合流 ⑤
波高き曇天の最中、戦列艦エスパーダ号に率いられた南方王国の主力艦隊が方位を東に転じたとき、先頭を行くコルベットの見張員が叫んだ。
前方から急速に船が接近してくる、と。
直ちにマストに信号旗が掲げられ、軍艦という軍艦が、まさか帝国軍に捕捉されたのではないかと心に霜を降らせながら望遠鏡で確認する。
すると、激しい砲撃によって水柱を辺りに立ち昇らせ、帝国の私掠船から必死に逃れる南方王国の旗をはためかせる小型商船が、救難を求める信号旗を高々と上げて艦隊に接近していた。
これから帝国本土へ攻撃しようとしていた手前に、私掠船とはいえ敵軍に遭遇したことに艦隊司令以下の士官たちは臍を噛む。
だが、助けを求めている自国の商船を見捨てて良いのか。
それとも作戦を優先して無視するか。
艦隊参謀たちの間で激論が繰り広げられた。
だが周囲の艦船からはしきりに救助に向かいたいという申告が相次ぎ、士官たちは最終決定権を有する提督に視線を向ける。
綺羅びやかな黄金の肋骨服に青いコートを着こなした青年。
この二十代そこらの若者を見つめる士官や熟練水夫たちの視線には、大いなる畏敬の念が込められていた。
何故なら彼こそが、この祝福された無敵艦隊の司令官にして、国王カスティエル・アラゴン三世の第二王子カタルニア・アラゴン公爵であったからだ。
王位継承権こそ大公たる長兄に譲るものの、国王の次男がこの一大反攻作戦の司令に選ばれたあたり、南方王国にとって最後の賭けであることを示していた。
もし作戦が上首尾に終われば、カタルニアの英名は世界中に轟き渡り、王国の栄光は未来永劫に語り継がれるでろう。
偉大なる父王の信頼を一身に受けた若き英雄は、ただ勝利のみを目指して嵐の中を進んでいた。
そこへ救難を求める王国の商船が現れた。
救助するか、見捨てるか、司令官として選択を迫られたカタルニアは士官たちに向けて声高に言葉を説く。
「諸君! 我らの頭上には父なる神とその御使いが、大いなる加護の光で見守って下さっている。我らの行く手には、ただ勝利と栄光しか無い。だが諸君、もし我らが愛する民を見捨てたとき、神は我らをお救い下さるだろうか。御使いが導いて下さるだろうか。勇敢なる海の同志を見捨てたとき、この海と風は我らを運んでくれるだろうか。私は敢えて否と言おう。諸君、我らには力がある。幾万の敵を打ち砕き、民を守る力が。諸君、私は艦隊司令官として諸君らに命ずる。彼らを助けよ。そして敵を討ち果たせ! コルベット隊は前に出よ! 戦列艦は射撃用意! 敵を牽制するのだ!」
カタルニアは自身の栄誉を求める反面、汚名を酷く嫌っていた。
特に貴族にはありがちだが、あの王子は勝利のために無辜の民を見捨てたのだ、などと後世に語り継がれることを考えると、とても容認出来なかった。
何よりも南方王国の海軍の総力を挙げたこの艦隊が、たかが私掠船ごときに負けるはずがない。
そんな自負が綺羅びやかな軍服と共に、彼の自尊心をかきたてた。
命令を受けたコルベット部隊が艦隊の陣形から外れ、追われている商船に向かって駆けていく。
同時に右へ転舵した戦列艦の砲門が一斉に開いて、小口径ながらも射程が長いカルバリン砲が火を吹いた。
商船はコルベットに迎え入れられ、砲撃を受けた私掠船団はすぐさま方向を転じて戦列艦の船首側へ回り込む。
その船の名を見た水兵たちは口々に叫んだ。
「グレイ・フェンリル号だ! ヘンリー・レイディンだ! 灰色狼がそこにいるぞ!」
その報せを聞いたカタルニアは大いに驚いた。
かの大海賊とこんなところで相まみえることになるとは夢にも思っておらず、その首を持ち帰れば父王からどれだけ褒められることか。
船乗りたちが口をそろえて、神の災い、と恐れ、また王宮の学者たちが、海上に一国を成す男、とまで評した男が自分と対峙している。
その欲望が彼の判断を迷わせた。
本来の目的であるはずの帝国本土への侵攻と、ヘンリー・レイディンの討伐が、彼の中で秤にかけられた。
だがグレイ・フェンリル号は砲弾の雨あられの中を右へ左へ回避したかと思えば、すぐさま風下側に向けて逃走を開始した。
カタルニアには口から出かけた追撃の二文字を理性で飲み込んだ。
