休日 ③
翌日、休暇一日目。
普段ならば午前五時には目覚め、顔を洗い、寝室から真っ直ぐ執務室に入ってやり残した仕事に取り掛かる。
だが執務室はこの一週間封印される。
執務室の鍵は宰相アーデルベルト公が管理することになり、決して開けることはない。
むしろ、それほどまでせねば、ルーネは自己の責任を気にせずにはいられないのだ。
ただ日常の癖だけは抜けきれないもので、思い切り寝坊してやると意気込んで眠ったはずが、薄暗い部屋の中で時刻を確認すると、午前五時十分だった。
「ん……十分の寝坊、か。目が冴えちゃった」
彼女は寝返りを打ち、顔を枕に埋める。
海から離れて随分と経つが、未だに起床の瞬間には、波の音や船の軋みが空耳となって頭に響く。
起きたらハンモックを畳み、甲板に出て冷たい波しぶきと海風を浴びて、タックをはじめとした仲間と一緒にヤシの実のブラシを両手に持って甲板磨きがはじまる。
そして船の厨房で、コックのハリヤードと他愛のない話をしながら朝食を作る。
ナイフで芋の皮を剥いたり、スープの鍋を混ぜたりしているうちに、腹を空かせた野郎どもが押し寄せてくる。
誰も出身や身分に遠慮なんてせず、自由気ままに対等な立場でタメ口を言い合うのだ。
汚く、男くさい、とても清潔な場所とは言えなかったが、そんな船での朝がルーネにはたまらなく幸せな時間だった。
二度寝をする気にもなれず、しばらく昔のことを思い出しながら、彼女はベッドから出た。
部屋のカーテンを開け、都の人々がそれぞれの朝を迎えている様子を微笑ましく眺めつつ、寝巻から私服に着替えていく。
公務の際はきちんとした真紅のドレスを着こなすが、どうにも動き辛いところが彼女には不満だった。
なので休みということもあり、クローゼットから引っ張り出したのは、フリル付きの白シャツに紅茶色の皮ズボンと、密かに市場で購入した男物の服だった。
こちらのほうが余程楽で落ち着く。
暫くして、使用人のメリッサが寝室を訪ねてきた。
彼女は休日の朝を邪魔せぬように細心の注意を払って扉を開け、中の様子を窺っていた。
そんな妹同然のメリッサに、ルーネはほほ笑む。
「おはよう。今日もいいお天気ね」
「おはようございます、陛下。起きていらっしゃったのですね?」
「ええ。つい癖で。でも十分も寝坊したのよ? 私にしては上出来だと思わない?」
「あはは、わたしでしたら一時間は寝坊してしまいそうです。お茶は何になさいますか?」
「そうね、たまには、コーヒーを。ミルクと、砂糖は小さじ半分で」
「畏まりました。ご朝食は如何でしょう?」
「せっかくの休日だし、料理長に任せるわ。今朝はゆっくり食べるから安心して、と伝えて」
「はいっ。他に御所望は御座いますか?」
「コーヒーと一緒に朝刊もお願い。あとは何もないわ」
姉とも慕う女帝の和やかな朝の姿にメリッサもつい笑みが零れ、すぐさま宮殿の厨房に彼女の注文を伝え、淹れたての熱いコーヒーに朝刊を添えてルーネに供した。
香ばしい匂いを愉しみながら紙面を流し読むルーネは、自然と鼻で笑っていた。
というのも、帝国の新聞社はこぞって南方王国とアラゴン王家の非力さと無能ぶりを書き連ね、同時に帝国の力を過剰なまでに褒めたたえていたのだから。
「国王カスティエル・アラゴンは日々酒色に溺れる飲んだくれのロクデナシであり、指導者として無能極まりない暗君である! ですって。気楽なものね。人の悪口を書いていれば戦争に勝てるとでも思っているのかしら。もう少し気の利いた記事を書いてほしいものだわ。これじゃ読んでいても飽きるもの。よく嘘も書いてあるし。ほら、こことか。帝国海軍白色艦隊は王国艦隊八十隻をことごとく撃沈せり。よくもこんなに数を盛ったものね。せいぜい三十隻と私は聞いているし、それにほとんどが拿捕であって撃沈ではないわ。全く、こんな新聞に惑わされる人たちが可哀そうだと思わない?」
「はぁ……然様でございますね。わたしは、あまり新聞を読まないので……」
元々奴隷階級であったメリッサは文字の読み書きこそ何とか出来るものの、書物や新聞に興味を示さず、むしろ娯楽の類は仕事の邪魔くらいに考えていた。
ルーネも早々に下らない記事ばかりの新聞を丸めてしまい、甘めのコーヒーをゆっくりと味わいながら朝食の準備が整うまでの時間を過ごした。
程なくして厨房から準備完了の報せが届き、メリッサを伴って、久方ぶりに本来皇族が食事をとるためのホールに足を運ぶ。
