生母 ③
ヘンリーがおかしくなった。
この話題に水夫たちは大いに動揺し、ウィンドラスをはじめとする船の幹部たちも一体どうしたものかと頭を悩ませる。
「あれから何日経った?」
グレイ・フェンリル号の食堂に顔を揃えた幹部のうち、黒豹が誰にでもなく訊ねた。
「六日だ……飲まず食わずだよ」
すっかり意気消沈したハリヤードが、冷めきった紅茶を啜りながら彼女の問いに答えた。
全員が無機質な反応を示した。
空気がいつになく重たい。
ヘンリーの前に彼の生母が現れ、狂乱してからというもの、彼は船長室に籠ったまま一歩も外へ出てこなくなった。
窓のカーテンを閉め切り、食事もせず、水も飲まず、聞こえてくるのは部屋の中を歩き回る無感情な足音と、夜な夜な響き渡る彼の悲痛な叫び声だった。
ヒトではない野性そのままの獣がそこにいるようにさえ思えた。
このまま彼は飢えと渇きによって息絶えてしまうのではないか。
そんな予感が日を追うごとに確信へと近づきつつある。
その元凶というべきか、発端である彼の母パナギアはというと、水先案内人用の客室を借りて日々を過ごしていた。
ときおり部屋を出てはヘンリーが立てこもる船長室の前まで近づくも、彼の足音を黙して聞くうちに、暫くしてまた客室へと戻っていくのである。
「それにしても――」
机に頬杖をつくタックがしみじみと呟いた。
「船長に、あんな脆い一面があったなんてなあ。オイラびっくりだよ」
ヘンリーの生い立ちの秘密を知る者はごく限られている。
右腕であるウィンドラスでさえ、詳しい昔話を聞いたことはなかった。
ただ彼が捨て子であることは何となく察していた。
神を憎み、ことに母親という存在に対する侮蔑の念は、長らく言葉を交わしてきた中で端々に垣間見えていたからだ。
その真相を知る者は彼を捨てた張本人であるパナギアだけだった。
ヘンリーの記憶は断片的なものにすぎず、しかも母親憎しが大前提であるために証言としての信ぴょう性は低く、実際の出来事についてはパナギアに問いただす以外に術が無かった。
ともあれ、このままヘンリーが朽ち果てることだけは阻止せねばならない。
ウィンドラスは船大工のエドワードを呼んだ。
「エドワード。船長室の扉を開けることは出来るかい?」
「カギを分解するか、扉の蝶番を外せば開けられないことは無いっスけど……正直に言えばやりたくないっスね。命が幾つあっても足りないっていうか、こじ開けた途端に銃弾が飛んできそうで」
まったくだ、と全員が首を縦に振った。
不意に船医であるドクター・ジブが挙手した。
ウィンドラスとしては彼の案を聴きたくも無かったが、無視するわけにもいかず、視線を向けて発言を促した。
「ヒッヒッヒ、なに簡単なことさ。起きていて困るのなら、眠って貰えばいい。ほら、これをご覧なさい。この調合された薬草を燻して煙を室内に充満させれば、たちまち意識を失って、あとは楽に――」
「却下! と、言いたいところだけど」
溜息交じりにウィンドラスはオールバックの頭を掻きむしった。
「最後の手段、としてはそれもありかもしれない。でも最後の手段だ。出来ればもっと穏便に済ませたい。船長はああ見えて実際のところ、行動する前に必ず理性を働かせる人だ。きっと今も何かを考えているに違いないと思う」
「考え終わったら野性剥き出しだけどね」
黒豹が手をひらひらさせながら悪戯っぽく笑ってみせ、ウィンドラスも苦笑いするしかなかった。
「何にしても、船の栄養管理者として飢え死にされては沽券に関わる。せめてスープの一口だけでもいい。いや水だけでいい。ウィンドラスさん、何とかならないかね?」
ハリヤードはこと食事に関して責任感の強い男である。
ウィンドラスもそのことは重々承知していた。
「仕方ない。もう一度船長を説得してみよう」
無駄かもしれないけど、と口から出かけた言葉を飲みこんで、ウィンドラスは皆に見守られる中、船長室のドアをノックした。
室内からは尚も足音が一定の間隔で鳴り響いている。
だがノックの音を聞き取ったと同時にそれは停止した。
額からにじみ出る冷や汗を拭いつつ、さて何と言ったものかと言葉を選びながらウィンドラスは語り掛ける。
「船長、ウィンドラスです。皆、心配しています。せめて水だけでも飲んでください。もし船長に万一のことがあったら、我々はおしまいです」
ウィンドラスが言い終わるや、全員がドアに耳を密着させた。
「…………ほっといてくれ」
吹けば消えてしまいそうなほどに弱弱しく、掠れた声がわずかに皆の耳に聞こえた。
すると、いら立ちの限界を迎えた黒豹が激しくドアを蹴る。
「いい加減にしやがれ! 皆心配してるんだよ! 出てこい!」
「やかましい!」
ヘンリーの怒号が響いたのと同時にドアの内側から衝撃が伝わり、次にガラスが割れる音が聞こえた。どうやら空の酒瓶をドアに向かって投げつけたようだ。
「ほっといてくれといったらほっといてくれ!」
するとまた足音が響き始めた。
黒豹は悔しさと怒りで歯ぎしりをしているが、ウィンドラスは冷静に彼女の肩に手を添える。
「どうやら干物になるのは避けられるみたいだ」
「どういうことだよ?」
「よく考えてみれば、あの船長が部屋に一本の酒もストックしていないはずがない、てことさ」
言われてみれば、と全員が「あぁ」と感嘆した。
「皮肉を言うわけじゃないけど、さすがは船長だ。いざというときの貯えをきちんと心得ていらっしゃる。きっと酒以外にも保存がきく食料がベッドの下にでも隠してあるんだろうね」
「なあんだ。心配して損した」
タックの一言で緊迫した空気が幾分か和らいだものの、根本的な解決に繋がるわけではなく、むしろ食料の備蓄によって更に長期戦になりそうだ、と内心苦い顔をした。




