報告 ①
ノイトラールの港から一隻の貨客船が出港した。
行き先は帝国領の港で、その一等客室に、密命を帯びたタックと、ヘンリーの謀略を知る由もない外交官が同乗していた。
一等客室といっても所詮は民間の船であり、国家の口であり耳として外交官が乗る船の部屋に比べれば、シルクのカーテン付きのベッドと筵の寝床ほどの差があった。
タックの手にはウィンドラスが用意した偽新書の写しが茶封筒に納められており、誰にも奪われまいとしっかり両腕に抱え込み、出港して数日経っても部屋から出ようとはしなかった。
食事も全て船室で取り、同行する外交官も半ば不審に思いつつも、何か言って後日にヘンリーから突っかかられても困るので無視していた。
タックは船窓から見える水平線をぼんやりと眺めるうちに、奇妙な気分を覚えた。
仕事で乗る船と、客として乗る船が、こうまで違うものと今まで知らなかった。
彼にとって船は家。
いわば此処は他人の家に寝泊まりしているようで、どうにも居心地が悪く、また甲板から聞こえてくる水夫の声もいつもの面々と違うもので、落ち着かない。
船長や航海士の命令の声が聴こえると、無意識に身体が反応してしまうのも、いわゆる職業病という奴なのだろうか。
タックはベッドに横たわって天井を見つめ、いつしか彼の網膜に恋する女の顔が浮かんだ。
彼女にもうすぐ再会出来る。
ヘンリーの使者としてならば、彼女の部屋でゆっくりと喋る機会も得られるかもしれない。
「……くく、ふふふ、うひひひ!」
柔らかな枕を強く抱きしめてベッドの上を右往左往するタックの脳内が花畑になっていく。
彼女の滑らかな金色の髪、海のように蒼い目、そして淡雪のような肌、瑞々しい唇。
ヘンリーのように甲斐性があれば、想いを告白するなり言いくるめて唇を奪うなり出来たろうが、彼女の女帝という肩書がタックの良心を揺り動かす。
ともあれ、好きな女に会えるというだけでも、タックにはこの上ない喜びだった。
夜を日に継いで海を渡った貨客船は予定通りの日程で帝国の港に綱を留め、そこからは帝都へ行くために専用の馬車に乗って広大な平野を往く。
タックは馬車の揺れに酔って体調を崩した。
口元を手で抑えて吐き気と抗戦するタックの背を外交官が撫でる。
「船酔いは聞いたことがありますが、陸で酔う方は初めて見ましたぞ」
「うぷ……マストより高い荒波なら幾らでも耐えられるけど、この硬い地面に揺さぶられるのは……」
幾度もエチケット袋のお世話になりつつも、帝都を目前にする頃には揺れにも慣れ、顔色は悪いが一端の紳士らしい堂々とした威勢を保つに至った。
帝都に入ると石畳のメインストリートを進み、宮殿の正門前で停車すると、衛兵によって馬車の扉が開かれる。
南方王国との戦端が開かれて暫く戻れなかったが、どこか実家に戻ってきたような安心感がタックの胸を温める。
お互いに道を譲りながら外交官と共に宮殿へ入り、緊急の案件として女帝への謁見を申し出た。
控室にて暫し待機した後、使用人の少女が謁見の間へ案内してくれた。
本来であれば一度外務大臣か帝国宰相といった政治の代表者に話を通すところだが、今回は火急の要件ということで、女帝自ら直答を許したのだという。
レッドカーペットを踏みしめて玉座の前で背筋を伸ばす二人の視線が、金糸で装飾された真紅のドレスを纏うルーネフェルトの玉座へ腰掛ける姿を追う。
「お二人とも、遠路遥々大儀でありました。早速だけれど、緊急の案件について聞かせて頂戴?」
ちらりとルーネの視線がタックへ向けられる。
何故彼が此処にいるのか、それだけでヘンリーからの使者であることは考えるまでもなかった。
先に外交官が大使からの言葉を伝える。
「畏れながら御報告申し上げます。陛下がレイディン卿に託されました内密の御親書は、確かに中立国ノイトラール政府へ大使閣下の手により届けられました。我らは、レイディン卿の要請により陛下へ御報告の為に帰国の上、参上した次第でございます」
