2.別れと再会
「若林さ~、最近ずっと小林さんと小説の貸し借りしてるよね?」
メグからそう言われたのは、夏休みまで残り1 週間を切った日曜日、県大会予選からの帰り道、他の部員がそれぞれの駅で降りてメグと二人きりになった直後だった。
「うん、小林さんが貸してくれる小説がおもしろくてさ、この間借りた本なんか、高校生5人組がそれぞれ・・・。」
メグは僕の説明を手でさえぎり、質問を続けた。
「小林さんと付き合ってるの?」
僕は、「そんなわけあるか!」と反射的にツッコミを入れながらも、メグの想定外の質問の意味をつかみかねていた。
「でも、特別な関係じゃなかったら、小説の貸し借りはしないでしょ?」
メグがたたみかけてきた。まだツッコミのタイミングではなかったようだ。ここでようやく僕の思考が追い付いてきた。
「いや、別に普通にするでしょ。あっ、ほらメグにもジャンプ貸したり、月刊陸上競技を借りたりしてるじゃん。」
「そうじゃなくてさ・・・。好きな小説を教えるってことは自分の好みとかの内面を見せることになるからさ・・・。それを貸し借りするって特別な関係でしょ・・・。しかも恋愛小説なんて・・・。」
僕にはそんな発想はまったくなかった。むしろメグがいつものヘンテコ理論で絡んで僕をからかってきてるのかなと感じ始めていた。じゃあ、からかい返してやれ、そんな軽い気持ちで思わず言ってしまった。
「あ~確かに恥ずかしいかも。じゃあ代わりにメグが小説の貸し借りしてくれる?」
メグはきっと『なんでわたしがあんたに内面をさらさなきゃいけないのよ?バカッ!』とか、『若林の内面なんか見たくないわよ!露出狂!』とかいつもの軽口で返してくるものだと思っていた。しかし、メグの答えはまったく予想外だった。
「うん、いいよ。でも、もう小林さんとの本の貸し借りはやめてね。」
またしても僕は絶句してしまった。この会話はどこに向かっているんだ?そういえばメグはさっきからまったく笑ってない。むしろ思い詰めた表情をしているような・・・。
「・・・・もういい加減、わたしの気持ちわかってるんでしょ?素直になるから、そんな意地悪しないでよ・・・。」
メグの一言でやっと気づいた。僕は告白されている。人生で初めて。
「若林は、昔からわたしに優しくしてくれて、自分よりわたしのことを考えて練習メニューを作ってくれるし、学校の成績が悪いのを心配して勉強も教えてくれるし・・・。」
僕の内心での驚きに気づかず、メグは着々と告白の口上を進めてくる。どうしよう。おそらくこの後、僕の返事を求められるだろう。僕はどうしたらいい?
正直、メグを女子として好きかと言われると、答えは明快だ。
『まったく考えたことがない』
これはメグに魅力がないという意味ではない。あまりに僕と次元が違い過ぎて、そんな発想にならなかったのだ。僕は陸上選手としては県大会レベル、もしかしたら今年は東海大会に出られるかもしれないといったところ。外見も普通の範疇を出ない。身長だってメグの方が高い。勝っているのはせいぜい学業成績くらいだが、それが何だと言うのだ。
そんなほぼすべてにおいて自分をはるかに超越している相手を真面目に恋愛対象として考えられる人なんているだろうか。
ただ、僕は別のことも考えていた。もしここで断ったらメグの態度が変わってしまう。メグの親友という配役も失ってしまうだろう。そうすると、もうクラスメートからの羨望の視線を浴びることもなくなるのか。
いや逆に、メグと付き合ったら周囲が僕を見る目はどうなるだろう。『あの山本メグの彼氏』、その新しい配役は、まだ14歳の僕にはあまりに魅力的だった。
「それで・・・どうかな・・・?」
メグが話し終わり、不安そうな目で僕を見て答えを促してくる。その時、僕の心はもう決まっていた。
「うん・・・。僕も前からメグが好きだった。付き合ってください。」
メグの目を見ながら僕が答えると、メグは「よかった~」と言いながら急にニコニコと笑顔になり、右手を差し出してきた。
