2.サーラの回想は続く
空も白み始めているというのにサーラは未だ寝る気にはなれず、窓の外をぼんやりと眺めながらあのときのことを考え続けていた。
猿轡に仕込まれていた麻酔で眠らされていたサーラが意識を取り戻したのはどれくらい経ってからであろう。すでに辺りは明るくなっていた。
「クリフ…」
傍らに倒れている物言わぬクリフを見て、彼女は改めて何が起こったかを思い出した。しかし押し入ってきた者達の姿は無く、手足の拘束と猿轡は何故か解かれており、クリフに刺さっていたはずの矢も抜かれていた。
「…ナジャ!」
頭を垂れて壁に無言で寄りかかるナジャを見て、一瞬嫌な想像が過ったのだが、微かに胸部が上下するのを確認してとりあえず安心する。
まだあまり言うことを聞かない体を無理矢理起こし、一応クリフの脈を診ようとした。しかし既に温もりの失われている手は握り返してくることもなく、勿論鼓動を感じ取ることも出来なかった。
少しの間そうしてクリフの手を握り締め、涙で床を濡らしていたサーラであったが、クリフが身を挺して守ってくれたこの命を繋ぐ為にも悲しんでばかりはいられない。頭の中で状況を整理し始めた。
目的は物盗りか?部屋の中をざっと確認しても特に荒らされた形跡もない。そういえばサーラを確保したことを叫んでいるものがいた。ということは彼らの目的は彼女だったということか?
では彼らは何者か?それについては思い当たる節がある。彼らの服装はまだ公爵家にいた頃見かけたことのある王都直属の兵士のものだった。
では何故自分達が王都の兵士に狙われたのか?今の状況ではそれはわからない。そもそも確保されたはずの自分が何故か無事でここにいる。が、また襲ってくる可能性だってある。
ではどうすればいいのか?この家には居ないほうがいいと思う。もしサーラの確保が目的だとするなら、無関係な近所の人達にも迷惑は掛けられない。かといって王都の兵士が関わっている以上、憲兵に助けを求めるのも危ない予感がする。
ここまで考えるうちにサーラの中で次の行動は絞られてきていた。生家へと戻ることにするか、それとも夫の故郷のフロイの森へと行くか。そういえば裏手に繋いである馬達と馬車は無事だろうか?
頬に微かに残っていた涙を拭ったサーラは、よし、と小さく呟いて、必要な荷物を纏め始めるべく慌しく動き始めた。
日も高く昇った頃、未だ眠り続けるナジャと、クリフの亡骸を馬車に乗せ家を後にしたサーラは、近くの森で馬車を止めてナジャを起こした。
「ナジャ、起きて…」
「ん……かあさま…おはよう」
ナジャの意識がはっきりしてきたところで昨夜のことをどこまで覚えているか尋ねた。
「父様と母様いじめられた…」
サーラが眠らされた後の事はナジャもよくわからないらしい。隣に横たわる動かないクリフをじっと見つめるナジャにサーラは優しく言った。
「父様は私達を守る為にちょっと無理をしちゃったの…。それで森へ帰らなければいけなくなっちゃったの…。今から父様を森へお返しするからナジャもお手伝いしてね…」
「……母様だいじょうぶだよ。あたしお医者のむすめだしもう5才だから…。父様死んじゃったんだね…」
「ナジャ…」
ナジャは泣きながら笑っていた。
「父様におそわったの。死んじゃうことは悲しいことだけど、精霊さまと一緒に空の上におでかけするんだって。だからみんなで笑っておみおくりするんだよって。だからあたしも笑っておみおくりするの」
サーラはいつも自分達を優しい気持ちにしてくれたクリフの笑顔を思い出した。そしてナジャと同じように泣きながら笑った。
「そうね、父様の言う通りね…ありがと、ナジャ。さあ、父様をお見送りしましょう」
そして二人は森の中でクリフの亡骸を弔い、取り敢えずラージュ近郊の街へ向かった。馬車は目立つので、途中の馬宿で馬二頭を残して売り払うことにした。因みにナジャは3才の頃から両親に乗馬を習っていたので、問題無く馬を乗りこなせる。
「すみませーん」
ついでに情報を仕入れておこうと思い、気の良さそうな馬宿の主人に話を聞いてみる。
「お客さんはどちらまで?」
「ラージュの親類を訪ねようと思いまして」
「うーん…あそこは今はよしたほうがいいかもしれねえなあ」
「あら、何か不都合でもありますの?」
サーラはいかにも不安げな顔を作り主人に向けた。
「いや、噂なんだがね。ラージュとその周りの街は戒厳令が敷かれてるみたいでね。街への出入りは相当厳しいみたいですぜ」
自分達が襲われた事と関連があるんだろうとサーラは推察した。