途端にルーネは怪訝な顔を浮かべた。
無論彼女は親書を託した覚えも無ければ、執筆した記憶もない。
再びタックのほうをちらりと見れば、タックは意味ありげに目配せを送った。
またぞろヘンリーが良からぬことをしたのだと、ルーネは心中でため息を吐き、咳払いを一つ鳴らす。
「コホン……両名とも役目ご苦労様。貴方は外務大臣に報告してきなさい。それと、タックは私の執務室へ来るように」
そそくさと謁見の間から退出したルーネに続いて、タックは急ぎ足で後を追い、彼女の私室に招き入れられた。
人払いをし、部屋に二人きりになったところで、ルーネは扉に鍵をかける。
「……タック、お久しぶりと言いたいところだけど、一体どういうことなのか、詳しく聞かせて貰えるかしら?」
背中越しではあったが、タックには彼女の声に怒気が赤々と色づいていることを察した。
「え、ええと……これ、船長とウィンドラスさんからの手紙」
慌ててタックが封筒を差し出すと、ルーネはそれを引ったくり、執務机の引き出しからペーパーナイフを取り出して器用に封を切る。
封筒の中には例の偽親書の写しと、更にヘンリーの計画について詳しく書かれた手紙が添えられていた。
ルーネは頬杖をついて手紙を興味深げに何度も読み返す。
「ふぅん……ノイトラール政府と結託してマフィアを潰し、その資金を略奪して戦費の賄いとする、ねぇ」
頬を膨らませるルーネは偽親書にも目を通すが、そのあまりの出来栄えに一瞬言葉を失った。
「ちょっと、この国璽もシーリングスタンプも私が使うものと瓜二つじゃないの! ねえタック、これ、誰が作ったの?」
「新入りの大工だよ。文章はウィンドラスさん。ふたりとも徹夜してた」
「表彰したくなるほどの見事な出来栄えね。タック、彼の下へ戻ったら伝えてくれないかしら?」
「何を?」
ルーネは極上の微笑みの背後に青白い冷気を纏って告げた。
「もしもこの世に貴方という人間が二人いたら、私は一方を自身の手で断頭台に送り、死体を挽肉にして豚のエサにしてやる、と」
タックの額に嫌な汗が滴った。
「あの、もしかしなくても、怒ってる……?」
「当たり前でしょう! 勝手に君主の親書を偽造するなんてどういうつもりよ! はぁ……ウィンドラスさんも、もう少し強く彼の手綱を握って貰わないと困るわ。まったく彼ったら、戦時中に一体何を遊んでいるのかしら。もう! 大体口裏合わせろって、ただでさえ忙しい時に余計な仕事を増やさないで貰いたいのよ」」
計画書を握りつぶしたルーネは炎が燃える暖炉へ投げて証拠を隠滅し、机の上に置かれた鈴を鳴らして使用人を呼んだ。
ノックの後、健康的な褐色肌のメイドが恭しくスカートを摘んで一礼する。
「失礼いたします。陛下、御用は……って、あなたは!」
メリッサはタックの顔を見るなり、驚いたような怒ったような表情で人差し指を突きつけた。
「いつぞや私がお手紙を届けた海賊少年! 陛下から聞いたんだから! 私の胸囲が足りないって!」
「いや、実際ぺったんこだし……上も下も」
「ムキーッ! 陛下! 決闘を! 決闘の許可を! その乙女心を知らぬ舌を引っこ抜いてやる!」
エプロンの端を噛みしめるメリッサのあまりの剣幕に、ルーネもつい先ほどまでの怒りさえ忘れ、まぁまぁと手を振って彼女を宥める。
「メリッサ、彼は私の大切な友人よ? 確かに失礼極まりない言動だけれど、私の顔に免じて許してあげなさい。女性には女性の、男性には男性の好みもあるのだし」
「くっ、陛下がそう仰るのなら……」
拳を震わせて一歩下がるメリッサに対して、タックはルーネから友人と言われて少々図に乗った。
「うんうん、やっぱり女の子はルーネのように可愛くて綺麗で出るところはきちんと出て且つスレンダーで唇とかさりげない色気が――」
「不敬罪ィィイイイイイ!」
刹那、メリッサの強烈な平手がタックの頬を抉った。




