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子狼 ④

 初めの一週間は良かった。

 天候も穏やかで風も悪くなく、節約さえすれば食料も余裕があった。

 ただその時のヘンリーはロクに航海術というものを知らなかったので、ただ風と潮流の気儘に舟を任せる他に無かった。

 それでも、波の音以外は静寂に包まれた蒼い世界を漂うというのは心地よいもので、とにかくあの地獄の日々から解放されたことがたまらなくうれしかった。


 食料も独り占めできるし、釣りも楽しめた。

 餌をつけなくとも光を反射する金属を糸につけてやれば、間抜けな魚が喰いついてくれる。

 嗚呼、太陽とはこんなにもまぶしいものだったのか。

 風とはこんなにも気持ちがいいものであったのか。

 あの地獄の檻にあって、そんなことを考える余裕など全くなかった。

 それだけに彼の目に映る海は別世界のように新鮮なものに見えた。


 ところが日が経つごとに物資は消費されていく。

 特に飲み水は深刻で、雨でも降れば幸運だが、二週間もすれば水も底が見え始めた。

 さすがに同じ風景ばかりでは新鮮さも無くなり、やることもないので空を見上げて思考を巡らせる日々が続いた。

 この世界には自分が知らないことが山ほどあるはずだ。

 全てを知ることは出来ないかもしれないが、少なくとも、そのときは自分がこれから何処へ行きつくのかが最大の疑問だった。


 このまま日干しになってしまうの当然嫌だったが、かといっていざ陸地についたところで、彼は陸地での生き方など何も知らない。

 そもそもまともに陸地を見たこともない。

 地面を踏む感覚とはどんなものなのか。

 町という場所には何があるのか。

 全てが彼にとって謎に包まれていた。

 物心ついたときから船上生活しか知らず、大地は木製の甲板であったのだから。

 それだけに水が無くなる恐ろしさもよく心得ていた。

 更に数日も経てば水は完全に無くなり、食料も乏しくなって、なるべく動かないようにして体力を保つが、それも長くは続かないだろう。


 このまま陸地を見ることもなく死ぬのだろうか。

 そんな風に半ば人生を諦めて漂っていたある日のことである。

 飲めば命を落とす潮水を恨めしく思いながら、自身が段々と干からびていくことを実感していたとき、不意にヘンリーを影が包み込んだ。

 瞼を開けて周囲を伺うと、いつの間に近づいてきたのか、一隻のブリッグ船がすぐ側をゆっくりと航行していた。

 マストの先端で翻る黒地の髑髏の旗が見えた。

 船首に刻まれた船名に目を移すと、そこには「バスタード号」と記されていた。

 船の水夫たちが鍵付きの長棒でヘンリーの短艇を引き寄せ、縄梯子を下ろして乗り込んできた。


「お頭ぁ! ガキが乗ってますぜ! こりゃあ死にかけだ。金目のものは何もなし。食料も空っ穴ときてまさぁ!」


 報告を受けたバスタード号の船長ペールは、クジラの骨で作った義足の足音を響かせながら手すりに肘を乗せ、ヘンリーを見下ろした。

 二人の視線が交差し、短艇に乗り込んでいた水夫がヘンリーに手を伸ばしたとき、突然右目をカッと見開いたヘンリーが水夫の胸ぐらを掴んで力任せに押し倒した。

 といっても何日も食べておらず、喉も渇ききっている状態だったので、はじめは驚いて倒された水夫はすぐに手を伸ばしてヘンリーを押しのけた。


「いたた……この糞ガキめ!」


 腰のカットラスを抜こうとしたとき、頭上からペールのしわがれた大声が響いた。


「待てぃ!」


 ヘンリーを含めた全員の目が、彼の深くシワが刻まれた老顔に注がれる。

 五十歳も過ぎたベテランの船乗りで、筋骨たくましい四肢に幅の広い肩や分厚い胸板が圧倒的な存在感を示し、また大きな刀傷が刻まれた頭髪なき頭がまさに異相といえた。


「小僧、お前が誰でどこから来たのか、そんなことはどうでもよい。だがこの先も生きたければここまで登ってこい。登れなければ、捨てていく。生きるか死ぬか自分で選べ」


 その言葉はヘンリーに対する挑戦だった。

 弱々しく立ち上がった彼は縄梯子を掴むと、全身にありったけの力を込めて一段ずつ登りはじめる。

 しかし体力の限界にあった彼にとって、たかだか三十段程度の梯子は千尋の谷に等しかった。

 だが彼は登りきった。

 その執念の凄まじさたるや、誰もが目を見張った。

 腕に力が入らなければ縄を噛み締め、甲板に転がり込んだとき、ヘンリーは犬歯をむき出しにして周囲を激しく威嚇した。

 こいつは人間の姿をした獣ではないか、と誰かが言った。


「そうとも、コヤツは獣。獣には獣に相応しい生き場所がある」


 ペールは見せつけるように義足をヘンリーの眼前に出した。


「おれは右足を失くし、お前は左目を失くしている。お互い五体満足ではないが、手足が動けば狩りができる。小僧、この船に乗れ。ここは自由の船だ。生きるためであれば殺しさえ許される」


