貴賤 ②
白い雲がポツリポツリと浮かぶ晴天の下、造船所の職人らの手によりグレイ・フェンリル号の戦傷はすっかり回復し、帝国商船の計らいによって武器弾薬の補充も整った。
水、酒、食料、衣料品もたっぷりと積載し、再び長い航海と戦いに赴くに十分な物資を得た彼らは、出港の配置について準備を整えていた。
岸壁には今回の騒動で関わった者たちが見送りに訪れ、ヘンリーはタラップの前でグレイスやソルティと別れの挨拶を交わす。
「もう行ってしまうんか? 寂しくなるなあ。旦那のこと気に入ってたんやけど」
「依頼主からの仕事が残ってるからな。俺のようなのがいつまでもいるわけにもいかん」
「……また、来て下さるのかしら?」
胸元へ寄ってくるグレイスの肩を優しく掴み、押し戻す。
「分からん。だから約束は出来ん。明日には海の底へ沈むかもしれん身だ。俺にとってもお前さんにとっても、所詮は泡沫の夢だったのさ」
グレイスは聞くべきか躊躇うように目を泳がせた後、やはり聞いておこうと決心したのか、彼の目を真っ向から見据えて問う。
「なぜ、あのとき、私を抱いて下さらなかったの?」
昨夜、船長室に呼び出された彼女はヘンリーにベッドへ誘われた。
互いに一糸まとわぬ姿となってシーツに包まれ、グレイスは彼を受け入れようとするも、ヘンリーは耳元で先述の言葉を囁くばかりで結局肌を重ねることは無かった。
女として恥をかかされた、とは思わないが、それでも何故抱かなかったのか聞かずにはいられなかった。
問われたヘンリーは、ふむ、と唸って腕を組む。
「お前さんの心は、俺にとっちゃ綺麗過ぎるのさ。自慢じゃねえが、俺ぁ宝石を奪うが汚すことはない。そしてその宝石を磨くのも、俺ではない誰かの仕事だ」
「ヘンリー、貴方……」
「グレイス、俺のことなぞ忘れろ。お前さんの夜は明けた。綺麗な空の下を堂々と歩け。そして俺よりも良い男を見つけ、良い家庭を作って、良い死に方をしろ。もしそれを邪魔する奴が現れたら、俺を呼べ。そいつをぶん殴ってマストに吊るしてやるからな」
グレイスは瞼から溢れ出す涙で頬を濡らし、ヘンリーの胸元を力弱く掴む。
「じゃあ、殴って吊るしてよ。邪魔する奴がいるの。そいつ、私が想う人を遠い海へ連れ去っていくの。神様って名前の嫌な奴よ……」
ヘンリーは指で彼女の涙を拭い、雄々しい拳を見せつける。
「承知した。いつか必ず、俺が奴を吊るしてやる。約束だ」
無言で頷いたグレイスはソルティに肩を支えられてヘンリーから離れた。
指揮所へ駆け上がったヘンリーは待機する部下たちに向けて叫ぶ。
「出港! 舫い綱を解け! 主帆開け! 両舷、櫂出せ! 微速前進!」
灰色の帆を開き、グレイス達はゆっくりと海原へ向けて進み行く彼の背を見送った。
名残惜しくも港を後にしたグレイ・フェンリル号は、僚船にアドラー号を伴い、次なる戦場たるエスペシア島近海を目指して帆を進める。
晴天なれども波高く、甲板に容赦なく冷たい飛沫が降り注ぐが、水夫たちは船唄を声高らかに合唱し、威勢よく綱を引いてマストを操作して風をしっかりと掴む。
操舵手も指示された進路を保つように細かな当て舵を駆使し、また航海士たるウィンドラスも、こまめに地文航法を用いて海図に自船の位置を記録していく。
ハンドサイズの方位磁石で島の山頂や灯台など、移動しない顕著な目標の方位を複数個計測し、海図にそれぞれの方位線をひいて交差した点が自船の位置という具合だ。
小島が多く点在している南方の海では、星を観測する天文航法よりもこちらのほうが手間が少なく、より正確な位置を求めることが出来る。