メリッサが瀟洒な扉を開けると、まず目につくのは白いクロスがかけられた巨大なテーブル。
そこに燭台が立ち並び、朝食がすでに盛り付けられていた。
籠には焼き立てのパンが山盛りになっており、他に、熱々のスープに前菜のサラダ、ゆで卵。
厚切りのベーコンはこんがりと火で焼かれ、鶏は丸々蒸し焼きに、魚はあっさりとムニエルで。
そして葡萄や林檎といった果物が銀のボウルに積み上げられていた。
白衣に身を包む料理人たちは一斉に女帝へ朝の挨拶を送り、料理長自らが朝食の献立を紹介していく。
余程気合を入れて作ったのであろう。
ルーネはとても一人では食べきれない量に苦笑し、かといってせっかくの料理を残してしまうのは忍びなく、ならば、とメリッサに一つ頼みごとをした。
直ちにホールから出たメリッサが暫くして戻ってくると、宰相アーデルベルト公をはじめとした大臣一同が顔を揃えていた。
公務を休むと確約したはずの女帝から一体何の呼び出しかと、皆が首を傾げていた。
アーデルベルト公に至っては、やっぱり気が変わった、とでも言いださないかと気が気ではなかった。
そんな臣下たちを面白げに眺めるルーネは、席を立って皆に言い放つ。
「一人で食べるのは味気ないから、皆で一緒に食べましょう。さ、全員の席と取り皿を用意して頂戴。もし朝食を済ませている人がいたら遠慮なく言ってね? お茶だけでもいいから」
その時彼らの中で茶で良いと言い出した者はおらず、各々が席につき、まるで帝国議会がそのまま食卓についたかのような様相を呈した。
「皆、席に着いたわね? さあ、冷めないうちにいただきましょう」
当代の帝は前例無きこと数多あり、とは誰かが言った言葉だが、この突発的な朝食会も帝室の歴史の大家であるアーデルベルト公の記憶に前例はなかった。
そもそも君主が臣下と食事を共にする、ということ自体がありえないことだった。
ゆえに大臣たちもぎこちなくナプキンを首にかけ、女帝が一体どんな意図なのか測りかねていた。
一方のルーネは、久方ぶりのまともな朝食に上機嫌の様子で、スプーンの先で器用にゆで卵の殻を割り、塩を振った黄身を掬いだして口に運んでいた。
「外務大臣、ナプキンが曲がっていてよ?」
「はっ、これはとんだ失礼を」
慌ててナプキンを正す子爵をルーネは微笑ましく見守り、自ら大さじを手に取って、サラダを全員の取り皿に配っていく。
「朝はやっぱり瑞々しい野菜に限るわね。でもこのゆで卵も絶品だったわ。料理長、絶妙な茹で加減ね?」
「ありがたき幸せに御座います!」
それからルーネは政治的な発言は一切せず、料理の感想や航海をしていた頃の思い出話を披露していく。そのうちにアーデルベルト公ははたと気づいた。
この食卓もまた彼女の休日なのだ、と。
当たり前のことのようで、つい君主と臣下という枠組みで考えてしまった彼は堅苦しい態度を敢えて崩し、今の今まで遠慮して手をつけていなかったパンに触れた。
「おお、このパンは、焼いたばかりで温かいですな」
「焼き立てのパンの香りって、とても素敵よね」
「はい。私は何といっても、イチジクのジャムが好みで御座います」
「それは初耳だわ! 料理長、すぐにイチジクのジャムを用意してあげて。私も試してみたいから」
二人の家族的なやり取りを見た他の大臣らも漸く彼女の意思を悟り、それぞれが好みの料理を自由に皿へ取って食べ始めた。
そして口に出す話題は全てプライベートな事柄に絞られた。
自然と、堅苦しい空気が緩み、無礼講となる。
社交界で鍛えられたジョークの腕前も見せ所となった。
「陛下は、このような話をご存知でしょうか」
ベーコンの脂で汚れた口周りをナプキンで拭く海軍大臣ギュンター・ルフトが切り出す。
「ある男が仕事の面接を受けに行き、そこで自分の長所について語れと言われたそうでございます。ところが男は、自分は今まで十回以上も職場を辞めさせられたと言ったそうでございます」
「ふんふん、それで? とても長所とは思えないけれど」
「すると、男は堂々と言いました。自分は今まで一度も、自分から辞めようとしたことなどないと」
途端に食卓が全員の笑い声と拍手に包まれ、ルーネも危うく飲みかけたワインが気管に入りかけて噎せ返りそうになった。
これだ、これこそが、彼女が求めていた食卓の姿。
君もなければ臣もない。
人間同士が互いに心から楽しみあえる場所。
そんな空間を作れただけでも、ルーネにとってこの日の朝食はかけがえのない思い出となった。




