報告 ②
あわや女帝の執務室で男女の大喧嘩が勃発しかけたが、ルーネが机の引き出しから大公を撃った拳銃を取り出して机に叩き付けたことでタックもメリッサも手を引き、タックには別の使用人に客室まで案内させ、メリッサには部屋で待機するように命じた。
ただでさえ戦時中のピリピリした空気に神経を張り詰めていたところにヘンリーのイタズラ話が舞い込んで、深々と椅子に背を沈めて、手をつけていなかった昼食の皿に指を伸ばす。
通常ならば純銀の皿で供されるところだが、彼女の机に置かれていたのは庶民が使う木製の皿。
しかも盛り付けられているのは小麦粉とジャガイモ粉が混じった粗悪なパンとチーズ、そして簡単なサラダのみ。
とてもではないが、帝国の主の口に入るような代物とは思えない。
宮中の料理人の嫌がらせというわけではない。
彼女自身の希望だった。
戦争継続の為には莫大な経費を必要とする為、国費の負担となるものは極力倹約するというのが彼女の方針であり、帝国議会でも賛成多数で可決された。
貴族たちには普段の贅沢な生活を自粛させ、主君たる女帝が率先して模範を示すことで臣下も黙って従っていた。
不平不満を心の内に抱きながらも……。
ルーネはそれらを眉一つ動かさず、黙々と口に運んでは咀嚼し、その間にも目を通すべき書類を速読し、認可のサインを走らせる。
平時も然ることながら、戦時もまた書類との戦いに悩まされる。
新規建造の軍艦に使用する材木の確保、志願兵に支給する装備や給与にかかる費用の概算、戦後を想定した軍人年金の予想額、また戦没者の遺族への援助などなど、万事に金がかかる。
だからこそ戦時くらいは派手な生活は忘れ、最前線で戦う兵士を想い、勝利を信じて税を差し出す民を省みて、特権階級と自称する貴人もまた質素に徹するべきと彼女は思い至った。
そもそも己も含めて、およそ貴族という存在は、たまたまその家に産まれたというだけの理由で将来も身分も保証される。
ただ家名の存続だけに奔走し、家の祖はともかくとして、本人には根拠のない名声と誇りに執着し、それぞれの土地の民を下等と見なす気風が未だ抜けきっていない。
自分の手を汚して食物を育てるわけでもなく、針に刺されながら服を縫うわけでもなく、身一つで嵐に立ち向かうわけでもない。
貴族の役目とは、民から徴収した税を厳正な法と自己の良心に従って公正に国家の繁栄の為に使用し、給与という形で民の暮らしに還元する。
しかしながら、自身を特権階級と驕り、民からの税を当然のものとして私腹を肥やす為に吸い上げる国家のノミがいることも確かだった。
その意識を是正するために将来家を継ぐ長男を庶民の職場へ送ったが、芽が出て花が咲くまで時がかかりそうだった。
大半の貴族は彼女の思惑を理解出来ず、しようともしないだろう。
先日など、宮中での舞踏会を禁止する勅命を出したところ、貴婦人らが大挙して押し寄せてきたこともあった。
ある者は興奮のあまり身分も忘れ、女帝の机に両手をつき、鼻息も荒くして、
「あまりな御言葉ですわ! わたくし達は宮中舞踏会を心の拠り所とし、日夜高い講師料を払ってレッスンに励んでおりますのに、それを殿方の前で披露する場を取り上げるなど、陛下は女性でありながらレディの御心を忘れられてしまわれましたの!?」
酷い、惨い、などと口々に抗議する彼女たちにルーネの顔が朱に染まる。
「姦しいわね! なぁにがレディの心よ! そんなに踊りたいなら貴女たちも最前線へ送って差し上げましょうか? 飛び交う銃弾と刀剣を相手にレッスンの成果を敵味方の前で披露させてあげる! それが嫌なら今すぐ屋敷に戻って粛々と銃後の守りに努めなさい! 大体なによ、その無駄に宝石まみれの下品なドレスに装飾品は! 身ぐるみ剥いで戦費に加えてもいいのよ!? 分かったらその男根臭い口を閉じてさっさと出てお行き!」
たまらず貴婦人たちは退散したものの、これが宮中の現状だった。
無論、例外は存在する。
腹心であるローズ・ドゥムノニア女伯、ヘンリー・レイディン准男爵を除いて、確信が持てる女帝の理解者は二名。
噂をすれば影が差す、とは古人の名言で、そのうちの一人が丁度女帝の執務室を訪問する最中であった。
緋色のマントを靡かせ、深緑色のオーバーコートに月桂樹を象った黄金のバッジをつけた白髪の老公爵こそ、現帝国宰相ゲルハルト・アーデルベルト。
元は亡き先帝の侍従長を長年に渡って務め、同時に宮内大臣として皇帝の諸行事を取り仕切り、大公の反乱事件の後、大公側についた多くの貴族が身分剥奪などの粛清を受けた中で最高位である公爵として宮中に残り、公明正大な人柄から女帝より執政の首座たる宰相の大任に指名された。
三年経った現在では、名だたる貴族の長老として議会を取りまとめ、女帝をよく補佐している。
