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子狼 ③

 積み荷の荷揚げや補給のために港に入ったときも、ヘンリーは上陸を一切許されなかった。

 もし彼が奴隷身分であればそれも許されたかもしれない。

 なにせ当時の帝国において奴隷は一応は合法的な存在だった。

 ところがヘンリーの場合、非合法に売買された人身のために、下手に上陸させて官憲なりに助けを求めれば違法を指摘されて船長が逮捕され、船も出港出来なくなる。


 ゆえにヘンリーは船底に閉じ込められた。

 船が動いていないのはなんとなくわかったが、甲板に出ることさえできず、一体水夫たちが何をしているのかさえ分からなかった。

 ただ、補給によって新鮮な食糧が豊富に補充されると、ヘンリーの粗末な食事も多少はマシなものが出るため、それはそれでささやかな楽しみでもあった。


 しかし出港すれば外には出られるものの、あとは同じ日々の繰り返し。

 度重なる重労働な雑務、給仕、そして八つ当たりの対象となる。

 鞭で打たれる回数も増えた。

 火がともった導火線は徐々にその距離を縮めていく。

 水夫から制裁を受け、罵倒を浴びせられた際に「神」なるものの存在も知った。

 そのときは神とは何なのか理解できなかったが、何となく、人間とはかけ離れた存在であることは察した。

 しかしいるかどうかも分からない相手のことをじっくり考える余裕などはない。


 仕事をするうちに船の社会について自然と学んだことは、誰も船長には逆らえないということだ。

 古参の水夫や航海士でさえ、この中年の雇われ船長にペコペコおべっかを使うのだ。

 当然、ヘンリーに対しても非常に尊大な態度で接していた。

 食事も他の連中とは質も量もけた違いで、しかも銀の食器で飲み食いし、広い部屋で優雅な生活をしているのだ。

 ヘンリーにはこの小心者の一体どこが偉いのかまるで納得出来なかった。

 嵐のときなど無意味に喚き散らすだけで、実際に船を操っているのは航海士ではないか。

 それでも船長という肩書だけで彼は船の王であり続けたし、仕事の合間に陰口を叩く以外、誰も公然と逆らおうとしなかった。

 ゆえに、ヘンリーが船長という絶対的な立場に憧れたのは自然のことだったのかもしれない。


 あそこに上り詰めれば誰も逆らえなくなるのだ。

 こんな奴隷以下の、惨めな日々から解放されるに違いない。

 だがそのためにはどうすればいいのか。

 どうすれば自分が船長になれるのか。

 朝な夕なそればかりを考えるようになった。

 船底でネズミと一緒に眠るような日々から、銀食器で豪華な食事をし、手下をこき使うようになってみたい。

 それが、彼が抱いた初めての野心だった。

 思いついた方法は実に単純であり、野性的であり、童心そのものだった。


「……あいつがいなくなればいいんだ。俺の手で……消してしまおう」


 積もるに積もった鬱憤や怒りも相まって、彼にとって運命の日がやってきた。

 昼間の仕事を終えて船底の寝床に戻ると、密かに甲板から持ち出した非常用の手斧を握りしめていた。

 本来は緊急時に綱を切ったり人命救助のためのものであるが、斧は斧。

 鋭利な刃がつき、大きさも子供が扱うに難しくない。

 他に調理場からこっそり持ち出したナイフもズボンの間に挟みこんだ。


 ヘンリーは深夜になるまで待ち、音もなく甲板へ出ると、数名の夜当直が眠気と戦いながら仕事をしていた。

 見張りはマストの上にいるため、甲板にいるのは舵取りと天測係の航海士。

 舵取りは最も船尾に位置し、航海士は甲板の中ほどにいた。

 士官たる航海士は船の規律保持のため、拳銃を所持している。

 この拳銃は反抗的なヘンリーを黙らせるときによく使われた。

 弾丸を命中させこそしないものの、空に向けて撃ってみせたり、弾が込められていない状態で銃口を近づけて引き金を絞ってみせたりした。

 おかげで銃の撃ち方を知ることが出来た。

 嗜虐的な笑みを浮かべて、わざわざ弾丸を装填して発射するまでの動作を丁寧に見せつけてくれたのだから。


 それで震え上がるとでも思っていたのだろうが、彼らはヘンリーを甘く見過ぎていた。

 背後から忍び寄ったヘンリーは彼の肩を気さくに叩き、一体誰かと振り返った瞬間にその喉を目掛けて飛び掛かり、獣が獲物の喉に喰いつくように斧の刃で首筋を切り裂いた。

