1.サーラは回想し始める
いつもより一品多い食事を終え、ナジャを先に寝かしたサーラは診察室で薬の調合の続きをしていたが何時の間にかその手は止まっていた。
サーラは思う。彼はついていると。
倒れていた地が人族に理解のある義兄の縄張りだった。もし他の顔役の縄張りだとしたら、問答無用でその場で処理されていたかもしれない。
行き倒れたのかそれともこの世界へ飛ばされたときの衝撃なのか、意識を失っていた為に命を奪われなかった。もし意識があり、たとえ意図せずとも抵抗するような素振りを見せれば、いくら義兄の下についている者達とはいえ躊躇わず矢を放ったであろう。
彼を引き取るのがサーラだった。もし彼が直接ガストン領主の元に送られて異界の民であることが判明したならば、二度と目覚めることなく闇へと葬られてしまったかもしれない。
でもサーラはこうも思う。
異界の民を闇へ葬り去ろうとするガストン領主の想いはわからないわけではないと。何故なら、サーラにとっても異界の民という存在は、夫の仇であり、兄の仇であり、不自由な土地で暮らさなければいけない原因でもあり、サーラの実家が没落し、このガストンというどうしようもない領地を治めていなければいけない原因でもあったから。
さて、ここから暫くはサーラの回想という形を借りて、サーラと周囲の少しばかり数奇なこれまでを振り返らせてもらいたい。サーラは本名をサーラメルジェ・フロイベルン・ラージュという。実は八年前まで存在したラージュ公爵クリスティナ家の息女である。
ラージュ公爵家は王国に於いて、王都を所領する王家に次ぐ勢力を誇った貴族であった。嘆きの海に面し海上貿易で栄える王国第二の都市ラージュとその周辺の王国南部一帯を所領していた。サーラの両親は、彼女が幼少の頃に流行り病の為相次いで亡くなっていたが、彼女の年の離れた兄であるランドルフが次代のラージュ公爵として勤めを果たしていた。
サーラはこうした環境の中、兄夫妻の庇護の元何不自由なく成長していったのだが、思春期を迎える頃一つの問題が持ち上がってくる。年頃になった彼女は世間一般の女子と同じように恋をするのだが、その相手に問題があった。元々ラージュ公爵家は自由を信条とする家柄ではあったのだが、サーラが恋をした相手はよりによってエルフ族の医師であった。
クリフという名の彼はエルフにしては変わり者で、医者としてエルフ族伝来の回復魔法だけでは飽き足らず、人族の医療技術を学ぶ為単身ラージュの街へ移り住み、エルフ語を理解出来る医師と出会い弟子入りした。そして言葉を覚え医術の研鑽を重ねる内に、エルフと人間の医療術を組み合わせた新しい技術と、エルフながら種族を気にしない診療態度が隠れた評判を呼んだ。開業する資金は無い為師匠の御付きのままではあったが、やがてラージュでも引く手数多の医者となっていった。
その評判は公爵家にも聞こえるところとなり、サーラの両親の治療に呼ばれる事となる。残念ながら二人の病状は手のつけられない所まで進んでおり助ける事は叶わなかったが、せめてもと末期の苦しみを和らげる処置をした事が認められたのか、公爵家の主治医の一人となりその後も公爵家へ度々出入りするようになっていた。
両親を早くに病で亡くしたこともあり、幼い頃から医師になって病気の人を治したいと夢見ていたサーラ。彼女にとって一番身近の憧れの人はクリフであり、憧れが恋慕の情に変わっていくのも自然なことであった。やがてクリフもサーラの一途さに当てられたのか、それとも強引さに押し負けたのかは解らないが、いつしか相思相愛となっていった。しかしいくら自由が信条のラージュ家とはいえ、貴族の息女が他種族と結婚するとなるとそう簡単に許される話ではない。王国と公爵家の威厳に関わると周囲からの圧力も掛かり始め、結局ランドルフは二人の結婚を認めることが出来なかった。しかし諦めないサーラは16才のときに実家を出奔してしまう。
サーラに押しかけてこられてしまった形のクリフは、師匠や周りに迷惑を掛けられないということもあり、公爵家主治医の任を退き、サーラを連れてラージュの町を離れることを決意した。
