報告 ⑤
女帝ルーネフェルトが三島の酋長らと謁見する少し前のこと。
充てがわれた客間のベッドで清潔なシーツに身を包むタックは、まさに夢心地の中にいた。瞼の裏には愛しのルーネが一糸まとわぬ姿で同じベッドに身を横たえており、桃色の吐息と赤みを帯びたきめ細かい白い肌を独占し、互いに耳元で愛の言葉を囁き合う。
夢幻の世界ではどのような不条理も許される。
しかしそれが現実世界に顕現するとどうなるか。
タックは半身ほどもある大きく柔らかな枕を抱きしめ、涎を垂らす口から夢の中で如何なる情事に耽り、女帝に不敬を働いているのかを、今しがた起こしに入室したメリッサに語り聞かせていた。
前々から女帝に妙な下心を抱いていたので怒りを覚えていたが、つい先日に友人という理由で女帝に窘められ、己を何とか律していたものの、今の寝言を耳にしてメリッサのコメカミあたりで何かが焼き切れた。
「ヤロウ……ブチコロシテヤル……」
メリッサは両手でタックが眠っているベッドの敷き布団を強く掴むと、一度大きく呼吸をし、力の限り思い切り引き寄せた。
「うぉわぁ!」
夢の世界から文字通り一転して床に滑落したタックは、打ち付けた肩を撫でながら寝ぼけた目を擦る。
「んだよぉ……これからが良いところだったてのにさぁ……ブフゥ!?」
突然両手が伸びてタックの首が締め上げられる。
「この不埒者……たとえ天上の神がお赦しになろうとも、この私が許しておくものか! 陛下の御身は私がお守りする! いざ覚悟ぉ!」
「うぐぐ……な、舐めんなよぉ!」
締め上げるメリッサの両手首を掴むと、勢い良く上半身を床に向けて倒し、足を彼女の股に潜り込ませて流れるような動きで投技を披露した。
宙を舞ったメリッサは花瓶やら果物籠やらを床にぶちまけながら壁に激突し、眠気が吹き飛んだタックがすかさず戦闘態勢に入った。
寝間着姿なので武器はないが、徒手空拳であろうとも一人や二人の敵、容易に御し得る自負があった。
しかし、その敵の姿を見た途端にタックは固めていた拳を下げて、倒れ伏すメイドに駆け寄る。
「だ、大丈夫かい? 一体誰がこんなことを……」
「あ、あんた以外に誰がいるっていうのよ!」
肩を支えるタックの顔に拳を振り上げるメリッサだったが、再び手首を掴まれて動きを制される。
「止めなって。君じゃオイラにゃ勝てないよ」
「な、何よ! 馬鹿にして!」
「どっちが。オイラだってレイディン一家の一員だい。この手で何人も、殺してきた」
「……っ」
メリッサは心に一瞬の怯えを抱いたことを自覚し、手の力を緩めた。
「海賊……」
吐き捨てるように侮蔑の言葉を口にした彼女に、タックは鼻を鳴らす。
「私掠船だっての。覚えておきな。というか、前にもルーネに言ったなあ。もう何年も前、ちょうど彼女が船に乗ったばかりのときだったっけ」
懐かしむタックの言葉にメリッサの頬が膨れる。
「妬けちゃうなあ」
「何に?」
「私が知らない陛下の姿を知っているからよ。私が知っているのは、女帝に即位されてからのお姿だけ。皇女の頃、私は奴隷として宮殿の床を這っていたから。産まれたときからずっとね。あんた、いつから海にいるのよ?」
「今よりずっとガキの頃からだよ。海って、広いし、綺麗だし、でっかい船を港で見る度に憧れてさ。オイラもいつか船長になってでっかい海で、でっかい男になってやるんだ……ってね」
するとメリッサは先ほどの痴態を思い出して、不意に笑いがこみ上げた。
「あははっ、でっかい男ねえ。夢の世界じゃさぞかし大物になっていたんでしょうねぇ」
「ぐぬぬ……反論出来ないや……へへへっ」
少し恥ずかしげに頬を掻いてみせたタックがメリッサに手を差し伸べ、彼女もまたその手を取って互いに立ち上がる。
「私も混ぜなさいよね?」
「え?」
「万が一、いえ、億が一、あんたと陛下が夢のような場面になったときは、私も混ぜなさいよね? 陛下を独り占めなんてさせるもんですか」
直後、客間で妙な騒音が聞こえるとの通報を受けた宮中警護隊がドアを押し開けてきた。
「宮中警護隊であります! ああ、なんという惨状……お客人、お怪我は御座いませぬか? よもや暴徒が押し入ったのではありますまいな? そこな使用人、説明を求む」
「え? ええとですね……」
立場上は正直に報告すべきなのだろうが、タックが目配せをしたのを見て、彼女は開き直る。
「ただのモーニングコールですわ」
呆れた宮中警護隊が退出した後、タックには今の宮中にしては客人用の豪勢な朝食が与えられ、船での食事の差に愕然としながら腹ごしらえを済ませた。
ちょうどその頃に女帝と酋長たちの謁見が終わり、私室で休んでいたルーネからタックへ来室する旨の命令が伝えられた。
何か大きな動きがあったことは宮中の騒ぎから察したが、少なくとも自分にはあまり関係の無いことだと楽な気分で彼女の部屋を訪ねた。
ノックの前に服の皺と髪の乱れを一応気にして、ドアを叩く。
「ん……女帝陛下、お召に従い参上致しました」
「柄にも無い言葉なんて無理して使わないの。入って頂戴」
「はいよー」
部屋にはいると、ルーネはソファに身を預け、しなやかな両脚を無作法に放っていた。
「女帝とは思えない格好だね?」
