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無人島 ④

 水場も確保でき、食料も余裕があるので、ルーネは海岸線を巡ることにした。

 森の中をひたすら彷徨うよりは道に迷う心配も少ない。

 食事は予め朝にまとめて作り、布に包んでカバンに詰め込んだ。

 海岸といっても表情は様々。

 白い海鳥たちが羽を休める場所もあれば、どこからか流れ着いた流木が積み上げられていたり、何もない砂浜が広がることもあった。

 ただ一つ変わらないものは、やはり海だった。

 波の音を聞き、海風を浴びながら歩くのはとても心地よく、人間の恐ろしさを知らない海鳥たちが近寄っては逃げていく姿は何とも微笑ましい。

 だが、心温まるだけが海とは限らない。

 ときに血に飢えた猛者すら心胆を寒からしめる脅威を見せてくる。


「なによ、これ」


 ルーネは目の前に聳え立つ巨大な影に言葉を失った。

 それは海岸に打ち上げられた船の残骸。

 船形は帝国の典型的なガレオンタイプ。

 一体いつ、誰のものかさえ分かる術はないが、マストは折れ、帆は破れ、船体の至る所に痛々しい傷が刻みつけられていた。

 嵐によって難破したのだろうか。

 それとも座礁してそのまま放置されたのだろうか。

 いずれにしても、彼女の眼前に鎮座する朽ちた難破船はそこだけが別世界のように重苦しい雰囲気であった。


「幽霊船というのは、こういうのを言うのかな?」


 ルーネは暫く難破船を見つめた後、自身の自制心が好奇心に打ち負けた。

 見たところ放置されて何年も経過しており、おそらく乗員も生き残りはいないであろう。

 そう考えたルーネは、念のためにピストルを手に携え、マストから垂れ下がる古びたロープを掴んで甲板に向けて船をよじ登っていく。

 傷ついた船体には所々に足をかける亀裂もあり、掴んでいるロープが千切れはしないかと冷や冷やしながらも、彼女は傾斜がついた甲板へ躍り出た。

 やはり人間の気配はない。

 強いて言うなれば、海鳥たちの巣やネズミの親子連れがこの船を住処としていた。

 てっきり人骨でも転がっているのかと思っていた彼女は一安心し、腐り果てたドアを蹴破って船内に入る。


 船内は酷く暗く、彼女はランタンに火を灯して足元を照らした。

 ガレオン船は輸送任務用の武装商船だ。もし積み荷が残されていたら、何か面白いものがあるかもしれない。

 あるいは、船員の遺品でもあれば、せめて自分の手で祖国へ持ち帰ろう。

 そんな風に考えながら、彼女は船の奥へ進んでいく。

 何度も床板を踏み抜きそうになった。

 階段を下りて船倉の中を覗き見ると、積み荷と思しき木箱や無数のワインの瓶がひどく散乱しており、足の踏み場も無かった。

 とても歩けるような状態ではないので、ならば積み荷の目録がある船長室に行くことにした。


 そして彼女は船長室の扉の前に至った。

 扉を開けようと手で触れると、室内の冷たい空気がまとわりついてくる。

 まるで冷え切った手で手首を掴まれているようだ。

 入室を拒んでいるのか、それとも誘っているのか……ルーネは意を決して扉を押し開けた。

 瞬間、彼女の肌に鳥肌が立ち、呼吸が止まる。


 劣悪な船内で唯一真っ当な人間の住処である船長室のキャビン。

 その奥に置かれた机の前に、恐らく船長でありし男の亡骸が座り込んでいた。

 既に肉は無く、乾ききった骨の手には一振りのカットラスが死してなお握られている。

 ルーネは生唾を飲みこみながら、死体の脇を通り抜け、机の上にページが開かれたまま置かれた航海日誌を手に取る。

 そこには彼が息絶えるまでの経緯が細かく記されていた。


 この船は帝都に大量の砂糖等を輸送していた。

 ところが途中で嵐に遭遇し、方位の測定もままならぬまま漂流した結果、輸送品の砂糖と酒にも手を出したが、水も食料も底がつきた。

 船内を駆け回るネズミを奪い合う殺し合いまで始まり、更に壊血病も乗組員たちを襲ったため乗員は飢えと渇きと同士討ちで次々に死んでいった。

 やがて嵐は過ぎ去ったが、もはや船を動かすだけの力はなく、船長もまた病に侵された。

 彼は甲板に転がる仲間の死体を食らって命を繋ぎ、腐敗した死体は海へ捨てた。

 日誌の最後のページには、この苦難を救ってくれなかった神への恨み言と、仲間たちへの詫びが綴られ、最後の一行を読んだルーネは身を固まらせる。

 そこにはただ「助けてくれ」が掠れたインクで一行の中に無数に書きなぐられていたのだから。

 結局彼らを救う者は誰もいなかった。孤独と絶望と渇きと飢えに苦しみぬいた果てに、彼は死んだ。

 そこに安らぎなどあるはずもない。


 ルーネは静かに日誌をテーブルへ戻した。

 直後、船長の白骨体の微妙に保たれていたバランスが崩れた。

 バラバラと骨を散らばせながら倒れた彼の頭骨が、中身のない眼窩が、ルーネを見つめていた。

 ようやく船を訪れた生者に救いを求めるように。

 あるいは亡骸に宿った亡霊の仕業かもしれない。


 だがルーネは恐れなかった。

 彼女は迷うことなく亡骸に歩み寄り、自身を見つめてくる頭骨を抱き上げる。

 何故なら彼もまた帝国の民だったのだから。

 生者であれ、死者であれ、帝国の旗の下に生き、そして死んでいった者は等しく抱きしめたい。

 彼だけでなく、運命の過失によって命を落とした勇敢な船乗りたち全てをこの手と胸で包み込みたい。

 そして彼らの安らかな眠りを願って、彼女は呟いた。


「たとえ神が許さなくとも、貴方たちは私が許す。私はルーネ、ルーネフェルト・ブレトワルダ。この名に覚えがあるなら、この船から去り、帝国へ帰りなさい。そして永久の安らぎを」


 語り終えたルーネは固く閉じられていた船長室の大窓を開け放ち、暗い部屋にまばゆい太陽の輝きを招き入れた。

 淀んでいた空気が新鮮な空気と入れ替わる。

 ルーネは船内に残されていたランプ用の油と、ガレオン船の砲列甲板から護身用の砲に使う火薬を甲板へ運び出し、それらを船に撒いて火を放つ。

 古いものなのでしっかり燃えるかどうか不安だったが、炎はあっという間に船全体を飲みこんだ。

 まるで船そのものも安らかな眠りを求めていたかのように、マストは焼け落ち、船としての形が崩れていく。


 彼女の手には船の航海日誌が抱えられていた。

 遺体は持ち帰れないが、彼らが辿った悲しい結末を広め、後世の船乗りたちの糧としたい。

 その日の夜、彼女は夢を見た。

 静かな海の上に小さなボートが何艘か浮かんでおり、そこに十数人の船乗り達と一人の船長が、ルーネに向けて深く頭を垂れながら、帝都に向かって音もなく流れ去っていった。


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