第二話 辺津鏡
辺津鏡
「泥の洗礼」から数日。
賑羽屋 凪は、ミナト地区の一角に設営された仮設オフィスで、手元のスマートフォンを凝視していた。
画面の中に映っているのは、泥の撥ねた白いツイードを纏い、力強く前を見据える自分自身の写真。
「天野、この投稿のエンゲージメントはどうなっているかしら?」
「好調です、お嬢様。……『泥をも恐れぬ高潔なリーダー』。SNS上では、先日の失態は完璧に……ブランディングの材料へと書き換えられました」
傍らに立つ天野は、事務的な口調でデータを読み上げる。
凪は満足げに、画面の中の自分……美しく加工され、光を当てられた……自画像をなぞった。
彼女にとって、この液晶画面こそが現代の『辺津鏡』だった。
至近距離で自分を映し、理想の姿へと整えるための聖なる鏡だ。
「地上の汚れも、光の加減ひとつで……私の勲章に変わるのね。やはり、世界は見せ方次第なのよ」
凪は、確信を持ってオフィスを出た。
今日は復興支援のパフォーマンスとして、地元の商店街を訪れる予定だ。
もちろん、撮影スタッフと天野を引き連れて……。
ミナト地区の古びた商店街。
そこでは、長州 寧々と登美が、泥にまみれた長靴を履いて排水作業の続きをせっせと行っていた。
「凛、あのお嬢様……またえらい派手な行列引き連れてやってきたで」
登美がスコップを肩に担ぎ、眉をひそめて指差す。
そこには、完璧なメイクを施し、住民に寄り添うような角度で、カメラに収まる凪の姿があった。
凪は、避難所となっている集会所の前で、住民から手渡されたお茶を飲むシーンを撮影している。
だが、彼女の視線は住民の顔ではなく、常にレンズの向こう側……つまり、世界が自分をどう見ているかという一点に注がれている。
「……凪さん、相変わらずお綺麗ですなぁ」
背後から響いた冷ややかな声に、凪の肩が跳ねた。
振り返ると、そこには作業用エプロンをつけた寧々が、泥のついたタオルで手を拭きながら立っていた。
「あら、寧々さん。ご苦労様。あなたもそんな泥仕事ばかりしていないで、少しは『見せ方』を考えたらどうかしら? 土地の価値を上げるには、イメージが重要なのよ」
凪は自慢のスマートフォンを向け、寧々の姿を映し出した。
高性能なレンズは、寧々の顔の泥汚れまで鮮明に捉える。
だが、寧々は動じない。
それどころか、凪の持つスマートフォンの画面を、細い指でそっと遮った。
「見せ方、ですか。……凪さん、あんた。その小さな鏡の中に、自分を閉じ込めて、満足してはるんですか?」
寧々の金色の瞳が、至近距離で凪を射抜く。
「……何が言いたいの?」
「その鏡に映ってるんは、あんたが作った『偽物』やん。……よう見てみてください。あんたの目の前で、このおばあちゃんがどんな顔してあんたにお茶出したか、鏡越しやと見えへんかったでしょう」
寧々が指し示した先には、凪にお茶を渡した老女が、困惑したように立ち尽くしていた。
凪がカメラの角度を気にするあまり、彼女の感謝の言葉を遮っていたのだ。
「あんたが愛してるんは自分自身やない。自分を映してる『鏡』や……。そんな至近距離で、嘘ばかり見てたら、いつか自分の本当の顔を忘れてしまうで」
その瞬間、凪のスマホの画面が不自然に明滅し、再び暗転した。
真っ暗になった画面。
そこに映し出されたのは、最新のフィルターで加工された……輝くリーダーではなく、強張った表情で、必死に自分の空虚さを隠そうとしている一人の若い女の顔だった。
「そうそう、それが……あんたの本当の顔ちゃうの?」
寧々の静かな声が、凪の胸に深く突き刺さる。
天野が慌てて割って入ろうとしたが、登美がそれをスコップ一本で簡単に制する。
「……っ、天野、もういいわ。行きましょう」
凪は逃げるようにその場を去った。
だが、手に持ったスマートフォンは、重い鉛のように感じられた。
遠くを映す『沖津鏡』で道を見失い、近くを映す『辺津鏡』で自分を偽る。
賑羽屋 凪の理想の場所は、またしても、この凛とした地上の狼によって暴かれてしまった。
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【神宝メモ 02:辺津鏡】
「近くを映す鏡」は、己の在り方を問う。
●本来の伝承:
十種神宝の一つ。波打ち際(辺津)に立つ自分を映し、心身の乱れを整える道具。沖津鏡が「遠くの客観」なら、辺津鏡は「近くの主観」を司る。
●現代的解釈:自己愛と虚栄心
現代における「辺津鏡」は、SNSのプロフィールや自撮り、あるいは「他人からどう見られているか」という自意識そのものです。
凪は自分を美しく演出することで自信を保とうとしましたが、それは「実像」ではなく「虚像」への執着でした。鏡のレンズを向けた先には、自分しか映っていなかったのです。
●寧々(ねね)からのアドバイス:
「自撮りの角度を気にする前に、自分の足がちゃんと地に着いてるか確かめや。鏡を磨くんやなくて、心を磨くんやで。……あんたの本当の笑顔は、その画面の中にはあらへんのとちゃうか」