「あらあら、それは困りましたわ…便りにはそんなこと書かれてませんでしたのに…」
「何でもここ二、三日の事らしいんでねえ。あんまり長引くとうちも商売上がったりだって、かかあと話してたとこなんですわ」
どうも今の状況でラージュに行くのは危険な選択のようだ。しかし留まるとしてもこういった馬宿は馴染みの客しか泊めない筈である。
「今更戻るのもねえ…」
そこでサーラは一計を案じ、ほとほと困り果てたという表情で隣に連れているナジャを見た。察したのかナジャは泣きそうな顔をする。流石は親子である。そんなやり取りがあったとは露知らず、人の良さそうな宿の主人は二人を見て、腕を組み少し考えてこう言った。
「何ならうちに暫く泊まって様子を見たらどうだい?ほんとは一見さんはお断りなんだがよう、困ってる美人さんをほっとくほど野暮じゃねえしよ。小汚えし大したもんも用意できねえけど、うちなら財布にも優しいし、雨露凌ぐには馬車よりはマシだろうよ」
この馬宿は街から離れた場所にあり、少しの間なら身を隠すことも出来そうである。サーラはここで暫く様子を伺うことにし、うまくいったという表情はおくびにも出さず、あくまでも遠慮がちに、ご厄介になります、と主人に頭を下げた。
サーラの元へ向かった諜報部兵からは何の音沙汰も無く、ラージュに置かれた仮本営に戻ってくることもなかった。
慌てたバーナードは更なる諜報部兵を送り込んだのだが、彼らから届いた報告は、屋敷は既に無人で、近隣住民への聞き込みでも数日前から姿を見かけないというものであった。しかし、ランドルフを何とか始末して、さらに一族も根絶やしにし、ラージュの街を手中にする心算のカトーはこの報告に納得せず、生死問わず草の根掻き分けてでも探し出すように命じた。
ところがここでカトーに大きな誤算が生じる。カトーの手引で裁判所が下したランドルフの死刑判決を国王が許さなかったのである。不敬罪による極刑に対して、先の反乱平定の功による恩赦を言い渡したのだ。昨今のカトーへの権力集中に対する牽制とも取れるこの勅命、様々な搦め手を使い覆そうとしたカトーであったが、彼への警戒感を持ち始めた国王には逆効果であり、ランドルフ一行は早々に釈放され、意味を成さなくなったサーラ捜索も打ち切られた。
しかし国王が手を打てたのもここまでであった。凍結されていたラージュ公爵家の所領と兵力は、表向きは国王直轄領として接収されたが、そのまま王国義勇軍を駐留させたカトーが実権を握ることとなる。それまで着々と固めてきた王宮内における勢力に加え、過程こそ己の意図とは違えど、結果ラージュという強力な地盤を手中に収めたカトーは、絶対君主体制という隠れ蓑の元、いよいよ我が者顔で国を動かし始める一歩を踏み出した。
一方ランドルフは爵位格下げの上、王国のお荷物と揶揄される荒廃の地ガストン辺境領へ一族諸共転封となった。更にそのガストンはアサン帝国との緩衝地帯とする為、王国領から切り離され強制的に独立させられてしまう。こうしてラージュ公爵家改めガストン伯爵家は帝国の脅威に怯えながらの苦しい領土支配を強いられることとなった。
サーラ達は結局ラージュへは向かわず、あれから一月程経った頃には王国の西の街マースに辿り着いていた。
あの馬宿には暫く滞在し、宿の主人夫婦や宿泊客の行商人から情報を色々仕入れていた。兄が捕らえられたと聞いたときはすぐにでも駆けつけたいと思ったが、自分が行ったところでどうしようもないことはわかっているのでじっと耐え忍んでいた。
その内ランドルフに対する恩赦、そしてガストン転封の話が伝わってきた。ラージュには王都の軍がそのまま駐留しているらしいので何をされるかわからない。とりあえずガストンへ向かう兄達にラージュを避けて途中で合流するのが良策だと判断し、ラージュからガストンへの途上の街マースへ先回りしたのである。
マースに留まること数日、ラージュ公爵家改めガストン伯爵家一行がマースに到着した。やって来たのは千名を超える大所帯。伯爵家一族のみならず、王国直属の仕官を拒んだ数百人の文官武官とその家族も一緒であった。一行が駐留している町外れの荒地に向かうと旧知の顔も数多く見受けられた。皆無事の再会を喜んでくれたが、これから先の過酷な現実がそれぞれの顔に一様に暗い影を落としていた。
そんな中ランドルフの妻ロゼッタはサーラの姿を認めると駆け寄って抱き締めてきた。
「良かった…。貴方達の家に誰もいないという話を聞いて、もしやとは思っていたんだけど…」
