驚きの声をあげた。
頭の傷はすぐにジブの手によって消毒の上で縫合された。
「ところでウィンドラスの姿が見当たらないが?」
「まだ屋敷に戻ってないよ」
「肝心なときに……タック、探してこい。ただし人目につかないようにしろ」
「わかった!」
「黒豹とエドワードは船の点検をしておけ。早ければ明日にでもキングポートへ行く。水夫どもを交代で船の当直につけておけ。夜は灯りを絶やさず、俺たち以外は誰も近づけるな」
「あいよ」
「了解っす!」
「ハリヤードは食料の運び出しだ。貯蓄分でなんとかしろ。市場には寄るな」
「アイアイサー」
手下に指示を与えているうちに治療も終わった。
「ジブ、お前も適当なところで船に戻れ」
「ヒヒ、またひと騒動ありそうだね」
各々が仕事に取り掛かる間、ヘンリーは自室で考えに耽っていた。
自分たちはまだいい。
だがローズはどうする?
立場が立場だ。
一緒に連れて行くわけにもいかないし、彼女は断るだろう。
決して莫迦というわけではないが、それでも正直過ぎて危うい動きをやりかねない。
アレは激情を隠さない。
自分に嘘をつけるほど器用でもない。
規則、規律、忠誠を混ぜ合わせて練り固めたような人間だ。
ヘンリーが彼女のことを犬と思う所以である。
せめて腹に一物抱えて作り笑いを浮かべる猫であればまだ安心だったが。
「はぁ、仕方あるまい。番犬の飼い主の手を借りるとするか」
ヘンリーは嫌々ながら宮殿に足を運んだ。
そこでルーネに報告がてらに自分の考えを聞かせようと思っていたのだが、なんとなんと、彼女は不正貴族の誅伐に自ら飛び出していったというではないか。
明日にも出発したい彼はいつ戻ってくるかもわからない彼女を待つつもりもなく、さてどうしたものかと貴族用の談話室で行き詰まる。
無論、先に談話室を利用していた宮中貴族たちは大迷惑だった。
それでも一応は彼も准男爵なので、気を利かせた使用人が飲み物を運んできた。
うら若き少女からカップを受け取ったとき、ヘンリーの脳裏に閃きが駆け抜ける。
「おい、確かルーネ……ああ、女帝陛下には専属のメイドがいたな? あの、あれだ。褐色肌で貧乳の」
「メリッサのことでございますか?」
「そう、それだ。そのメリッサを呼んできてくれ」
程なくして談話室のドアを開けたメリッサは目に見えて不機嫌だった。
姉と慕う主君が不在であることもあるが、何よりも、ルーネの寵愛をほぼ独占するヘンリーに対する嫉妬心は凄まじいものがあった。
メリッサからすれば、可憐な花にまとわりつく害虫のように映っているのだろう。
「そう露骨に嫌そうな顔をするな」
「何分にも多忙の身で御座いますので。如何なるご用件でございますか?」
「大した用はない。ただお前さんの姉貴分に伝言を頼みたいだけだ」
「……承ります」
普段は人を食った態度のヘンリーが急に真面目な声で言うものだから、メリッサも大事であろうと身構え、一字一句聞き漏らすことなくルーネへの伝言を胸に刻んだ。
「よし、これで俺も一安心だ。お前さんがいてくれて助かった」
彼はポケットから駄賃を取り出して、空になったカップに入れ、メリッサに渡す。
「いただくわけには……」
「いいから、取っておけ。いざとなれば遠慮なく使え。それに俺は、この談話室にいる連中よか、汗水垂らして働くお前さんたちのほうがずっと可愛いと思うね」
「陛下も、似たようなことを仰っていました」
「当然だ。アイツは俺の見習いだぞ。じゃあ、あとは宜しくということで」
メリッサの肩をポンと叩いてヘンリーが退室した後、彼女は改めてカップの中を覗き込んで驚愕した。
薄っすらと紅茶が残るそこには、光り輝く金貨が十枚も重ねられていた。