しかし、妹を不憫に思ったランドルフは、二人には臣下の軍副指令ウィルフォードが手を廻したということにして、所領内の片田舎に小さな屋敷兼診療所を用意させた。ところがいくら副指令とはいえ一介の軍人であるウィルフォードにそこまでの金銭的余裕や権限がある筈ないことを知っていたサーラは、裏で兄が手を廻してくれたことをすぐに看破してしまった。このことが王家や他の貴族に洩れ伝われば公爵家は立場を悪くするかもしれない。それでも他に当てのない二人は悩み話し合った末、表向きはウィルフォードに感謝し、内心では兄の温情に涙を流し、そこで慎ましく暮らし始めた。
一年後にはナジャが誕生し、三人が暮らせる程度の安定した収入も得られるようになった。このささやかな幸せが何時までも続くと思っていた。しかし今から八年前、全てを奪い取ってしまう事変が勃発する。
元々貴族領の寄せ集めである王国は、決して一枚岩ではなく王家を含めた権力闘争が絶え間なく続いていた。大陸一の強大国でガストン辺境領の西に位置するアサン帝国などの近隣国家との対外戦争が起これば取り敢えずの結束は見せるのだが、それも敵国の諜報活動などにより直ぐに崩れてしまい、結果敗戦を喫することも度々であった。
そのような情勢の中、王国の海上交易権の主だった部分を押さえ、大陸最強の海軍と謳われる白鯨艦隊を率いるラージュ公爵家は、王家に次ぐ発言力を持ちながらも、あからさまな権力闘争には参加せず、常に中庸を保つ事を家是としてきた。
ランドルフもまた、先祖より脈々と受け継がれてきたこの立ち位置を引き続き守り続けようとしていた。しかしまだまだ若い部類に入るこの公爵を他の貴族たちが放って置く筈が無い。彼らは調略、懐柔、恫喝、泣き落としというようなあらゆる術を用いてラージュ公爵家を何とか自勢力に引き込もうとしていた。そういった裏の駆け引きを学ぶ前に父を亡くしてしまい、周りを固める配下も流行り病の影響で経験不足の若者が多かったこともあってか、ランドルフに抗がう術はなく、徐々に己の立ち位置を見極められなくなっていった。
更にサーラの出奔から遡ること数年前、王国の権力構造に変化をもたらすある制度が導入された。宰相制である。
時の王ゲインリッヒ一世は、泥沼の権力闘争とそれに伴う政治の混乱を打開させる為に、当事者たる貴族ではない新たな勢力を作り調停者としての役割を担わせようとしたのだ。ゲインリッヒの施策は当初の思惑通りに推進されれば悪くないものであったが、自己の権益を侵されることを危惧した他貴族や、その子飼いの文武両勢力からの猛烈な反発が起こった。それにより、この立案は頓挫しかけた上に新たなる権力闘争の火種と為りかねない事態にまで至ったのだが、国王の強権と、貴族間の闘争に嫌気を指していた庶民寄りの官僚勢力の尽力により何とか日の目を見ることとなった。
ところが紆余曲折の上誕生した宰相は、ゲインリッヒが最初に声高に掲げていた理想とは懸け離れた存在であった。所詮ゲインリッヒもまた権力闘争の渦中の一端である。自身寄りの官僚を宰相に任命し、少しでも自勢力に有利になるように手心を加えてしまっていたのだ。
しかも話は更に拗れていく。その宰相に任命された人物がまた、唯の傀儡で終わるような人物ではなかった。彼の名はカトー・G・ワトソン。ゲインリッヒが推し進めていた異界人保護政策によって保護され、王都ラヤダーで官僚として働いていた異界の民である。
異界の民とは、原因は解明されていないがこの世界に異世界から飛ばされてきた者達のことである。突然出現する奇妙な格好をした彼らは、古においては悪魔の使いなどと称され、忌み嫌われ迫害されてきた。近年は彼らが押し並べて魔法適正が低いことがわかり、この世界では種族的に劣性との判断から、見つけ次第即排除ということは少なくなったが、それでも奴隷として使い潰されるか、最下層での生活を余儀なくされ、市民権が与えられることはなかった。ゲインリッヒが異界人保護に動いたのも人道的な理由などではない。異界の民がこの世界にて有用な数多の知識を有していることを偶然知り得て、それを独占利用したいが為であり、彼らに一般市民とまったく同じ権利が与えられているわけではなかった。