「義姉様…御心配お掛けして申し訳ありません」
「ううん…こうして会えたんだもの…いいのよ……ところで、クリスさんは?」
「あっ……夫は…王都の兵から私達を守って……」
目を伏せるサーラを見てロゼッタは察した。
「えっ……そうだったの……ごめんなさいね、辛いこと聞いてしまって…」
「いえ、もう大丈夫ですから。この子ももうわかってますし。」
人見知りするナジャは初めて会う人ばかりで、ずっとサーラの背にしがみついていた。
「その子は…」
「ええ、娘です。さあナジャ、義姉様にご挨拶なさい。」
おずおずとサーラの影から姿を見せたナジャは、ぺこりとお辞儀をして小さい声で挨拶を始めた。
「はじめまして。ナジャブル・フロイベルンです。5才です」
そう言うとナジャは顔だけ出してサーラの影にまた隠れてしまった。ロゼッタはしゃがんでナジャと目線を合わすと挨拶を返した。
「あらあら。はじめまして、ナジャちゃん。私はあなたのお母様の義姉のロゼッタ・クリスティナよ。よろしくね」
「よろしくおねがいします。おばさま」
まだまだ自分をおばさんと呼ばせることに抵抗がある年齢のロゼッタは一瞬複雑な表情になったが慌てて笑顔を作り直す。
「私にもあなたより少しお姉さんの娘がいるのよ。後で紹介するから仲良くしてね」
それを聞いたナジャは、頬を少し赤く染めながらこくりと頷いた。
「ところでお兄様は?」
一緒に居るはずであろう兄が一向に姿を見せないことに違和感を感じたサーラは尋ねた。
「えっ、ええ…。あの人なら馬車の中よ…」
ロゼッタはそれまでとは一変して表情を曇らせた。
五頭立ての大きな馬車の中に入ったサーラ達。そこには青白い顔をして横たわるランドルフの姿があった。
「お兄様…」
「……」
ランドルフはサーラの呼び掛けにも何の反応も示さない。手を取って握ってみる。少しだけ冷たいその手から脈は感じ取ることは出来たが握り返してくることはなかった。
「お兄様…一体…」
その時馬車の扉をノックする音がした。
「失礼します」
「どうぞ」
ロゼッタの返事で扉が開いた。
「サーラお嬢様、御無事で何よりです」
サーラが振り返ると居丈夫な男がそこにいた。
「ウィルフォード!」
ウィルフォードと呼ばれた男は馬車へ入ると左拳を胸に当て敬礼した。
ダネイ・ウィルフォード。王国海軍の要であるラージュ白鯨艦隊の副指令を務めていた男であり、表向きサーラ達に家を用意してくれた人物でもある。
「王国軍には残らなかったの?」
「『我ら白鯨は常に赤狼の旗の下に在り』…我々が忠誠を誓うのはクリスティナ家に対してであり、王国や宰相に対してでは御座いません。残念ながら艦は宰相軍に押さえられてしまいましたが主だった将兵は皆こちらに同行しております」
赤狼とはクリスティナ家ことガストン伯爵家の紋章である。
「私から言う言葉ではないかもしれないけれど…ありがとう」
「いえ、勿体無いお言葉です」
直立不動で目を潤ませるウィルフォード、単純だが義に厚い男である。
「ところでお兄様は一体…」
「拘留中に何かがあったようなのですが、誰もその場には居合わせておらず…。釈放されてからもずっとこのような状態でして。医師の見立てによると心を闇に侵されているとか」
「…闇?」
「はい。毒を受けたりはしていないようです。ランドルフ様に直接マジックシールドが掛けられているらしくはっきりしたことはわからないのですが…」
闇に侵される。北方山地の隠れ里に伝わる呪術にそういうものがあるとか、古の魔術にそのような幻覚を起こさせるものがあったとかいう話もあるが真偽の程は定かでない。しかし稀にこのような症状に陥る患者がいることをサーラは夫から聞いたことがあった。対処としては体力のあるうちはニケル草の気付薬で進度を抑えつつ、後は本人の精神力に頼る他ないという厄介な代物だと言っていた。しかも回復魔術は相性が悪く、闇の侵食を悪戯に速めてしまうだけだったはずだ。
「それにしてもマジックシールドがまだ有効だなんて…」
「はい。少しずつ弱まってはいるようなんですがかなり高位の術式のようでして…。うちの魔術師共では歯が立ちませんでした」
「そう…それでは私でもダメね。体力も落ちているようだから気付薬もあまり使えないし……」
兄の手を握り考え込むサーラ。ナジャはサーラの背中にしがみついたままだ。
「サーラ…」
「義姉様?」
「何で私達こんなことに……うぅ…」
ロゼッタは言葉を続けることが出来なかった。蒼い双眸からは大粒の涙が零れ落ちていた。