「じゃあ、修治くん、これからよろしくね。」
僕はその手を握りながら思った。メグは美人だし、話も合う。きっと付き合っていくうちに好きになれるはずだ。だって情熱の躍進物語の主人公なんだよ。
翌日の休み時間、僕はすみれの席に近づき借りていた本を返した。
すみれも貸していた本を返してくれた。ただ、すみれが持ってきた本は受け取らなかった。
「もうすぐ夏休みだし、いったんここで区切りにしよっか。」と言ったら、すみれは目をそらしたまま黙ってうなずいてくれたので、僕は何も言わず、そのまま振り返って席に戻った。
席に戻る途中、メグがニッコリと笑いかけてきた。
すぐに夏休みが始まったので、そのまますみれに会うこともなくなった。
僕は受験勉強をしながら、メグの練習に付き合い試合の応援に行った。
メグが全国大会で優勝した時は、喜びのあまり競技場の階段裏でハグした。
夏休み最終日には練習帰りに近くの団地の裏で初めてキスをした。
夏休みの間、僕はずっとこんな感じで有頂天だったので、すみれのことはほとんど思い出さなかった。
唯一思い出したとすれば、今の自分は、前にすみれに貸してもらった恋愛小説の主人公のようだなと、おめでたいことを考えていた時だけだった。
夏休みが明けてからも、僕は自分からすみれに話しかけに行くことはしなかった。
なぜか、すみれも僕に話しかけなくなり、そのまま交流は途絶えた。
ただ、直接の交流はなくなったが、すみれはその後も引き続き僕の視界の端で鈍い光を放ちながら、モブや脇役にはとどまらない不思議な存在感を見せていた。
休み時間にもガリガリと問題集に取り組んでいる姿、お弁当の蓋を開けた瞬間、控えめににんまりとした表情、寝不足なのか授業中に必死で我慢しながら寝落ちしそうになっているほほえましい姿・・・。
当時の僕がすみれを意図的に見ていたことなどないはずなのに、記憶の中には今でも当時のすみれが登場するシーンが鮮明に残っている。他の同級生など顔もぼやけているのに。
中学を卒業し、僕は地元の公立高校に進んだ。メグは陸上の強豪校である私立高校に進学した。すみれの進学先については聞きもしなかった。
卒業式の日にも、すみれとの間には特に特筆すべきことはなかった。式典の最中に静かに涙を流していた姿を覚えているくらいだ。
ただ、中学の卒業式を終え、高校の教科書を入れるスペースを作るため部屋の本棚を整理している際に過ちに気づいた。すみれから最初に借りた狼王ロボがそこにあったのだ。
「返さないと!」とすぐに思ったが、僕はすみれの連絡先を知らない。中学のクラスメートに聞けば誰か知っているかもしれないが、そんなことをして何か誤解されるのも面倒だ。
「いつか、会う機会があったら返そう。」
半ば自分への言い訳としてそうつぶやいたが、この時の僕はそんな日が来るとはとても思えなかった。
ーー
すみれとの関係について、高校時代に特筆すべきことはない。そもそも顔を合わせたこともない。
また、僕個人についても、世間にありふれたような話しかない。
陸上強豪校で毎日厳しい練習を続けるメグとは生活がすれ違ってしまい、高校1年生の夏休み前にささいなケンカをきっかけに別れることになった。
その後、僕は真面目にごく普通の、それでいて相変わらず主人公の友人という恵まれたポジションで余裕をもった高校生活を送った。
1、2年生では陸上部の活動に力を入れ、高校2年生の終わりころから受験勉強を始め、同じ予備校で出会った他校の女子と交際を始め、成績優秀だった彼女が目指していた大学に一緒に通いたいと思い、猛勉強して日本で最難関の大学に合格し奇跡と称えられた。
ただ、肝心の彼女は落ちてしまい気まずくなって別れることになった。
なんとなくわかっていたが、グレーの光の彼女は悲劇の物語の主人公だったようだ。
★★
