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教会 ①

 語り終えた頃には夜も更けて、一同はテーブルに置かれた燭台の明かりに照らされていた。

 灰皿にはパイプの中で燃え尽きた煙草の灰が積り、全員に重苦しい疲労感が顔に浮かんでいた。

 パナギアは我が子が歩んできた道を聞く間、ただただ俯いて聞き入っていた。

 対するヘンリーは己の出生に耳を傾けたとき、腕を組んで顔を天井に向け、瞼を閉じていた。


 今まで自分を苦しめていた悪夢と向き合った彼の心情が如何許か。

 本人以外には知るべくも無い。

 部屋の振り子時計の音が虚しく時を刻んでいる。

 無限とも思えるような時間に思われたが、実際はものの五分ほどの経過で、ヘンリーは深い溜息と共に凝り固まった肩を鳴らした。


「長話で疲れた。顔洗ってくる」


 席を立ったヘンリーが皆の視線を背に浴びながらドアに手をかけたとき、思い出したように振り返ってパナギアに尋ねた。


「ところで、俺は今、何歳になるんだ?」


「……三十三歳よ」


「そうか。ということは、まだ中年じゃないな」


 本気とも冗談とも思える笑みを皆に見せた後、彼は三十分ほどの時間を経て部屋に戻ってきた。

 ルーネは彼の右目が仄かに赤く充血していることに気が付き、唇を固く結んだ。


「ハリヤード、飯作ってくれ」


「わかりました」


「私も手伝う!」


 ハリヤードと共に厨房で食事の支度を進める間、ルーネは二人の口から語られた悲しい過去を幾度も胸中で反芻していた。

 一体何が二人の、いや彼と家族を引き裂いたのか。

 答えは考えるまでもない。

 しかし、神聖不可侵と云われて久しい教会を相手にすることができるだろうか。

 またアーデルベルト公の頭痛を重くしてしまうかもしれない。

 だが見過ごすことは出来ない。

 ルーネは頭脳を苛烈に働かせつつも、ナイフでイモの皮をむく手元は少しも狂わなかった。


「ルーネちゃん、何を考えているのかは知らないけど、他人ひとの過去に深く踏み込むべきではないと思うがね。過去は過去。もう過ぎたことだ」


「ハリヤードさん……」


「船長もそれを分かって向き合う気になったんじゃないかな。だから僕たちがあれこれと干渉することもあるまい。今は美味いものをしっかり食って貰う方が大切だよ」


「そうね。ハリヤードさんの言うとおりだと思う」


 気持ちを切り替えて料理に集中し、子羊のシチューやトマトソースパスタなどを拵えて、屋敷の食堂のテーブルに大皿を並べていった。

 全員のグラスにワインが注がれて夕飯が始まったものの、いつものような騒がしさとは程遠く、笑い声もジョークも無い厳かな食事風景となっていた。

 席を隣同士にしたヘンリーとパナギアは食べながら何かしらの会話をしていたが、声が小さく聞き取ることも出来ず、ルーネも場の空気に流されて一言も喋ることはなかった。


 パナギアは屋敷に泊まることになったが、ルーネは宮殿に戻らねばならず、食後の熱い茶を飲んでから屋敷をあとにした。

 不安は残るが、少なくともヘンリーが再び塞ぎ込むことはないだろう。

 一日眠ればいつもどおりの彼に戻ってくれるかもしれない。

 祈るように思いで屋敷から離れたルーネは、衛兵が守る正門をくぐった。

 寝室に入るなり、軟らかなベッドに突っ伏す。


 過去にリンジー島で彼の口から聞いたときは、ただ気の毒な人だ、としか思わなかった。

 しかし今回は違う。

 他人事ではあるが、彼女の胸はきつく締め付けられ、自然と流れ出た涙が頬とシーツを濡らした。

 外戚は除いて、肉親を失ってきたルーネにとって、彼は家族も同然。

 悲しみの後に彼女の胸を襲ったのは、言い知れぬ怒りだった。

 赤黒い憤怒の炎が蒼玉サファイアブルーの瞳に燃え盛る。

 小さな唇の内側では白い歯が噛み締められ、シーツを握る手も震えている。

 彼が何故、あれほどまで神を憎むのかも理解出来た。

 ルーネも同様に思った。

 残酷な運命で人間を弄ぶ神もそうだが、自分たちの都合によって神の教えを改竄する教会を、とても許す気にはなれなかった。


「いい機会だわ……一度、じっくり話さないとね」


 熱烈たる決意を胸に抱き、彼女は一先ず眠りについた。


 翌朝、ヘンリーとパナギアの別れの時がきた。

 まばゆい朝日の輝きに包まれたパナギアはどこか神々しく、対するヘンリーは港の潮風に吹かれて妙に爽やかな面持ちだった。

 彼は指先で頬を掻き、さも言葉を選ぶかのように視線を泳がせて、不器用に口を開いた。


「その……な、俺はアンタを母親とは呼べんし、呼ぼうとも思わん。あれだけ憎んで恨んだ手前だ。そう簡単に割り切れるもんでもない」


 彼の言葉にパナギアも承知していると無言で頷く。


「だが、まあ、なんだ。お知り合い、ということならいいんじゃないか、とな。知り合いなら挨拶も出来るだろうさ。いつ会っても」


 その言葉が彼なりの精一杯の許容であったのだろう。

 船には父も無ければ母もいない連中が山ほどいる。

 だというのに、船長だけが母親に懐くことは彼の沽券に関わることだし、何よりも女々しい姿を見られるなどプライドが許さなかった。

 握手を求めて差し出した彼の手を、パナギアは目尻に小さな涙を浮かべて握り返した。

 修道院へ帰る彼女を見送るグレイ・フェンリル号の一同と、ギリギリで駆けつけたルーネに、パナギアは深々とお辞儀をした。


「皆さん……彼のことを、どうかこれからも、よろしくお願いいたします」


 法衣が風に靡き、静かに立ち去っていく母の背を見つめるヘンリーの瞳は、彼自身が忘却の彼方へ置き去りにした純粋な少年の光を色濃く放っていた。

 

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