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生母 ④

 貴賤を問わず、人間とは噂話が大好物である。

 ことに鼻持ちならない相手の不幸話は極上の蜜の味といわれ、宮中の大貴族たちは大っぴらにグラスを掲げて喜ぶものまでいた。

 彼らの物笑いの種となっているのは、むろん、ヘンリーである。

 あれほど獰猛に息巻いていた狼が、たった一人の老女によって今は赤子のように部屋でふさぎ込んでいるとなれば、彼を嫌う者たちにとってこれ以上の喜劇はない。

 煌びやかに映る宮中に渦巻く嫉妬と怨嗟の影は、常に時の人につきまとう。


 ヘンリーに限った話ではない。

 ローズとてそうだ。

 女の身で、まだ三十代にもなっていない小娘が大将となり、名門とはいえたかが男爵家であった彼女が今や侯爵閣下である。

 本人らに面と向かって不満を言えばどんな仕返しをされるか分かったものではないから、仲間で集って陰口を叩くのだ。

 使用人のメリッサから密かにそれを聞いたルーネは、執務室の机に頬杖をついて唸っていた。


「あれから六日……いい加減立ち直って貰わないと困るわね。ウィンドラスさんたちも手こずってるみたいだし、やっぱり私が動くしかないか」


 今更ではあるが、本来、君主が過度に一部の臣下に肩入れすることはよろしくない。

 ルーネもその原則はよく心得ていたし、事あるごとにアーデルベルト公から酸っぱく諫言されていたので、はじめは船の皆に任せていた。

 ところが一向に改善の報告もなく、むしろ今回のことで宮中に不穏な空気が流れるとあっては、もはや見過ごすことは出来なかった。

 そもそも彼に生母を会わせた責任もある。

 彼の心情を考えて、今頃出てきたところで彼の心を傷つけるだけだ、と追い返すことも出来た。

 そうしなかったのは、ルーネとしても、ヘンリーがトラウマを克服し、親子の和解に至らせたい願いがあったからだ。

 ここまでヘンリーに深刻な苦悩を与えてしまうとは……と、若干の後悔も覚えずにはいられない。

 彼の心の傷の程度を見誤った自分を反省しつつ、ルーネは席を立った。


 港へ向かう間、彼女の頭の中はいつにも増して激しく思考を巡らせていた。

 どうやって彼を立ち直らせるか、いかにしてパナギアと和解させるか……。

 同時に、もしもこのまま彼が彼でなくなったら、という恐れもあった。

 心が壊れ、ただ息をするだけの生きた人形にでもなってしまったら――。

 絶対にさせるものか、とルーネは勇み足で港に至り、桟橋を渡ってグレイ・フェンリル号のタラップを駆け上がる。

 いち早く彼女の乗船に気づいたのは、船内の重苦しい空気に嫌気がさして海風に当たっていたタックだった。


「ヘンリーは何処?」


 鼻の下を長くして迎えようとした矢先に、ルーネの鋭い声がタックの頬を引っ叩いた。


「せめて挨拶くらいはさせてくれてもいいんじゃない?」


「こんにちは。ごきげんよう。お疲れ様。はい、もう十分でしょう? で、ヘンリーは船長室?」


 彼女の短気にすっかり気圧されたタックが無言で頷くと、ありがとう、と一言だけ残してさっさと歩き始めた彼女の背を茫然と見送った。

 相変わらず無機質な足音が鳴り続ける船長室の前では、黒豹が床に胡坐あぐらをかいていた。

 もし、ヘンリーが何かの拍子で部屋から出てきたときに捕まえるための処置であったが、黒豹もどうせ無駄だと暇を持て余してうつらうつらと昼寝を決め込みかけていたのである。