大学に入学した直後、いや正確には入学直前のオリエンテーション合宿で、僕はまた中学3年生の頃と同じ体験をした。目の端に、鈍い無色の光を放つ女子がやたらと入り込んでくるのだ。
ただ、僕にはそれが、すみれだとは確信が持てなかった。
眼鏡をコンタクトにしていたし髪も伸びてセミロングにするなど多少の容姿の変化は見られたが、その雰囲気は地味でオタクな中学生女子のころとあまり変わりなかった。そもそも無色の光なんてすみれ以外に見たことはない。
ただ、中学の同級生と地元から遠く離れた東京の大学で再会するなんてドラマみたいで非現実的だし、もし間違っていたら恥ずかしいと思い声をかけるのをためらった。
そのため、オリエンテーション合宿でも、授業が始まっても彼女に声をかけることはできず、その後、授業で彼女が、「小林さん」とか「すみれちゃん」とか話しかけられているのを聞いて、ようやく声をかける勇気を出せた。もう4月の半ばだった。
「あ、あの・・・もしかして小林すみれさん?武富中学校にいた。」
その日、大教室ですみれを見つけ、ちょっと震えながら勇気を出して声を掛けた僕に対して、すみれは落ち着いた様子で僕の名前を呼んだ。
「うん。そうだよ。若林修治くんだよね。久しぶり。」
すみれの話によると、だいぶ前から僕のことには気づいていたが、なんか声をかけるのをためらっていたそうだ。
その日からすみれと大学で顔を会わせると、どちらからともなく挨拶し、話をするようになった。連絡先も交換してメッセージのやり取りもした。
お互いに地元を離れて一人遠くの大学に来ている心細さがあったのだと思う。
もちろん、大学でも僕の能力は健在で、サークルでもクラスでも主人公の友人ポジションをいち早く確保し、そこを起点にあっという間に友達が増えていた。
だけど、同じ田舎町から出て来て思い出と心細さを共有している友達は特別だ。きっと、すみれもそう思っていたに違いない。
だから、僕たちは顔を合わせるたびに慣れない一人暮らしや東京での大学生活の愚痴をこぼし合ったり、地元を懐かしんだりした。
「この本、ずっと借りたままで・・・ごめん。」
ずっと心にトゲのように引っかかっていた、狼王ロボをすみれに返すことができたのは5月の連休後だった。僕は連休中に実家に帰って本棚からこの本を東京へ持ち帰り、ようやく返すことができたのだ。
「わあ~、懐かしいな~。」
すみれは、僕がずっと本を返せなかったことを咎めることなく、旧友と再会したかのように喜んでいた。
喜ぶ彼女の様子を見て、もう一つ心に残っていた後悔への謝罪も自然に口から零れ落ちた。
「中学の時、ごめん。一方的に本の貸し借りを止めちゃって・・・。」
「ああ、うん。いいんだよ。何か事情があったんでしょ。」
すみれは笑顔のままで気にしていない風を装っていたが、かえって申し訳なくなり、僕の心は晴れなかった。
おそらく僕の沈んだ気持ちが顔にも出てしまっていたのだろう。すみれがこんな提案をしてきた。
「じゃあさ、代わりと言っては何だけど、一緒に狼を見に行こうよ!上野動物園とか行ってみたかったんだ!」
僕をフォローしようとしたのか、本当に行きたかったのかわからない。
ただ僕にも異存はなく、その週の授業の空き時間に一緒に上野公園に行った。
動物園には期待していた種類の狼がいなくてがっかりしたが、同じ上野公園にある国立科学博物館に立ち寄ったら狼の剥製があり、「意外におおきいね~!」と二人で大興奮した。
これを機に、すみれとはちょくちょく一緒に出かけるようになった。
スカイツリーにお台場、浅草寺など、これまでは田舎者だと思われるのが恥ずかしくて友達を誘うのをためらっていたベタな観光地も、同じ田舎から出て来たすみれだったら遠慮なく誘うことができた。
また、中学の頃にすみれから借りた本の影響で、すっかりはまっていた作家の小説が映画化され、しかもカップルで入場すると特典として書き下ろし小説がもらえると知り、迷わず彼女を誘った。
