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開戦 ③

 グレイ・フェンリル号の灰色の帆が順風を受け、キングポートを目指して都を出港した。

 守りの要である海峡を抜け、マーメリア海の海原へ出たところで航路に乗る。

 そこでヘンリーは乗組員たちを甲板に集合させ、船大工のキールが引退し、キングポートで下船することを告知した。

 同時に、エドワードを正式にグレイ・フェンリル号の船大工とすることを決定したことも告げられた。

 古参新参を問わず、最年長の老船乗りが引退することへの敬意と不安が顔に現れ、それからすぐに、見習いだったはずのエドワードが船大工に格上げされたことへの不満も垣間見えた。


 しかし一番驚いているのはエドワード自身だった。


「おやっさんが引退って、一体どういうことッスか! 俺なんてまだまだ修行中だし、船に乗ったのだってこの前からだし!」


 抗議にも似た声をあげるエドワードに向かって、ヘンリーは乗組員たちを押しのけながら歩み寄り、その肩に手を遣る。


「爺さんの身体はボロボロだ。見りゃ分かるだろ? コレ以上無理をさせるわけにはいかん」


「じゃ、じゃあ、キングポートで腕利きの船大工を雇ったほうが良いッスよ!」


 尚も食い下がるエドワードだったが、己を射抜くようなヘンリーの眼光に脂汗が滲みだす。

 顔は笑っている。しかし目が笑っていない。

 こういうときのヘンリーが最も恐ろしいのだと、彼をよく知る者たちは無意識にその場から一歩退いた。

 ヘンリーは二、三度エドワードの肩を叩いたかとおもいきや、突然その胸ぐらを掴みあげてマストに押し付ける。


「手前は天下一の船大工の弟子だろうが! この俺のかわいい船を手前ごときに面倒みさせてやろうって言ってんだ! やれと言われたら黙ってやれ! いいか、これは船長命令だ! 今日から手前がうちの大工だ! わかったな!」


 エドワードは口から泡を吹きながら何度も頷いた。

 目を回し、甲板に倒れこんだエドワードに、更に恐ろしい展開が待ち受ける。


「こいつを医務室に運んでやれ! ジブが気付け薬を試してくれるだろうよ」


「はっ! そ、それだけは勘弁ッスよ!」


 ジブと聞いて飛び起きたエドワードは、観念したのか、両手を甲板につけて項垂れる。


「……やります。おやっさんから教わったこと、無駄にしたくないから……」


「それでいい。俺の船に、荒波から逃げ出すような奴はいないはずだ。俺の決定に文句があるやつは名乗り出ろ! 遠慮はいらんぞ!」


 文句などあろうはずがない。

 皆が押し黙る中、甲板長の黒豹が口笛と共に拍手を鳴らした。

 更にウィンドラス、ハリヤード、そしてタックが続き、連鎖するように拍手が船を包む。

 それは去りゆく老船乗りへの手向けであり、新たな船大工の門出を祝福する音色だった。

 先輩水夫たちも若き大工を一人前に育て上げるために協力を惜しまず、ちょっとした不具合や部品の欠損なども事細かくエドワードに報告し、あるいは修理をするように指示する。

 尤も、慌てふためきながら道具箱を片手に駆けまわる新人の姿が面白くてやっている悪戯好きが大半であったのだが。

 それでも、己の技術を最大限に発揮して、潮風と波しぶきによって痛む船体を保持しようと努力する意気込みは、誰も馬鹿になどしていなかった。


 食事のときも、他の幹部と同じく、役職持ちということで船長室で食べることを許された。

 恐る恐る席についたエドワードの背後では、厨房から運ばれてきた料理を盛りつけて順番に給仕するタックがおり、申し訳無さやら、緊張やらで、エドワードは何度も頭を下げて恐縮していた。


「キングポートで爺さんを下ろしたあとは、当分はエドワードを黒豹に預ける」


「わかったよ。ビシバシ扱いてやるからね! 覚悟しときな!」


「は、はい!」


 背を豪快に叩かれてむせ返りそうになりながらも、ナイフとフォークだけは手放さなかった。


「何か必要なものや、不足している物資、道具などがあれば、目録にまとめて私に提出するように。港で道具を購入した際も、必ず報告をするようにお願いしておくよ?」


 ウィンドラスの言葉に頷き、キャベツの酢漬けを口に運ぶ。

 壊血病対策のため仕方がないとしても、エドワードには少々不興だった。

 点検のために食料庫に入ったが、大樽一杯に詰め込まれているのを見るとげんなりしてしまう。

 が、長い航海が続き、食糧が乏しくなっていくことを思えば、諦めて食べるしかなかった。

 何ヶ月も肉や野菜を新鮮なまま保存できる魔法の箱でもあれば、どんなにいいことか。

 世界中の優秀な大工をかき集めても無理だろう。

 と、自分の頭に浮かんだ考えを一笑に付し、レモンの皮をナイフで剥いて齧りついた。


 食事の後、一時間ほど部屋で仮眠した後に、今度はマストの点検のために縄梯子シュラウドを登る。

 両手足でしっかりと身体を支え、左右に揺れ動く船に振り落とされないように気をつけながら、索具や帆の状態を確認していく。

 特に天辺てっぺんまで上がると、丸みを帯びた水平線と、陽光を反射して宝石のように輝く水面の美しさに心を奪われそうになる。

 港のドックで船を造り、直す仕事も好きだったが、こうして実際に海に出ると格別だ。

 グレイ・フェンリル号は彼が整備してきた中でも特に美しく、良い船だと思った。


 物心ついたときから海を見て育ち、巨大な帆船に憧れて大工の道を志した。

 当時はキールも都で大工の頭をやっていたので、何とか頼み込んで弟子入りし、彼のことを第二の親父と慕って修行に励んだ。

 しかしキールはキングポートに赴いた際にヘンリーの船に乗ることとなり、残された弟子たちは彼の無事を祈って仕事に専念するよりほかはなく、一人、また一人と造船所から去ってしまった。

 いつまで経っても戻ってこないキールを罵倒する同僚もいた。

 そのときはカッと頭に血が昇って引き金を引いてしまったが、間違ったことはしていないと信じている。

 やがて人手不足になったために会社は倒産してしまい、それでも船から離れたくなかったエドワードは、漁船などの小舟を修理することで稼ぎを続けていた。

 そこへきて、キールから直々に同じ船に乗る誘いがあったときは、飛び上がるほどに喜ばしく、そして自分の腕を磨く好機だと心を燃やした。

 幸運にも女帝に顔と名前も覚えてもらった。

 商船への襲撃や戦いは腰が抜けるほどに恐ろしかったが、こうして無事に生きている。

 じきに血に濡れた修羅場にも慣れていくだろう。

 なにせこの手で既に一人殺っているのだから。


 先日の臼砲艦との戦いでは、ピストルを数丁撃ちまくり、カットラスを振り回して敵から逃げ惑った。

 我ながら戦いには向いていないと溜息が漏れるが、航海士のウィンドラスのように、私掠船乗りでありながら穏やかな平和主義を唱える彼も、その技術によって尊敬を集めている。

 船大工の自分も、ああいう風になれるだろうか……と、彼は広い海を前に、自らの小ささを痛感した。


「おーい! エドワードよぉい! 食堂の椅子を直しちゃくれねぇか!」


「はーい! 今行きまッス! なんだかんだ考えても、まずは仕事っと……」


 滑るように縄梯子シュラウドを降りたエドワードは、そのまま食堂に向けて走り、船内へ引っ込んだ。



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