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子狼 ②

 生母の手によって海に流されたヘンリーがその後どうなったのか。

 彼自身が覚えている記憶に至るまでの道のりは、後世の研究に委ねることとなる。


 波間に浮かぶ揺り籠は穏やかな風と潮流によって外海に向けて運ばれ、やがては白波の渦に飲まれるはずであった。

 彼が神に呪われていたのか、それとも愛されていたのかは天のみぞ知るところではあるが、幸運なことに彼を乗せた揺り籠は一隻の商船によって発見された。


 名をウィッチェ号といい、帝国の内航商船だった。

 当直の見張り員によって救助された赤子は船長のもとへ運ばれ、たまたま便乗していた船長夫人の両腕に抱かれた。

 一先ず命が助かったことは間違いなく彼にとって幸運であったし、帝国にとっても彼が救助されたことは運命的であった。

 が、物事には常に代償が付きまとうもので、そういう意味において、彼は決して神の寵愛を受けていたとは言い難い。

 というのも、このウィッチェ号に拾い上げられたことが彼に対する過剰なまでの苦難のはじまりであったからだ。


 なにせ、このウィッチェ号は商船である一方で別の顔を持っていた。

 当時は帝国でも奴隷売買が盛んにおこなわれていた。

 それは合法、非合法を問わず、とくに貴族間では顕著であり、そういう人身売買によって一儲けしようと企む商人が多くいたことも事実だった。

 ウィッチェ号もその一つだったのである。


 むろん、労働力足り得ない赤子など余程の物好きか、子に恵まれない貴婦人でもなければ売り物にならない。

 しかも生まれつき左目が見えぬ呪われた子では猶更で、かといってせっかく拾った黄金の種を捨てる気にもならなかったのであろう。

 結果としてヘンリーは邪な期待を寄せる船長夫婦によって育てられ、左目については、嵐に遭遇した際に怪我をして失った、という理由が後付けされた。


 そうして何とか両足で自立し、言葉が喋れるようになって、ようやく彼の物心が覚醒しはじめた頃合いに、ヘンリーはそれまでの養育費も上乗せされて育ての親に売り飛ばされた。

 買い手は半ば同業の外航商船ダルリアダ号。

 半ば、というのは、ダルリアダ号はウィッチェ号のように人間を商品にはしていなかった。

 積み荷は主に織物に使う羊毛や帝国原産の茶葉であり、ヘンリーを買ったのも、ちょうど雑用に使うキャビンボーイが不足していたからだった。

 彼にとって幼少期の記憶が明確に残るのは、このダルリアダ号での生活からである。


 船長を含め、乗組員たちからの扱いは劣悪だった。

 なにせヘンリーは正規の乗組員ではなく、ある意味で、船の仕事を効率化するために買われた便利な部品のようなものだった。

 仕事で些細なミスがある度に平手で打たれ、ひどい時は鞭によって背の皮が剥がれ落ちた。

 粗末な食事を与えておきながら、これ見よがしに塩漬け肉を食べる大人たちを恨めしく睨んではまた殴られる。

 食糧庫から食べ物を盗み食いすれば鞭の制裁が待っていた。

 そうして、乗組員たちは長期航海のストレスを解消していたのである。


 そもそも船乗りになる連中は、ゴロツキ、命知らず、流れ者、もしくは一攫千金を狙う不良の類しかおらず、船長でさえ商社から雇われた身であるために我が身のことで手一杯。

 会社から課せられた納期に間に合わせるためにいつもイライラしていた。

 陸地の人間から見ればとても真っ当な人間たちではなかったし、敢えて命を捨てるような航海を生業とすること自体が正気の沙汰ではなかった。

 ヘンリーはそういう世界に物心がつき始めた歳から生きることになったのである。

 彼にとって木製の甲板が唯一の大地であり、あとは無限と疑わぬ空と海が広がる蒼い世界がこの世の全てだった。


 温もりもなく、甘えもなく、安らぎもない。

 上手に仕事をこなせば食べ物がもらえる。

 しくじれば殴られる。

 ようやく仕事を終えて船底の隅っこで眠っていても、夜当直の気まぐれによってたたき起こされるのだ。


 そんな至極単純で凄惨な日々を過ごすうちに、ヘンリーの心にどす黒い感情が芽生えはじめたのである。

 はじめは胸の内を冷たく締め付けてくる感情が理解できなかった。

 全身の血を逆流させ、毛を逆立たせ、思考を黒一色に染めるこの感情が、憎悪や殺意の類であることに気が付くまで幾分か月日を要した。

 ただヘンリーには生まれながらにして強運というか悪運が備わっていたことは、彼を知る者たちに言わせれば疑いようがない。


 船乗りが悪魔の如く恐れた壊血病。

 補給が容易な内航ならばまだしも、一度航海に出れば滅多に陸地と巡り合えない外航商船では、この病こそが天敵であった。

 ダルリアダ号とて例外ではなく、偏った食事によって栄養バランスが崩壊し、体力の無い者から順番に命を落としていった。

 原因もわからず、解決法も知らない彼らが病に苦しみ、怯える中、なぜかヘンリーだけはみすぼらしい姿を除いて壊血病の兆候があらわれなかった。


 というのも、ヘンリーは毎日キャベツの酢漬けを食べていた。

 いや正確には食べさせられていた。

 塩漬け肉や魚の燻製といった食材は船長をはじめとする正規の乗組員へ優先的に回され、ヘンリーには少量の肉とウジが沸いた固いビスケット、そしてこのキャベツの酢漬けが与えらえていた。

 お世辞にも美味いものではない。

 だがこれ以外に無いのだ。

 ならば鼻を摘まんででも腹を満たさねばならぬし、そもそもこれ以上に美味いものなど口にしたことがなかった。


 酢漬け自体は物珍しいものではない。

 帝国ならばどの家庭の食卓でも主菜の隅に当たり前に並ぶほどだ。

 水夫たちは特にこの酢漬けを嫌っていた。

 ただでさえ体力仕事であるから、とにかく肉を食べなければ体がもたないし、体力が無くなれば病気になる。

 ゆえにこんな粗末な酢漬けなど食べていられるか。

 こんなものは下っ端以下の餌だ。

 しかも顎が外れるほど不味いときている。


 当人たちからすれば真面目な理由であったし、ヘンリーに対する嫌がらせにも使えるので、むしろさっさと全部処理してもらいたい思いだった。

 自分たちは肉をさっさと食べて、皿の端に残された酢漬けをキャビンボーイにくれてやる。

 結果的にその意地悪がヘンリーを救った。

 逆にヘンリーからすれば、こんな粗末なものを食べている自分が健康で、肉を食べている大人たちが苦しむというのは滑稽でもあり痛快だった。


「ざまあみろ。いい気味だ。でも、何故なんだろう?」


 そのうちに、このキャベツの酢漬けが元気の秘密なのではないかと彼は思い至り、後年になって彼の覇業の一助となるのである。

 こいつらが知らないことを俺は知っている。

 その優越感は年相応の子供の発想ではあったが、同時に、彼の胸の内で燃え盛る黒い炎は確実に火勢を増していた。

 火山の地下で煮えたぎるマグマのように、ちょっとした刺激をきっかけに爆発的に力を吐き出す。

 彼らに破滅をもたらす怒りの噴火はそう遠い日のことではなかった。

 

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