さて、表向きは国王の忠実な臣下として働いていたカトーであったが、頭が切れる上にこの地より遥かに文明の進んだ異界より飛ばされてきたのである。彼の故郷の世界の歴史を踏まえ、次々と新たな施策を立案し絶対君主体制への転換を図りつつ、一方裏では自身の権力基盤を着々と整えていった。
そしてカトーはその仕上げとするべく、現在王国ではラージュの乱と呼ばれている事変をでっち上げる。まず予め手を廻しておいて起こさせた小規模の反乱にランドルフを鎮定に向かわせる。そしてその間に王国儀礼典範の一部を改定してしまう。これまでの儀礼典範の中に、凱旋した将は謁見の間に於いて戦で使用した武具を忠誠の証として国王に捧げ、国王はそれを受け取り、褒賞の目録と共に改めて下賜するというものがあった。しかし、数日前にこれもカトーが配下の諜報部兵に起こさせた国王暗殺未遂事件に託けて、謁見の間へは如何なる武具も持ち込んではならないとし、凱旋の際にも捧げるのは武具ではなく礼のみと改定してしまったのだ。典範改定の閣議にはランドルフの代理の文官もいたのだが、哀れ彼はランドルフの元にも、ラージュの街にも辿り着くことなく消息を絶っていた。
そして運命の日、反乱を難なく抑えたランドルフは意気揚々と凱旋する。荒事はどちらかというと苦手な方であまり好まない彼ではあったが、最近の混乱した自身の周囲の状況もあり、この日ばかりは晴れやかな気分であった。謁見の間へと続く王宮の回廊を闊歩するランドルフ。儀礼典範の改正など露知らず、勿論その腰には家伝の剣が提げられている。謁見の間の入口に差し掛かる。扉の両脇を固める近衛兵はカトーの息がかかっており何も言わない。そして扉は開かれ、ランドルフとその配下達は其のまま謁見の間に足を踏み入れた。
「ラージュ公ご乱心ー!!」
謁見の間に響き渡る宰相の声。訳も解らないまま取り押さえられるランドルフ一行。条件反射で思わず腰の剣に手をかけてしまったランドルフ配下の将の一人は、扉の外の近衛兵が放った矢で射取られてしまった。
ランドルフ達はあっという間に引っ立てられて地下牢へと連行されていく。再び静寂に包まれる謁見の間。国王及び列席していた貴族たちは一様に青褪めた顔をしており、この茶番とも言うべきシナリオを理解してしまった何人かはただ一人冷静に無表情でいる宰相に対して畏怖を抱いていた。
ここからもカトーが打っていった手は素早かった。数日前の国王暗殺未遂事件も絡め、ランドルフに計画的謀反の疑い有りと上申した。すぐにラージュ公の所領及び兵力の凍結を公布し、予めラージュ領境に待機させていた王国義勇軍(実態は異界の民を中心に編成された宰相軍)をラージュへと進軍させ、ランドルフの手勢が反旗を翻す間も無く抑え込んでしまった。ランドルフ乱心の報が届くよりも王国義勇軍の進軍が速かった為、ラージュ領民たちはまさかランドルフが冤罪で捕縛されているなど知る由もなく、只々戒厳令に従い、有力者とその家族は蟄居させられた。
そんな中、ラージュ公爵家一族はラージュ領主館に集められ、ランドルフに対する沙汰が下るまで幽閉されることとなった。義勇軍の司令官バーナードはカトーから手渡されていた公爵家一族の一覧と集められた者達の照合を行ったが、唯一サーラの姿がないことに気がついた。問い質しても皆一様に数年前に出奔後行方不明としか答えない。カトーから一覧に掲載されている者は残らず集め幽閉しておく様にとの厳命を受けていたバーナードは、諜報部兵に探らせ程なくサーラの居場所を掴んだ。
バーナードの命を受けサーラ確保へと向かった数人の諜報部兵は、夜も更けた頃合を見計らってサーラ宅へ踏み込もうとした。ところが、思いがけず開いた扉から矢の洗礼を受ける。クリフは医者でしかも人里暮らしが長いとはいえ元々は森で暮らしていたエルフである。不穏な空気を一早く察知し迎え撃ったのだ。まさかの迎撃に諜報部兵たちは一瞬たじろいだが、直ぐに体勢を立て直し改めて一気に屋内に踏み込んだ。