 どくどくと鮮血が流れ出す間、ヘンリーは掃除用の雑巾を航海士の口に突っ込んで断末魔を殺した。

 航海士は自分に何が起きたのか信じられないまま息絶えた。


 ヘンリーは仕留めた航海士の腰から例の拳銃を奪い、弾を込めて船長室へ向かった。

 銃と斧があれば奴を殺すことが出来るはずだ。

 航海士だって上手に殺せた。

 どうせ今頃はのうのうと眠っているに違いなかった。

 船長室の鍵は開いたままだった。

 間抜けめ、と心中で舌なめずりをして室内を見渡すと、意外なことに船長はまだ起きていた。

 ランプの灯りの下で海図を睨んでおり、どうやら航海計画と実際の現在地がずれているようで低く唸っていた。

 そんなときにヘンリーが突然現れたものだから、船長はますます不機嫌になった。


「こら! 勝手に入ってくるな! お前を呼んだ覚えはないぞ!」


 ヘンリーも驚いたが、これ以上騒がれて誰か来てはまずいと思い、船長の言葉を無視して部屋に押し入った。

 海図が広げられているテーブルの上に立ち、椅子に座る船長に銃口を突き付ける。

 引き金に指をかけたとき、今までの日々が脳裏に鮮明に駆け抜けた。

 船長はわめき続けていた。

 命乞いであったのか、いつものような罵声であったのか、もはやヘンリーの耳には届かない。

 そして一発の銃声と共にそれは途絶えた。

 船長の脂ぎった体は血だまりの床に倒れた。


 ヘンリーの手から銃が抜け落ちる。

 航海士の時と同じように、人間を殺したという実感はあまり湧かなかった。

 こんな簡単なことだったのか、なぜもっと早くやらなかったのだろう、と拍子抜けさえした。

 だが銃声が鳴ればさすがに当直が飛んでくる。

 航海士の死体もそのとき見つかったのだろう。


 船長室に飛び込んできた彼らの目に、テーブルの上に立つヘンリーと、血の中で死体となった船長が映り込んだ。

 振り返るヘンリーの顔には返り血が滴っていた。

 流石の水夫たちも凍り付いた。

 今まで苛め抜き、罵倒し、ちょうどいい鬱憤の捌け口となる便利な道具と思っていた子供が、船長と航海士を殺して平然としている。

 その姿は小さいながらも獣そのものだった。


「何をしておるか!」


 絞り出すような叫びによって全員の緊張が一瞬解けた。

 ヘンリーも我に返って水夫たちに叫ぶ。


「船長は俺が殺ったんだ! 俺が一番偉いんだ!」


 今まで溜め込んできた感情が爆発するように、たどたどしい激情がその場を支配した。

 だがそれも所詮は子供の理屈でしかなく、曲がりなりにも大人たる水夫たちを従わせるだけの威厳も説得力も無かった。

 ヘンリーは誰の目から見ても、ただの反逆者に過ぎなかったのだから。


「このガキ! とっ捕まえろ! どうせ弾は入っちゃいねえ!」


 単発式拳銃の特徴にして欠点を突いた水夫たちが一気に踏み込もうとする直前に、牽制で投擲した手斧が中央にいた男の胸に深く刺さった。

 血しぶきが噴出して倒れ、直後にヘンリーは足元を照らすランプを取るや、彼らが立つ床に投げつけた。

 ランプが割れて粘り気の無い上等な油が流れ出ると、飛び散った油にたちまち引火して水夫たちを火達磨に変えていく。


 反射的にヘンリーは駆けだしていた。

 もだえ苦しむ水夫たちの間を飛び越え、持てるだけの食料を抱えて甲板に躍り出ると、マストから下りた見張りの男が航海士の遺体を運んでいる最中だった。

 その隙をついてズボンから抜いたナイフで一突きに刺し殺した。

 即座にナイフを抜くと、今度は船に備え付けられた短艇に食料を投げ込み、固定する綱を切断した。

 本来は数人係でゆっくりと海面へ下ろすのだが、綱を切ったことで短艇は海へ落ちた。


 そしてヘンリーも意を決して舷側の手すりを乗り越えて短艇へ飛び降りると、船長室の炎は勢いを増して居住区から甲板を焼き尽くしていく。

 船から離れた海上でそれを見つめていたヘンリーは、自分を縛っていた鎖が音を立てて砕けるような解放感を覚えた。

 もう誰かに殴られることもなければ、鞭を振るわれることもないのだ。

 水夫の大半が焼け死んだであろうし、生きていたとしても海へ飛び込んでそのまま沈んでいくだろう。

 何せ少人数の船ゆえに短艇はこの一艘しか積まれていなかったのだから。

 ヘンリーは小躍りしながら帆を広げ、行く宛てもない船旅に乗り出した。

 ときに彼が十五歳の頃であった。


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