羅針盤が示す進路方位と地文航法で割り出した位置情報から、ウィンドラスは適切な操舵指示や操帆指示を下し、甲板長の黒豹の指揮の下、熟練の水夫たちが巧みに帆の角度を変えて効率的に速力を生み出していた。
マストに登る見張員も、敵の船団や艦隊がいないか厳重に気を引き締めて双眼鏡を覗く。
非番の者たちは夜間当直に備えて睡眠を取るか、あるいは船内の清掃に勤しみ、各々で時間を無駄なく消費していく。
そんな雑用の主任が栄えある帝国騎士というのだから、今までにも増して何とも複雑で面白みのある航海のはじまりといえた。
もっとも、最たる混沌としてはかつて皇女が見習いとして乗り組んでいた頃であろうが。
濃厚な潮の香りを肺一杯に吸い込むヘンリーは活き活きとしていた。
出港作業も無事に終わり、指揮をウィンドラスに一任した彼は、船首に立ち、陸の息苦しさから解放された愉悦を鼓動に感じていた。
頬を撫でる優しい風、船体にぶつかっては砕ける厳しい荒波。
これだ、これなのだ、これこそが我が世界、此処だけが我が世界、これに在らずして何処に在るべきというのか。
鳥は空に、獣は地に、魚は水に、それぞれが生きる世界を別にする。
彼もまた同じだった。
思わず、空へ向けて吼えたくなった。
陸地での争いなど、彼にとっては児戯にすぎない。
海の雄大さ、恐ろしさ、そして優しさを知る者は、船という揺り籠に身を預ける船乗りたちだけであった。
しかし、床一枚挟んだ下は冷たい奈落の底へ続く世界でもある。
果たして他の私掠船がどれほど生き残っているのか、また生き残っていたとしてもどれほどがまともな戦力として船団に加えることが出来るのか。
ヘンリーの心を悩ませるのは其の点であった。
夜を日に継いで航路の隙間や島影を抜け、各私掠船が封鎖を担当する航路や海峡を訪れると数海里をグルグルと巡ってみるが、南方王国軍にやられたのか、あるいは海に飲まれたのか、開戦時にはおよそ五十隻ほどいた私掠船も、数えてみれば半数以下になっていた。
そのうち奇跡的に無傷か戦闘に支障がない程度の損傷で済んでいるものは、二十隻程度だったのである。
戦力分散ゆえの損害であるが、その分、彼らが提出した戦果は頷けるものだった。
護送船団方式を採用した南方王国の海上輸送は一時的にではあるが麻痺状態に陥り、商船も神出鬼没に各地へ現れる私掠船を恐れ、主だった航路を避けたために大幅に彼らのスケジュールを遅らせることが出来たのだから。
武功を立てた船は既に恩賞を期待しており、互いに無事であることを喜び合って、船長会議にてエスペシア島周辺海域に向かう旨を伝えた。
無論、彼らは船団長の命令に従った。
私掠船団『貴族院』は大小二十隻の陣容で進撃し、海上に一国を成す、と評された如き威容を以って海を闊歩していく。
やがてエスペシア島まで残り十数海里という地点までたどり着いたとき、船団の見張員全員の双眼鏡に、正面から反航してくる一隻の船影を捉えた。
すぐさまマストの旗章を凝視し、其れが帝国軍を示す、黄金の剣を掲げた人魚姫の軍旗であることを確認する。どうやら単艦での哨戒活動中らしく、三本マストに横帆と縦帆をそれぞれ備え、両舷合わせて五十門の砲を搭載した重フリゲートであった。
船首に書かれた船名に目を移すと、『ウィンチェスター号』というらしい。
軍属がいればどの艦隊に籍を置くのかわかるであろうが、生憎と此処には荒くれ者しかいない為、ともかくも友軍には違いないので帆を畳ませて速力を落とし、マストに信号旗を掲げて味方であることを両船で認めあった。
航路から外れて浅瀬に寄り、海底へ錨を下ろし、舷と舷をタラップで繋ぐ。
ヘンリーが幹部たちを伴ってウィンチェスター号に乗り込むと、整列した水兵や士官たちの奥側に、やたらと若い男が待ち構えていた。