クリフは攻撃魔法を使えなかった。父や兄達からは事あるごとに習得するように言われていたのだが、自分には性に合わないと言ってかわしていたのだった。争うことは好きではないし、狩りは弓矢があれば事足りていたからだ。しかし、こんな事なら覚えておくんだったなあなどと後悔しながら、突然の襲撃に怯えているサーラとナジャを後ろ手に庇い、対衝撃防御呪文と相手の動きを止めるための麻痺呪文を同時詠唱した。一方サーラに夫と子供がいて、しかもその夫がエルフとは聞かされていなかった諜報部兵達は、魔術の素養に乏しい異界の民だったこともあって呆気なく麻痺させられてしまった。
クリフは後ろの二人の無事を確認すると、動けなくなった男達に念の為の睡眠呪文を施した。しかし兵士と戦ったことのないクリフはともかく、一応兵法は学んだものの、今は怯えるナジャを宥める事に意識を持っていかれているサーラにも油断が生じていた。諜報部兵は迎撃されたことで二段構えの突入に切り替えていたのだ。
扉の外からクリフの背へ向け放たれる何本もの矢。対衝撃呪文は既に効力を無くしていた。それでもクリフは避けれるタイミングで背中に迫る矢に気付いていた。しかしあえて避けようとはしなかった。何故なら避ければ目の前に居る最愛の二人に矢が当たってしまうからだった。
「クリフッ!?」
短い呻き声を発して倒れたクリフにサーラは駆け寄ろうとするが、突入してきた諜報部兵に取り押さえられてしまった。彼女はクリフの背に刺さった矢を抜き回復呪文で応急処置させて欲しいと懇願する。しかし兵達は自分には素養の無い魔法を過度に警戒してしまっており、先に突入した兵が微動だもせずに倒れているのを殺されたと勘違いしているのか、サーラの懇願には聞く耳を持たず、
「サーラメルジェ様確保-!」
と叫びながら麻酔を効かせた猿轡を噛ませ、彼女の手足を縛り上げ始めた。
そんな中、さっきまで隅に蹲って怯えていた子供がこちらを虚ろな目で見ながら何か呟いているのに一人の兵が気付いた。
『父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ』
呟いている言葉は繰り返し何かを言っているようだが兵には理解出来なかった。そうだ、この子供も確保しなければならない。頭ではわかっているのだが何か得体の知れない気味悪さからか体は動いてくれなかった。
『父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ』
他の兵達も同じような状態に陥っているらしい。子供の呟き以外に音がしなくなったからだ。
『父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ』
やがて子供の体が淡い緑色の光を放ち始める。ここまできて兵達は動けない原因が怯えとか気味悪さからではなくこの子供だということを理解した。
『父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ』
足元から何かに絡み付かれているような感覚。何時の間にか部屋を覆い始めたあの子供の体と同じ色の光を放つ蔦のようなもの。どこか懐かしさを感じさせる緑の香りが鼻腔の奥を擽っている。
『父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ父様ヲイジメタ母様ヲイジメタ』
びっしりと蔦に包まれてしまった兵達の視界には既に緑色の光しか映っていない。子供の呟きも最早聞こえてこない。緑の香りも感じなくなっていた。
そして次々と途絶えていく彼らの意識。
どれ位の時が経ったのだろうか、蔦は消え失せ光も収まった部屋には諜報部兵の姿は一人も無く、物言わぬ骸と化したクリフ、蔦によるものか拘束は解かれたようだが麻酔で意識を失ったままのサーラ、そして壁にもたれ蹲って眠るナジャの姿が在るのみであった。