5.微妙に馴れ合う日々
「………」
たったったったった。がちゃばたーん。
「おにーちゃんおはよー!ごはんだよー」
「………ん…zz」
「おにーちゃーん!おーきーてー」
「………」
「んもー……えいっ」
ばすーん。
「ぐぐっ………んう………なじゃ…おはよう」
「おはよー!ごはん出来てるよー」
「…うん……くるしい…どいて…」
達人が目を覚ましてから一月ほど経った。今ではすっかり恒例となっている朝の光景である。
元々彼は朝は弱いほうではない。日の出前には自然に目を覚ます生活習慣が身についている。しかし最近は、昼間二人に教えてもらっているこの世界の言葉の復習を夜遅くまで一人でしているせいか、どうにも朝食の時間に起きることが出来ずにいた。そしてすっかり達人に懐いたナジャが目覚まし代わりとなっていた。
言葉は簡単な会話ならば何とかこなせるぐらいには上達していた。しかしサーラから借りた本は日本語に特化しているものではなかったのでそれだけで何とかなるものではなく、単語はナジャの絵本などを参考に少しずつ覚えていた。また、文法に関しては借りた本にあった例文や絵本を参考にしているのだが、こちらは応用させることが多過ぎてまだまだ当分かかりそうであった。
「大地の恵みを分け与えてくださる精霊に感謝を」
「感謝をー」
この世界での一般的な食事時の祈りをサーラとナジャが交わす。どうもこのお祈りがまだしっくり来ない達人は、地球でしていたように無言で手を合わせる。その動作も最初に二人の前でしたときは不思議がられたものだったが、いつの間にか何故かナジャも祈りの言葉の後に真似をして手を合わせるようになっていた。
それにしても彼にとってある意味言葉以上に厄介だったのは食事であった。好き嫌いがあるわけではないのだが、とにかくどんな料理も味が薄い。素材は悪くないはず、というよりむしろ食材自体の味わいはとても深みのあるものばかりである。もし、健康食品にハマり当然のように自然食にもハマった達人の祖母がこの食事を口にすれば、これこそ理想の食卓だわとさぞ喜ぶであろうに違いない。が、現代日本の多種多様な濃い味付けの中で育った彼にとっては、すぐに飽きが来てしまうものであった。しかし今の達人は居候のようなもの、タダめしを頂いている身分である。美味しくはないもののその有難い食事にケチをつけるほど厚顔無恥ではない。かといって美味しい表情を無理矢理作れるほど演技派でもない達人にサーラは気付いていたのであろうか、食事の度に微妙な表情で口をもごもごさせている彼に理由を説明してくれた。
「味付け、物足りないのかしら?」
「いえ…おいしい、です」
「んー、無理しなくて良いのよ」
「……はい」
「だって私もそう思うもの。この世界でも、私の生まれた国ではもっと濃い味付けの物を食べていたわ。でもこのガストンでは中々調味料が手に入りにくいの。特に、果物以外の甘味はとても高値がついていてね……元々ガストンは食料自体が不足しがちだから、あまり食欲をそそるような味付けは避けられているのよ。わざとね。そうすれば食料の消費も抑えられるし。特に甘いものは癖になるから……。結局味が無くてもお腹がすけばそれを食べるしかないでしょう。みんないつの間にかそうやって慣れていくのよ…」
身ぶりを交えてサーラはゆっくりと語ってくれる。それでもサーラの言ったこと全てを理解出来るほど達人はまだ言葉を覚えてはいない。しかし理解出来る範囲でもこのガストンという地域の現状を窺い知る事は出来た。
少ししんみりした空気がサーラと達人の間を漂う。が、それはナジャの乱入によってすぐに掻き消されてしまった。
「えっ!甘いもの!?お菓子あるの?」
食べることに夢中で達人とサーラの会話など上の空だったナジャが、甘いものという言葉に突然反応したのだ。
「…ナジャ…残念でした。今日はお菓子の日じゃないわよ」
「うー、ちがうの?でも、でもー……おにーちゃん食べたそうだよ?」
達人がまだあまりうまく話せないのをいいことに、最近こうして彼をダシに使うことを覚えたナジャ。突然振られた達人は何だかよくわかっていないのだが、ナジャが「ねー」と微笑みかけてきたのでとりあえず笑みを浮かべている。しかしそんなナジャの浅はかな知恵は勿論サーラに通用するはずも無く。
「またそうやってタツヒトを……甘いもの食べたいのはあなたでしょ、ナジャ?」
「むー…確かにわたし〝も〝食べたいけどー…」
「近々義兄様がいらっしゃる予定だからもう少し我慢ね」
「え!コッド伯父さん来るの?いつ?明日?あさって?」
「ニ、三日中にはいらっしゃる予定よ」
「わかったー、ならそれまで我慢するー!あのね、おにーちゃん、おいしーお菓子を持ってきてくれるおじさんがいるの、それでね…」
