母への憧憬
朦朧とした意識は、それまで忘却の彼方に押しやっていた光景を探るようにして蠢きながら、過去へと逆行していく。
故郷を捨て、遠い異国で傭兵として自分を売り込む決心を固めた時。親しげな眼差しでこちらを見ながら会釈する、自分が生まれ育った故郷の農民の姿。ダイクを尊敬する若輩の者たち……。
ダイクの意識はそれらの記憶を掻き分け、ある目的地を目指して過去を遡っていった。
やがて、幼い日の記憶に辿り着いた。爬虫類人が地位を築いたある国。その国で、由緒ある騎士の家系に生まれたダイク。浮かび上がった記憶は、名門の出に相応しい者になるよう教育を受ける己の幼少期であった。
卓の前に並べられた椅子に、同輩の者たちが腰をかけている。忘却していた理由を無意識ながらに感じ取り、ダイクはそれ以上遡ることを逡巡した。人間の教師が何かを急かすように、ダイクに向かって、言葉を送った。不明瞭なものであり、言葉の内容は聞き取れなかったが、ダイクは自分の迷いを咎められている気がした。
「誰かが呼んでいる……。ぼくは……呼ばれている」
ダイクはそう自分に言い聞かせると、その場をあとにし、幾つもの断片が混在する幼少時の記憶を押し分け、ある屋敷の庭園を訪れた。
木漏れ日が揺れ、小鳥の囀りが聞こえてくる。庭木はよく手入れがされており、規則正しく並んでいた。庭木の連なる先には一軒の東屋が建てられており、セピア色の屋根全体に白色の日が差している。
大理石で造られた壁面は日の光を反射し、昼間の情景の中で一際白く輝いて見えた。角の柱が視界の正面に映り、ダイクは恐る恐るその先の光景へ視線を移していく。
やがて、台の上に腰を下ろし、遠くの野山へ向けて首を傾けている、爬虫類人の貴婦人の姿が目に焼きついた。
「母さん……」
少年となったダイクは呟くと、母のもとへ小走りに駆けていった。恐れ知らずな少年の行動を制止する、成人であるダイクの声が脳裏に響いたが、先走る少年の意思の前には無力であった。
少年のダイクが母の側に駆け寄ると、母は小さく喉を鳴らし、ゆっくりと首を曲げてそちらを向いた。
母の眼には、歳を感じさせる微かな白色の濁りが混じっていたが、それでもなお美しい藍色の瞳は、爬虫類人たちの羨望の的となるには十分なものであったに違いない。その宝石のような瞳が、我が子を純粋に慈しむ想いで以てダイクに向けられたことで、ダイクは内心得意になっている自分を認識していた。
母の口が開き、言葉を紡いだ。ダイクの意識は先ほどの人間の教師の声を聴いた時と同様に、具体的な内容を認識することはかなわなかった。だが、少年のダイクは嬉しそうに飛び跳ね、はしゃいだ。
母が腕を伸ばし、少年の身体を抱き上げようとした。それに対する反発であるのか、成人のダイクの意志がその場を急いで逃れようと、母に吸い寄せられていく少年を引き留めた。
だが、間に合わなかった。
ひゅんと何かが空を切る音が聴覚に伝わり、鈍い音がした。一瞬、少年は何が起こったのか分からなかった。
見ると、母の絹の服に覆われた胸に、細長い鋼の棒が突きたっていた。母は声も上げずにその場へ倒れ込んだ。
冷たい石の床に横たわっている母親の姿を目の当たりにして、少年は呆然と立ち尽くしていた。周囲で喧騒が起こり、次いで怒号と共に武装した爬虫類人の兵士たちが、庭園を駆け回る。その騒ぎの中で、少年は我を取り戻した。
「母さん!」
ダイクが母親の身体を揺すり、何度も叫んだ。母の眼は重く閉じられており、むき出しになっている牙の間からは、血が流れ出ていた。
成人したダイクの意識が、少年のダイクのものとダブる。
母さんを救いたい。そのためならば、己の命を捨てても構わない。ダイクの二つの意志が、同時に強く願った。
ダイクの意志が届いたのか、母の眼がゆっくりと開かれ、綺麗な瞳が顕わになった。
「母さん……」
母を呼ぶダイク。それに応えようとしたのか、母の口が言葉を紡ごうと動き出した瞬間、周囲の景色が急速に逆行していき、幼い頃の記憶の世界が崩れ出した。
少年のダイクは懸命になって過去へ踏みとどまろうとし、先ほどまでここにくることを躊躇っていた成人のダイクの意志もまた、少年の意識と共に、眼前の母親を脳裡に焼きつけようとした。それでも、この崩壊を止めることはかなわない。
やがて、母の口がはっきりとした言葉を紡いだ。
「戻ってきなさい、ダイク」