興奮を抑え、作戦の目的を小さな声で何度もつぶやき、自分を律する。
彼は艦隊司令という立場を忘れてはいなかった。
すぐに全ての艦艇に被害の報告を求めると、どの船にも損害らしい損害は無かった。
カタルニアは南へ向けて去りゆく灰色狼の背を見つめ、胸の鼓動を手のひらで感じ取る。
高鳴っていた。
これは喜びか、あるいは恐れか。
これだけの艦隊に対してその鼻先を悠々と通り抜けていく敵に興味は尽きなかったが、救助した商船についても気を向けねばならなかった。
間もなく商船側から是非とも提督に御礼をしたいという申し出があり、カタルニアは快く受け入れた。
万が一に備えて武器を所持していないか身体検査があった後に、船長が旗艦エスパーダ号に乗り込む。
それはグレイ・フェンリル号の甲板長たる黒豹であった。
女性が船長を名乗っていることに水兵たちは驚嘆するも、カタルニアはあくまでも紳士的に彼女を出迎えた。
「ようこそ、レディ。危ういところであったが、無事で何よりだ。私が当艦隊の司令、カタルニア・アラゴンである」
「ええっ? アラゴンって、まさか、王子様かい!?」
黒豹は全く予想外の人物が出てきて息をつまらせた。
元が南方の出身である黒豹のこと。アラゴン王家の名は彼女とて知っていた。
黒豹は心中で冗談じゃないと悪態をつきながらも、ウィンドラスの仕草を思い出しながら無理やり笑顔を作ってぎこちなく一礼する。
「ええと、救助して戴きまして、ありがとうございました。オレ……あいや、ワタシたちは見ての通りの卑しい船乗りですので、礼儀とかそういうのは疎く、なんと申し上げればいいか」
「構わぬ。だがレディ、貴女も幸運なものだ。かの大海賊に追われて命を拾うなど、そうあることではないと聞いている。故郷へ戻った折には、よき自慢話となるであろう」
「ははっ、そいつはどうも」
どうにも人を騙すというものに不慣れな黒豹は、さっさとこの仕事を終えたい一心からか、すぐさま件の策を次の段階に移行することにした。
「ところで王子様、このまま東に向かうのはちょっと不味いと思うんですがね」
「ほう。何故かね?」
カタルニアはどうせ取るに足りない理由だろうと余裕の笑みを崩さぬままに理由を尋ね、しかし黒豹の口から飛び出したデタラメに顔色を変えることになる。
「いやさワタシらが数日前に見たんですがね、この先の東の海上で帝国軍の艦隊が集結しているのを見たんですよ。ありゃあ百隻は超えてましたね。そのときワタシらはおっかなくて帝国の旗をあげて難を逃れたんですが、あのヘンリーには見破られて、口封じの為に追い掛け回されたんですが、こうして逃げてきたってわけです。だから、このまま東に向かうのは不味いんです。止めておいたほうがいいです」
カタルニアは唸る。
どうにも嘘くさいが、かといって真実であれば確かに敵軍の只中に突っ込むことになる。
彼は論理的に考えることにした。
帝国の陸戦部隊は王国を形成する島々に上陸しており、艦隊も南方の海にいることが確認されている。
あるいは帝国は、すでに制海権を得たものとして本国の艦隊を投入し、決着をつけようとしているのではないか。
艦隊を集結させているのならば、その可能性も見えてくる。
カタルニアは早々に黒豹を船へ帰らせ、すぐさま高級士官を集めて軍議を開いた。
所見を求められた参謀たちは半信半疑であったが、相手は仮にも第二王子。
もし機嫌を損ねれば軍人としてのキャリアを失いかねない。
彼が黒豹の話を真実と断定している以上、その対策を講ずるほうが建設的だと参謀たちは口裏を合わせた。
「では殿下。一度南にコースを変え、南東方向から敵艦隊を迂回しつつ攻撃の機会を伺うのは如何でしょう?」
「私もそれを考えていた。帝国の西端は手薄だが攻撃しても敵の士気を挫くには物足りない。少なくとも帝都に近い街を攻撃せねば意味がない。敵を講話のテーブルに着かせるためだ。より確実な方法でいこう。航海計画を見直して私に提出したまえ。今日中にだ」
かくして艦隊はありもしない敵を回避するために一度南東へ引き返すことで決した。
その先に待ち構えている苦難を、彼らはこの時点で知る良しも無かったのである。