ナジャにとってコッドの来訪は、お土産のお菓子がメインであり、コッドはお菓子の付属品のようなものらしい。どれだけコッドの持ってくるお菓子が美味しいかを熱く語り出した愛娘と、相変わらず話の要領を掴めないでとりあえず笑顔を浮かべている達人に苦笑いしつつ、義兄様も浮かばれないわねーなどと心の内で同情するサーラであった。
食後の片づけをナジャと達人に任して、診察室で開院の準備をしながらサーラは独り言ちる。それにしてもと。
ナジャの達人への順応ぶりはサーラの予想を遥かに上回るものであった。まるで実の兄のように達人を慕っている。彼もそれに気付いているのであろうか。正直サーラと接するときよりもナジャと接するときの方が気を許している感じがする。
(あそこまでべったりだと何だか少し妬けるわね…最近はタツヒトの方も自然に接している感じがするし。)
それだけ打ち解けてきたのは良い事だと思いつつも、相手は未だ素性の知れない異界の民。根本は悪い人間ではなさそうだが、もう少し距離を置くようにさり気なくナジャに釘をさしておいた方が良いかもしれないとサーラは考える。彼女はいつの間にか準備する手が止まっているのに気付き、いけないいけない、と準備を再開した。
しかしナジャは達人が自分と似ているといっていたが、未だにサーラはその言葉の意味を掴みかねている。
(タツヒトはああ見えて純血種じゃないのかしら?でも人族の純血以外の異界の民なんて聞いたことないわ…)
そんなことを考えつつサーラは達人の容貌を頭に想い描く。角もなければ尻尾もない。体毛も濃いわけではないし鱗や紋様もない。黒目黒髪の人間は異界の民としては結構多い部類である。サーラの記憶だとあの宰相カトーも白髪交じりではあったが確かそうだった。この世界の人族においても、王国やガストンにはそれほどいないものの、アサン帝国や北方山地などには黒目や黒髪の部族も結構いる。細いながらも締まった体、腕に浮かぶ無数の古傷は地球の現代人から見ると、只者じゃないのかもと若干引いてしまうものであったが、荒事の多いこの世界ではサーラも含めて特に気にする者などいないものであった。
だから見た目は至って普通の人族と判断できる。サーラはやっぱり思い違いかと考えるのだが、しかし実のところ、その〝タツヒト混ざりもの説〝は強ち間違いとは言い切れない面もあった。
達人の実家は古武術の宗家である。その名は〝生野御仁流〝と言い、室町末期から伝わるといわれている由緒正しい流派であった。では何故ナジャが同じ空気を感じ取ったのか?それにはこの流派の謂れが関わってくる。流派の名の〝御仁〝は今日では〝ゴジン〝と読ませるのだが、江戸の初めまでは違う呼び方だったといわれている。〝オニ〝。即ち鬼の武術。生野御仁流の開祖は酒呑童子の血を引く者だと言い伝えられており、もしそうだとすれば直系の達人の体には人為らざる者の血が混ざっていることとなる。尤も当の本人は、古い武門には在りがちな後付の話だとして全く信用していないのだが。
勿論達人はそんな詳しい話を出来るほどの語学力を身に付けておらず、仮に話せるようになったとしてもよほどの信用がないと打ち明けない話である。よってサーラの疑問が解けるのはまだ暫くかかりそうであった。
「どう?おにーちゃん。字はだいたい覚えられた?」
一方こちらはナジャと達人。食後の片付けも終わり、ここからは達人は勉強の時間だ。サーラは今日は診察の日なので先生はナジャ一人だった。
「うん、字は、だいじょうぶ。全部、書ける」
達人はこの世界の文字の読み書きを既にマスターしていた。これだけ早い段階でモノにできたのには訳がある。この世界の文字が地球に存在していたとある文字に良く似ていたのだ。その文字はヲシテ文字といい、日本に伝わる文字の一つで、縄文時代から使われていたとも江戸時代に捏造された神代文字の一つとも言われているものだった。で、どうしてその文字を達人が知り得ていたかと言う事だが、彼の家に伝わる生野御仁流の武術書の多くが、ヲシテ文字を含む神代文字で書かれており、幼少の頃からそれらの文字の読み書きを習っていたからであった。但し、何故こっちの世界の文字がそのヲシテ文字に似ているのかは達人が知る訳も無い。
「すごいよおにーちゃん!わたしもっと時間かかった気がするなあ。エルフの字はまだ全部は書けないし…」
「えるふの字?」
「うん、一応半分エルフだから勉強してるんだけど…ほんとは別に書けても意味ないし…」
「意味、ない…なんで?」
「うん。私、エルフの人達好きじゃない……コッド伯父さん以外は会いたくないし…だから、字が書けるようになっても使う機会なんてないよ、多分」
あぁ、と、達人はナジャの胸の内を少し理解した気がした。混ざり物故の理不尽な差別。明確な混血と伝承の混血の差はあれど、それは達人の身にも覚えがあるものだった。
(やーい!鬼の子鬼の子ー!)