さて、そのアーデルベルト公は老練な皺が刻まれた頭で喋るべき言葉を今一度確認し、扉をノックした。
「陛下、ゲルハルト・アーデルベルトで御座います」
すぐに室内から返事が響いた。
「ああ、爺や? お入りなさい」
先ほどの騒ぎから癇癪を起こしているものと思っていたが、ルーネの声は既に落ち着いており、アーデルベルト公は少し安堵したように息をついて扉を開けた。
「失礼致します。陛下、ご機嫌麗しゅう」
「ありがとう。久々に友人と再会出来たわ。同時に、厄介な悩み事も増えたけれど」
「今しがた外務大臣より聞きました。陛下、あえて申し上げますが、国政を預かる身としては個人の秘密外交はご自重頂きたく、伏して願いあげます」
深々と頭を垂れている老人を目の当たりにすると、ヘンリーがやらかしたこととはいえ、真実を打ち明けるわけにもいかないというのが心苦しかった。
「ごめんなさいね。国益を考えてのことよ、許して頂戴。彼が上手くやってくれるから……多分」
最後の一言はアーデルベルト公には聞こえなかったようだが、彼は低く唸って口元を歪める。
「陛下、以前にも何度か申し上げましたが、あまりレイディン卿を御贔屓になされるのは得策とは思えませぬ。わたくしはともかくとして、他の貴族に不満が続出しておりまして……」
途端にルーネは彼から顔を逸らす。
アーデルベルト公は逃すまいと更に踏み込む。
「陛下が彼に特別な想いを抱かれていることは存じております。その功績も帝国で知らぬ者はおりません。しかしながら、陛下、彼は陛下の臣下であります。わたくし共も陛下の臣。何も彼を罷免せよだとか、粛清して欲しいと申し上げているのではないのです。ただ、彼のみを重用するのではなく、他の者共にも勲を立てる機会を頂きたいのです。今少し他の臣下も御信用頂きたいのです」
「信用もしているし、機会ならあげているわ。今は戦時よ? 敵を倒せば名声と恩賞を、死すれば名誉と弔辞を分け隔てなく私は授ける。貴族であろうと平民であろうと、ね。けれど爺や、彼には彼にしか出来ない仕事があるの。貴方だってイヤでしょう? 罪なき民を襲い、奪う、海賊をやれ、だなんて」
「それは、まあ……陛下のご命令とあらば……」
しどろもどろになるアーデルベルト公の様子にルーネは可笑しくなる。
「フフ、無理をしないの。それに、彼ら私掠船が持ち帰る富はこの国を確かに支えている柱の一つ。父が始めた制度だけれど、その価値を見出した手腕は流石。確か爺やは、父とは同窓だったかしら?」
「はい。先帝とは、畏れ多くも帝都大学校にて隣席を賜りまして」
「そう。私は父から受け継ぎ、叔父の試練を乗り越えて得たこの国を滅ぼしたくない。その為には、利用できるものは何でも使うわ。後世の史家が何と言おうとも」
窓の外に広がる遠い空を見つめる彼女の憂いた眼を見たアーデルベルト公は、彼女の覚悟の程を感じ入り、諫言のつもりがつまらぬことを言ってしまったと項垂れた。
ルーネもまた、彼の苦労を慮って話題を進める。
「それで、宰相閣下? 他にありがたい御注進はあるのかしら?」
「はっ……迂闊ながら本題を失念しておりました。ケレルマン子爵率いる先遣部隊がエスペシア島に上陸したと、ドゥムノニア伯爵から報告書が届いております。お目通しの程を」
懐から取り出した報告書を受け取ったルーネは、一先ず満足したように頷く。
「ローズは今どこに?」
「はっ、ヴィクトリー軍港にて主力の第一軍団の到着まで待機しております。そのあたりについては参謀総長に御下問されるが宜しゅう御座いましょう」
「それもそうね。ご苦労様。ああ、それと、農務長官に伝えて頂戴。概算でいいから今年の収穫量と、兵糧として送る事ができる量のまとめを提出するように。新規に田畑を開墾できそうな土地の候補も検討するように。お腹が空くことほど、辛いことも無いわ。民を飢えさせないように、少し過剰でも食料の確保に務めて欲しい」
「承りました。では、早速にも――」
一礼の後に踵を返し、扉に手をかけたアーデルベルト公は、孫を心遣う祖父のような口ぶりで彼女にいう。
「年寄りの長話としてお聞き下さい。帝国が後世に存続する為に必要なのは、戦に勝つことでも、民の笑顔でもなく、皇統の継承で御座います。陛下、どうか婚儀についても心の隅へ留めておいて下さいませ。然るべき帝室に血の連なる家系より御夫君を迎えられませ」
それを聞いたルーネは、心底から困ったという風に小さく嘆息する。
「……わかっているわ。いずれ、決めるから、今は目の前の仕事に専念させて」
「はっ……差し出がましいことを申し上げました」
退室したアーデルベルト公は暫し黙想して今しがた聞いた彼女の言葉を噛み締め、親心にも似た想いを胸に抱き、宰相として主君の手となり足となるべく女帝の命令の遂行に奔走するのであった。