 初めて他人の口から聞いた自由の言葉。

 ヘンリーは彼の義足を手に掴んで乗船し、彼の部下となることを誓った。

 すぐに自由の船という言葉が事実であったことを思い知らされた。

 ここではヘマをしても少し睨まれるだけで鞭で打たれることもなく、また食事も寝床も真っ当に与えられた。

 とかくヘンリーは、今までの鬱憤を晴らすように肉を貪り食った。

 食べ盛りの年頃だったこともあるが、それでも大人顔負けの量を軽々と平らげて海賊たちを驚かせた。

 腹を満たしてくれるならばヘンリーもそれなりの働きで船に報いた。


 はじめは水夫見習いであったが、船上勤務の経験は先述の経緯から長く積まれていたため、数週間と経たないうちに正式な水夫となり、更に本人の希望で航海士の勉強も始めた。

 地文航法、天測航法、海図や天気観測、操船術などを、乾いた砂に水を垂らすようにみるみる吸収してモノにしていった。

 同時に商船を襲撃する際は誰よりも早く敵船に乗り込むや、すっかり手に馴染んだカットラスを縦横無尽に振るって敵を震え上がらせた。

 見た目がまだ少年であった為に敵は驚き、その隙に誰彼区別なく襲いかかった。

 全身を返り血で真っ赤に染める様は凄惨そのものであり、また人間を殺したことに対して悩むことも感傷に浸ることも一切なかった。


 強ければ生き残り、弱ければ死ぬ。

 そんな単純な世界が彼には居心地が良かった。

 ただ、人間関係がすべて上手くいっていたわけではない。


「よぉ、片目くん」


 言った側としてはなんの悪気も無かったのだろう。

 ところがヘンリーは右目の瞳に激しい炎を燃え上がらせ、皆が止めるのも聞かず、片目と言った先輩の顔を殴り飛ばした。

 顔面が血まみれになるまで滅多打ちにしたことで、流石にそのときは捕虜を収容する船倉の牢に押し込められて謹慎を食らったが、そのときから誰も彼の左目について触れるものもいなくなった。


 略奪で船倉が満たさると、帝国の港の中でも比較的警備が手薄な港を選び、商船になりすまして入港した。

 略奪品を闇商人に売って金にかえて給料が支給され、金銭というものがどんなものなのか、ヘンリーは十六歳を目前にして漸く知ることができた。

 金があれば好きなものが手に入る。

 食べ物、酒、服、なんでも揃った。

 タバコや女もそこで知った。

 それが悪徳かどうかなどどうでも良かったし、娼婦と寝床をともにする甘美な快楽も鮮烈な体験となった。


 ところが教会だとか神父などが街路で説法などをしているのを見ていると、なぜかは知らないが、無性に悪寒にも似た嫌悪を強く感じてしまうのである。

 もしこの世なりあの世なりに神が存在し、万物を生み出しているのであれば、なぜ自分のような人間を産み落としたのか。

 同時に街を歩く中で、家族や親子といった肉親たちが仲睦まじく生きている姿もこの上なく不快だった。


 特に母親という存在に対する自覚なき憎悪は並ではなく、また温かい家庭にある同世代や年下の子らを見ているうちに、無意識にカットラスの柄に手が伸びていた。

 嫉妬だと気づき、唾を吐き捨てて足早に船へ戻る。

 こんなに面白くないこともない。


 その頃には船長のペールはすっかりヘンリーの父親代わりのようになっており、ペールも彼の生い立ちについては知るよしも無かったし、若いが船乗りとしても海賊としても天才的な才能は評価していた。

 それだけに不安を禁じ得なかったが、かといって干渉することもしなかった。ヘンリーが沈めたウィッチェ号でもそうだったように、およそ船乗りなど真っ当な人生を送ってはいない。

 ペールとて同じこと。

 ただ狂犬じみたヘンリーはこのところカットラスやピストルの腕前も然ることながら、知恵をつけたことによって頭が切れるようになった。


 やけに弁が立つのも、神父の説法の影響だろうか。

 詭弁、詐術の類によって水夫の補充には随分と役立ったが、ペールはこのままヘンリーが大きくなったときのことを思うと、空恐ろしい気持ちになった。

 なにせ酒場などから連れてきた真っ当な連中が、年下の隻眼の若造の舌先三寸にすっかり丸め込まれていたのだから。

 船長にとって最大の恐怖は手下の反乱である。

 航海術も習得し、古参の水夫たちもヘンリーに一目も二目も置くようになって、もしヘンリーが言葉巧みに煽動などしたら……。

 頭角をあらわす手下に大いなる懸念を抱きつつ、バスタード号は海賊であることを見破られる前に港を後にした。

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