 そこへ突然現れたルーネがつかつかと歩いてくるものだから、黒豹の眠気も一気に吹き飛んだ。


「ルーネ、あんた……」


「中にいるんでしょう?」


 扉を指さして聞いてくる妹分の剣幕に黒豹すら圧倒されて、何度も頷く。

 するとルーネは無遠慮にドアを強くノックし始めた。


「ヘンリー、ここを開けなさい!」


 部屋の中で響いていた足音が止まり、暫く静寂が訪れる。

 だがルーネは彼の返事を待つつもりはなかった。


「もう一度言うからね? ここを開けて頂戴。いつまで塞ぎ込んでいるつもりなの? 自分のお母さんでしょ? 会って話をしなさい!」


「やかましい! どいつもこいつも余計なお節介焼きやがって!」


「ヘンリー! 女帝としての命令よ! この扉をすぐに開けなさい!」


「ここは船の上だ! 見習いの小娘はすっこんでろ!」


 今度はルーネの方が鼻を折られた。

 しまった、と内心で地団駄を踏む。

 彼が屋敷ではなく船に引き籠ったのは、船上における約束を盾にする気だったのか。

 陸地では主従でも船の上では船長と見習いであること。

 それを上手い具合に利用され、ルーネもつい口を閉じてしまった。

 しかし諦めたわけではない。

 むしろ益々彼への思いを熱く燃え上がらせ、こうなったら実力行使あるのみだとウィンドラスたちを招集した。


「みんな聞いて。考えがあるの」


 提示された作戦を聞いたウィンドラスは、口にこそ出さなかったが、ルーネは間違いなくヘンリーの影響を受けていると確信した。

 とはいえ現状で明確な解決策があるわけでもないため、ルーネの作戦を支持し、その準備に取り掛かる。

 もっとも、そこまで大掛かりな作戦というわけではない。

 用意されたものは綱とそれを引っ掛ける索具に数人の力自慢だけ。

 実行された作戦は次の通りである。

 まず船尾に移動し、国旗を掲げる旗竿に索具を取りつけて綱を通す。

 次にその綱をルーネの腰に結び付けて吊るす。

 そして指示に合わせて綱を引いたり緩めたりして、ルーネを上下させる。


 果たしてこんなことで船長を外に出すことが出来るのか。

 見守る水夫たちの顔に大いなる不安が浮かぶも、その憂いもすぐに驚愕に取って代わった。

 吊るされたルーネはゆっくりと下降していき、ちょうど船長室の大窓があるところで止めさせた。

 そして自分を吊るす綱を両手でしっかりと掴み、窓枠を何度か蹴って勢いをつける。

 一体何が窓にぶつかってきているのかと訝しんだヘンリーがカーテンを開けた刹那、ルーネは勢いのまま窓ガラスを盛大に突き破ってヘンリーも巻き込んで船長室に転がり込んだ。

 綱を緩めるタイミングも絶妙で、ルーネは壁で打った頭を痛そうに摩る。

 一方のヘンリーも突入してきたルーネの両足で蹴飛ばされ、背を扉に打ち付けて軽い呼吸困難に陥っていた。


「ゴホッゴホッ……一体なんだってんだ……?」


「いたたぁ……さすがに無茶しちゃったかも」


 砕け散った窓の破片が散乱する部屋の中を見渡したルーネは、そのあまりの惨状に絶句する。

 床に散乱するのはガラス片だけでなく、酒の空瓶が大量に転がっていた。

 それと同時に噎せ返るような酒臭さと澱みきった空気が鼻につき、せき込むヘンリーに視線を移せば、青白い顔は酷くやつれ、赤く腫れあがった目に精気はなく、無精ひげも伸びて元の精悍な顔が酷い惨状になっていたのである。


「あーあ、予想はしていたけど随分な有様ね? 今すぐ熱いお風呂に沈めたいところだわ。酷い匂いよ? 今のあなた」


 ようやく呼吸が整ったヘンリーが視線を上げると、目の前にルーネが両手を腰に当てて仁王立ちしていた。


「一体何を恐れているの? 真実を知ること? それとも自分自身に向き合うこと?」


「俺は、恐れてなど……いないっ」


 ルーネを睨み返すヘンリーの声色は、微かに震えていた。

 彼はカットラスを杖代わりに体を支えて立ち上がる。


「俺にあの女と和解しろ、とでも言いたいんだろうが……余計なお世話だ。もうあの女が誰だろうが関係ねえんだ。俺に母親なんていないんだ。赤の他人なんだ!」


 自分に言い聞かせるかの如く叫んだヘンリーを、ルーネは童を憐れむような目で見ていた。

 時間をおかずして、カットラスが鞘から引き抜かれる乾いた金属音が響く。


「出て行けよ……こいつめ、出て行けぇ!」


 掲げられた刃がルーネに向けて振り下ろされるも、やはり衰弱しているからか、普段に比べて全くキレがなく、彼女は半歩身を引くと容易に避けることが出来た。

 そのまま窓へ向けて走り、外へ飛び出すと、再び宙に吊るされた。


「弱虫!」


「なんだとこいつめ!」


「あなたはそんなに弱い男だったの? だったらもう御終いね! そうやって、一生惨めに殻の中に閉じこもっていればいいわ! 私は自分自身にさえ勝てないような弱い男の見習いなんて真っ平だからね!」


「こいつめ、言わせておけば――っ!」


 窓枠から大きく身を乗り出して剣を振り回したとき、ヘンリーは大きくバランスを崩して真っ逆さまに海へ落ちた。

 打ち所が悪かったのか、体力の限界だったのか、浮かんできた彼はピクリとも動かない。


「確保ーっ!」


 ウィンドラスの号令により、水夫たちが網を投げてヘンリーを桟橋に引き上げる。

 すぐさまドクター・ジブにより気を失っていることが確認され、すぐさま屋敷へ担ぎ込まれた。

 後になってウィンドラスが船長室を調べたとき、彼は酒こそ飲んでいたものの、食べ物の類は六日の間一切口にしていなかったのである。

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