(どこに角隠してんだよー)
(虎のパンツはかないのかよー)
(わー!鬼がおこったー、食べられちゃうよー)
余りにもステレオタイプな台詞で囃し立てる子供達。そしてわかっていながらも止めようとしない大人達。両親も生野の家に生まれたからには通らざるをえない道だと静観していた。
そもそも鬼の血をひいているだなんて実際周りの大人達は誰も信じちゃいない。それでも怪しげな伝承に怪しげな古武術を駆使する一族は畏怖の対象となるには十分な要素であり、子供達は特有の感性で敏感に大人達のそれを感じ取っていた。
達人に対する揶揄は小学校まで続いた。しかしそれでも彼には味方となる同じ一門の年の近い連中がいて、彼ら彼女らと支えあいながら乗り越えていった。
だがナジャはどうだろう?この一月、ナジャが達人以外の誰かと遊んでいる姿を見たことがなかった。友達の話も僅かに一人、それも馬車で二日掛かる領都ガストンヴィルにいるということしか聞いたことがない。
(メルちゃんだったっけか…その子もハーフなのかな?何にせよちょっと嫌なこと思い出させちゃったかな…)
「うゅ?おにーちゃんどしたの?いきなり」
達人は、子供の頃幼馴染が愚図った時にしてやったようにナジャの頭を撫でながら、もっとちゃんと話せるようになったら自分の生い立ちの話でもしてあげようと考えた。
いくら生きていくために必要とはいえ、達人は一日中机に噛り付いて勉強するのは苦手であった。ナジャはとっくの昔に飽きが来ていて、大量の絵本を彼に押し付けて、今は彼のベッドに横になってすやすやと寝息を立てている。
「気分転換も必要だし…」
言い訳じみた独り言を呟きつつ彼は壁に立てかけてある木の棒を手に取って徐に素振りを始めた。
本来ならば部屋の中などではなく外のもっと広い場所でやりたいのだが、それは今の達人には望めないことであった。ある日いつもの如く教師役に飽きたナジャに外に連れ出されそうになったところを、珍しく慌てた表情のサーラに止められたことがあったのだ。詳しい理由は訊きそびれたのだが、人目につくのは今はまだまずいということであった。それ以来、特にサーラの診察時間中はなるべく部屋からは出ないようにしている。
ただただ風を切る音。服の擦れる音も足を擦る音もしない。この木の棒が、ナジャが拾ってきてくれたその辺に落ちていたものではなく、しっかりとした木刀であったなら風切り音もしないであろう生野御仁流秘伝の型。達人は無言で汗一つ掻かずそれを繰り返していく。サーラの話だと、此方から元の世界へ帰ることが出来たという事例は聞いた事がないらしい。もはや地球に帰れる望みが無い以上、家を継ぐことも叶わない。日課であったこういった鍛錬も行う必然性は無いのだがそれでも彼は型をなぞっていく。
この世界で目が覚めてから、一見淡々と日々を過ごしてきた達人であったが、実際の胸の内はもう地球に帰れないかもという落胆と、この右も左も分からない世界で生きていかなければならない不安がひどく渦巻いていた。
見ず知らずの自分を世話してくれるサーラやナジャはとても有難い存在であったが、何時までも甘えるわけにはいかないだろうし、人目につくのはまずいというサーラの言葉からしても、自分はあまり歓迎されない存在であろう事は想像がつく。そんな自分を世話してくれているサーラ達にも何か思惑があるのかもしれないが、どんな理由にせよ二人に危ない橋は渡ってもらいたくはない。かといって今の自分がそれを打破できる状況にいないのは理解できている。そんな考えが、少しでも気を緩めれば一気に湧き出して堂々巡りし始める状態、それが彼の、朝目が覚めてから夜眠りにつくまでの、実は張り詰めた日常であった。
しかしこの時間だけは、このただ素振りを繰り返す時間だけは彼は無心でいられる。ある意味彼にとっては後ろ向きの現実逃避の時間でもあり、サーラとナジャに不安渦巻く胸の内を悟られぬよう心を落ち着かせるのに必要な時間でもあった。
小一時間ほど続けていただろうか。そろそろ気持ちも落ち着き勉強を再開しようかと思い始めた頃合、いきなり家の玄関の扉を乱暴に開く音が家中に鳴り響いた。達人の知る限りこの一月、サーラの患者にも出入りの商人達にもそのような扉の開け方をする者はいなかった。彼は素振りを止め、木の棒は右手に握ったまま部屋の外の気配を窺った。
「せ、先生ー!」
「どうしたんです?そんなに慌てて。」
「森の、森の主様が…村の入り口に!」
「え!?なんで…〝お供え〝はまだ先のはずなのに?」
「それが…それが…主様がおっしゃるには〝祝福を還しに来た〝んだと」
「祝福?どういうことかしら?」
玄関での遣り取りが聞こえる。ふと気付くと扉の音で目を覚ましたのかナジャが不安げな顔をして達人の右腕にしがみ付いていた。
(ナジャが何かやらかしたのか…?それとも…)
達人は心に何か引っ掛かるものを感じつつも、落ち着かせるようにやさしくナジャの頭を撫で続けた。