流浪の狼人
夕刻。汚れたレンガ色の街並みが、徐々に薄闇に覆われていく。肉屋の大男が不愛想な顔つきで周囲の閉じられた売店を見回していたが、やがて、自らも店じまいの準備を始めた。
僅かに朱色の残滓の残る薄暗い街道を歩む人影が、残り物の肉を片付けている大男に視線を向ける。大男はその人影をおもむろに見やったが、単なる冷やかしをあしらうかのように鼻を鳴らすと、そそくさと店の中へ姿を消した。
その者は野獣の瞳を有していた。狐か狼を思わせる耳を生やし、前身が厚い獣毛に覆われている。それらが狼人と呼称される獣人の特徴であるのは、誰の眼にも明らかだった。
逞しい肉体は、人間の剣闘士などよりも発達した筋肉を備えている。それでいて、彼には優れた俊敏性があり、もし喧嘩ごとにでもなれば並の人間が数人束になったところで歯がたつ相手ではないだろう。
街の住人の多くがそれを理解しているからこそ、ある種の色眼鏡で以て遠巻きに眺めるだけで、余所者の獣人と関わる事を嫌っていた。
狼人は、寂れた街の合間を進んでいく。街道に面する窓の多くに光はなく、他者への拒絶の闇が覗いているだけだった。
……いや、前方の十字路の向こうから、何やら人々の騒ぎ声が聞こえてくる。狼人は立ち止まり、耳を澄ました。人間よりも優れた聴覚が、この街の夜の活気の実態を聴き取る。
ふと、狼人は口元を僅かに歪ませた。それは人間の感性であってもわかる仕草であり、狼人は微笑を浮かべているのである。
この街の一角では、夜の闇の中でこそ、明かりの活気がもたらされる。大都市の規模とは比べるべくもないが、そこでは住民の欲望の拠り所として機能する歓楽街が広がっているのである。
夜間に適した視力を持つ狼人にとって、朝日よりも明るいランプの光量は少々眩しいくらいであったが、彼は目を細めながらも興味深げといった様子で歓楽街へ足を踏み入れる。黄金色に彩られた街並みは、この新たな余所者をすんなりと迎え入れた。
幾つもの酒場や、秘められた商売ごとを営む施設が立ち並んでいる。狼人は、酒に酔った勢いに身を任せる男を誘い込む妖艶な囁きを聴き取り、口元に微かな笑みを形作った。
だが、狼人の一番の興味は別の所にある。彼は酒場と隣接する建物の朱色の暖簾をくぐった。
内部では、夜の街に生きがいや逃げ場を見出す人々の喧騒が渦巻いている。広い床の上には十数人で取り囲める卓が並べられており、煌々とした炎の明かりに照らされた装飾がぎらぎらと輝いていた。
卓の上では幾つもの数字が羅列している台座が置かれており、その上で狂ったように周る運命の歯車に、賭博に打ち込む者たちの執念が集中している。
不意に、それまで刹那的快楽に興じていた者たちが、新たな侵入者へ視線を向けた。ある者は、付け入る隙を見出せる得物を探す狡猾な目で。またある者は、消沈した意欲を紛らわせる新たな犠牲者を求める暗い瞳で。
誰もが相手は狼の如き体毛を生やした獣人である事実に気が付くと、一瞬、場の空気が揺らいだ。だが、恐れや敵意よりも、ある種の好奇の感情がより強かったらしい。
「よお。狼野郎のお出ましかい」
狼人に第一声を浴びせたのは、やたら図体のでかい男。眉間からスキンヘッドの頭皮にまで続いている傷跡が、その大男がまっとうな商売で稼いでいないならず者の類である事を物語っている。
狼人は大男に対してちらりと横目で見やったのみで、それ以上の興味を示すこともなく、黙ったまま店の奥へと踏み入っていく。狼人の背後で、大男の露骨な舌打ちが響いた。
客の前でガラスのコップに酒を注いでいた店員と思しき女が狼人と目が合い、一瞬、その華奢な身体を硬直させた。すくみ上るようにして、露出している両肩を強張らせている。
女は酒を注ぎ終えると、狼人から距離を取ろうとしているかのように、慌てた様子で他の客の方へ足早に立ち去っていった。
その様子を見送っていた狼人の表情は楽し気だ。自らを相応に恐れる者の動揺を喜んでいる、幾分幼稚な優越感が狼人にはあるらしい。
女の接待を早急に終わらされ、酒を手にした男は不服の感情を曝け出している。彼は狼人を苛立ちの目で見るが、喧嘩ごとになれば到底勝ち目のない相手に対して、黙したまま憤りを堪えていた。
頭上に照らされたランプの下で、三人の男が卓につくことなく、輪になって状態で床に座っている。男たちはそれぞれが一個ずつの三面ダイスを手にし、同時に転がした。
出目は二と三が二つ、三つ目のダイスは一と三だった。
「はは、貰った」
長身のザンバラ髪の男がそう言うと、勝ち星を愉しむ表情でくくくっと含み笑いをする。
「また、ガハンの一人勝ちかよ」
猫背の小柄な男が不満を露わにしている。
「へへ、悪いな。女神さまはこのおれにゾッコンらしいぜ」
ガハンと呼ばれたザンバラ髪の男は、自らの運命に味方する女神の加護を得意そうに自慢すると、取り分である銀貨を己の傍の方へとかき集めていく。
「……ヘビの目か。面白そうだな」
三人の男がはっとなって、顔を上げる。この街に来て、初めて言葉を口にした狼人の不敵な笑みが、そこにあった。
「どうだ? おれも混ぜてくれないか?」
狼人の問いかけに、返答に窮した三人はお互いの顔を見合わせる。
やがて、先ほどガハンへの不平をもらしていた猫背の男が、狼人へ侮蔑のこもった視線を向けながら、言う。
「獣風情が。……金目のものは持っているんだろうな?」
「ああ」
狼人はぶっきらぼうに答えると、腰に結び付けていた革袋を取り出すと、中身を床の上にぶちまけた。
「な……はあっ?」
猫背の男とガハンと呼ばれたザンバラ髪が、揃って驚きの声を挙げる。店の明かりを反射して爛々と輝いている金貨の山。三、四十枚ほどはあるだろう。
「どうだ? そちらに釣り合うものがあるなら、これを掛け金にさせてもらう」
二人は戸惑いながらも、物欲しそうな視線を金貨に向けている。
何故、狼人がこれほどの大金を手にしているのか……二人には見当もつかなかったが、もしも女神の一時の気まぐれで手にした金であれば、愚かな獣の手から己の手へ転がり込むことも容易く実現するかもしれない。そういった感情が、二人の男の思考を埋め尽くしていた。
「……いいんじゃないか? 流れ者のオオカミ男にどんな女神さまがついているのか、見定めるには良い機会だ」
そう口にしたのは、それまで黙っていた第三の男。他の二人と比べて整えられた黒髪と、冷静な面持ちは、彼がこの三人の中で最も掴みどころのない相手であることを、狼人に思わせた。
「幸か不幸か、おれはもう負け越しちまって、賭ける金が残っていない。だが、こいつを加えれば、ちょうど三人揃う。お前らは、まだ自分についている女神からの寵愛を試したくてたまらないんだろう。……なあ」
その提案に、二人の男は逡巡するも、やがて同意する。勝ち越している一人は、勝利の波に乗じて祝福の航海をやり遂げる意思を固め、もう一人は、内なる信仰心による逆転を期待して。
「じっくり、観察させて貰おうか。狼人さんよ」
そういう男の瞳の中で、黄褐色の火種が揺らめいているのを、狼人は見逃さなかった。