すみれは「ちょうどわたしも行きたかったんだ!」と言って喜んで一緒に見に行ってくれた。
すみれからも誘われることがあった。
一緒に下北沢に行きたいと言われたので、てっきり、おしゃれな古着でも買うのかと思ったが、すみれはお店に入ることすらせず、あちこちさんざん歩き回った後、地元にもあるファストファッションの店でシャツを1枚だけ買い、やはり地元にもたくさんあるチェーンのハンバーガーショップに入って「やっぱりこっちのが落ち着くよね!」と言いながら、実は古着などには興味がなく、好きな音楽系アニメの聖地に来たかったのだと教えてくれた。
ここまで話をすると、早とちりして「じゃあ、大学1年生の頃から付き合い始めたんだ!」と聞いてくる友達は多い。
だけど、そうはならなかった。この頃の僕とすみれは、せいぜい気の置けない友達といった関係だ。他の女の子と違って、一緒にいても気を張らなくていいし楽だった。恋愛小説とか、恥ずかしい趣味の話も存分にできたし、すみれも会えばいつも好きなアニメの話を遠慮なく熱弁していた。
しかも、僕はささいなきっかけから、またすみれを遠ざけることになる。
ある日、僕とすみれが学食でご飯を食べながら二人で話している時に、たまたま通りかかった同じサークルの友達である片岡くんに声をかけられた。
ちなみに当時の僕は、ゆるいランニングサークルのほかに社会問題研究会というサークルに入っており、彼はこのサークルで知り合った友達だ。このサークルでは、定期的に社会で活躍している先輩方や著名人を招いたセミナーやシンポジウムを企画・開催しており、人脈作りを目的とした意識高いキラキラ学生が集まっている。
声をかけてきた友達、片岡くんはそんな意識高い学生の中でも中心的なポジションに近い存在だ。
まだ1年生なのに、なぜかきっちりとスーツを着こなした片岡くんとは対照的に、その日のすみれはお気に入りの、それでいて少しくたびれたシャツを着ていた。そのシャツを見るの何度目だろう。ナチュラル派と言いながら、実は美容に関心が薄いすみれは、この日もすっぴんに近く、頭からはほつれ毛が出ている。しかも、声をかけられた時は、すみれがハマっているアニメについてあらぬ方向を見ながら早口で熱弁しているという最悪のタイミングだった。
片岡くんは、すみれの方をチラッと見ると、「邪魔しちゃってごめんね」とさわやかに言いながら、こっそり僕だけに耳打ちしてきた。
「彼女さん?素朴だけど真面目で純真そうじゃん。修治とお似合いだよね。」
彼にとってはただの軽口のつもりだったのだろう。いや、関係を揶揄する意識すらなかったのかもしれない。しかし僕は思ってしまった。
『あんな地味でオタクな小林すみれと僕がお似合いと思われている』
僕の自己顕示欲や承認欲求は、中学の時に不自然な形で充たされてしまったせいか、この頃には以前よりもだいぶ肥大してしまっていた。日本で最難関のこの大学に合格し、家族や高校の友達からの称賛により少し欲求が充たされたのもつかの間だった。当然ながら入学したら同級生はみんな同じ大学に合格している。
この大学の中ではたくさんいる学生の一人にすぎない。地味な彼女がいる平凡な学生Aなんて配役は嫌だ。周囲から特別な目で見られたい、賞賛されたい、羨望されたい・・・。
そんな存在になろうとキラキラして見える学生の多そうな社会問題研究会に入会し、そこでもそれなりのポジションを確保したのだ。
それなのに地味でオタクのすみれなんかと仲良くしていたらそれも台無しだ。賞賛や羨望どころか、さっきみたいに友達から下に見られてしまう。軽蔑されるかも。そんなのは絶対に嫌だ。
僕の能力を生かせば、もっと僕に相応しい相手を見つけられるはずだ。僕に相応しい配役を与えてくれる光り輝く相手が・・・。
こんなアホなことを考えた僕は、友達の目を気にするようになり、すみれと距離を置くようになった。僕の気持ちを察したのか、すみれも僕に声をかけなくなった。