「貴方と、いえ貴方たちと一緒のときは、女帝じゃなくて水夫見習いのルーネよ?」
謁見の疲れを悟られないように笑顔で振る舞うルーネは、タックを向かい側のソファに座るよう促す。
「確か、明日、彼のもとへ戻るのよね?」
「うん。船長に早いところ報告して、手助けしないといけないから」
「そう。彼に宜しく伝えて頂戴ね? それと、わざわざ遠いところからよく報せに来てくれたわ。何かご褒美をあげたいの。何でもいいわ。貴方が望むものを言ってみて?」
ご褒美、という声にタックの血流の温度が一気に上昇する。
頭が一瞬真っ白に染まり、やがて浮かんでくる願望は、彼女の甘く艷やかな唇だった。
どんな願いでも良いと言う彼女の言葉に甘えるべきか、それとも理性を保って無難なところで落ち着くか、彼にとって人生最大の選択肢を突きつけられたようだった。
「じゃ、じゃあ……」
どう言ったものか手遊びを繰り返すタックの様子を、ルーネはさも面白げに眺め、好奇心旺盛な瞳が願い事を早く言えと催促していた。
急かされるタックはしどろもどろな言葉で濁す。
「ええと……ルーネの、その、キ……キ……」
キス、というたった二文字の単語が声にならない。
もし嫌だと言われたらどうしよう。
そんな不安が彼の舌を麻痺させる。
我ながら情けないと恥じるタックは、ありったけの勇気を振り絞り、半ば無意識に願いを口にしていた。
「キ、キ……騎士が、いい」
キスと言ったつもりが、気がつけば、騎士と言っていた。
ルーネも初めはキョトンとした表情で首を傾げ、念のため再度尋ねる。
「帝国騎士の称号がお望みなの? 本当に?」
もう後に引けないため、タックも仕方ないと腹をくくる。
全くの嘘偽りの願いというわけでもないのだから。
「うん……ルーネの、騎士になりたい」
「でも、私はあまり気が進まないわ。だって、騎士に封じるのは簡単だけど、それだとタックが正式に私の臣となってしまうもの。あくまで形式上だけどね。今より少し窮屈になるかもしれないけれど、覚悟の上?」
「勿論だよ。後悔なんてしない。船長だって、ルーネから位を貰ったわけだし」
一理ある、とルーネは頷き、立ち上がると、棚の上に安置された鍵付きの長箱を開け、その中から純銀と宝石が散りばめられた皇帝専用の儀礼用サーベルを取り出す。
「タック、そこへ跪きなさい」
凛とした声色に圧されながら、少々ぎこちない動きで膝を床につけ、頭を深く垂れた。
滑らかな動作でサーベルを抜いたルーネが、彼の肩に刃を載せる。
「女帝ルーネフェルト・ブレトワルダの名の下に、貴公を我が騎士に叙す。タック卿、面を上げなさい」
垂れた頭をゆっくりと上げると、サーベルを鞘に収める音が聞こえ、彼の目の前にルーネの白い手の甲が差し出される。
「忠誠を誓うならば、我が手に口づけを」
ごくり、と生唾を飲み、彼女の手を取って顔を近づけていく。
結果としてルーネにキスをする機会を得られた。
唇でないことは残念至極ではあるが、こうなれば後悔の無いようにしようと心に決め、そっと彼女の手の甲へ口づけをした。
「結構。さあ、立ちなさい。儀式は終わりよ。今この時から、タックは私の騎士さま。これからも、宜しく頼むわね?」
「は、はい! オイラの方こそ、よろし――っ!?」
頬に訪れた柔らかな感触に、思考が停止した。
彼女の甘い香りが鼻をくすぐり、彼女の髪が顎を撫で、夢にまで見た彼女の唇が頬に触れている。
みるみるうちにタックの顔が真っ赤に染まる中、耳元でルーネの悪戯っぽい声が微かに聞き取れた。
「ウソツキ……唇へのキスはお預けよ? 頑張ってそれに見合う武功を立てなさい」
「はい……」
ふらふらとさながら泥酔したように退室した後、タックの心底が震え、血潮が疼く。
「武功か……よぉし、やってやるぞー!」
意気揚々と立ち去った彼と入れ代わる形で、メリッサが女帝の部屋へ入った。
「陛下、今しがた妙なクスリでもキメたかのような足取りで踊る少年を見かけたのですが」
「ふふっ、無理も無いわね。実は先ほど彼に騎士の位を与えてあげたの」
「ええーっ? 何故で御座いますか?」
彼女が驚くのも無理はない。
本来、爵位の授与は議会の承認を必要とするのだから。
無論ルーネとてそれは承知していた。
「後でアーデルベルトの爺やに言っておくわ。もうやっちゃったことだし。それに、彼にはそれに見合うだけの功があるもの。君主たるもの、信賞必罰は弁えておくべきだわ」
「な、成る程。流石は陛下。御賢明で御座います」
感心するメリッサの眉間にルーネの人差し指が突き立てられる。
「で、今朝方、私の言いつけを破ってまたタックと喧嘩をした使用人がいると聞いたのだけど?」
「え? あぅ……その、申し訳ございません……」
「信賞必罰の理念に則り、あなたには、一週間ほど午後のおやつを抜きにする罰を与えましょう」
刹那、メリッサの顔色が真っ青になり、冷や汗が額から吹き出す。
「ご、ご無体な! 陛下! それはあまりにも重罰で御座います! どうかお慈悲を!」
「駄目よ。もう婦長にも言っておいたから、諦めて自分の行いを反省なさい」
「うわあん!」
毎日の楽しみが取り上げられ、たまらずメリッサは両手で顔を押さえて遁走し、自室のベッドに篭ったのであった。




