私を助けてくれたのは鳴らない公衆電話をずっと待っていた不器用なおじさんでした
[白楼]
日が沈み始めて薄暗い公園。
電話の着信を知らせるベルが鳴った――そんな気がした。
どこか遠くで微かに響いたような、錯覚に近い音。それなのに、俺の体は勝手に動いていた。
まるでプログラムされたみたいに、ベンチから立ち上がり、公園の古びた公衆電話ボックスに向かって駆け出していた。
息を切らしながら飛び込む。だが、電話は鳴っていない。もちろん誰もいない。
「……やっぱり気のせいか」
額の汗を手の甲でぬぐって、俺はため息をひとつ落とす。
もう何度目だろう。今さら驚きもしない。けれど、がっかりすることにも慣れない。
俺は、この公衆電話への着信を待っていた。かかってくるはずのない電話を、俺は待ち続けていた。
ちらっと腕時計に目をやると、時刻はもうすぐ夕方の六時半になる。俺にとっては運命の時間だ。
"今回もダメだったか"という失望から、しばらく公衆電話ボックスの中から動けないでいた。
そんなとき、だった。
ふいに、白いもやのような何かが、ボックスのドアをすり抜けて、勢いよく飛び込んできた。
「うおっ……!」
思わずのけぞる。風でも霧でもない、"何か"だった。
それが何かを確かめるためにじっと"観察"するように見つめる。
古いカメラのオートフォーカスがゆっくりとピントを合わせていくみたいに、輪郭がはっきりとしていく。
その輪郭は、人になった。しかも――若い女性だ。
真っ直ぐな黒髪、少しやつれた表情。息を荒げて、目を見開いたまま、俺の存在に気づいたようだった。
俺と女性は、狭い公衆電話ボックスの中で顔を見合わせた。沈黙が流れる。
その瞬間だった。
「――ピピピピッ!!」
二台のスマートフォンが、まるで示し合わせたように、同時に大きな音を立てた。俺と女性のそれぞれのスマートフォンだ。
「なにこれ……!」
すでにスマートフォンを手に持っていた彼女は、さっと画面を確認して、言葉を漏らす。
俺もワイシャツの胸ポケットにしまっていたスマートフォンを取り出して確認する。
普段のアラートとはまるで違う。通知バーには何も表示されていないのに、画面いっぱいに奇妙な画像が表示されていた。
男女がキスをしているシルエット。そして、文字。
『心が真に信じたとき、世界はそれを事実にする』
「……なんだこれ」
俺も、彼女と同じ言葉を、思わず声に出すと、彼女は、答えを求める様に俺を見た。戸惑ってる、というよりは、警戒してる感じだ。
「キスで脱出できるとでも言うのか?」
冗談半分、本気半分で言ったつもりだった。だが、彼女は突然目を見開いて、震える声で叫んだ。
「は、はあ!?なにそれ、気持ち悪っ!」
ドアを勢いよく開けると、彼女はそのまま駆け出していった。
「お、おい……!」
思わず追いかけそうになったけれど、足が止まった。いや、無理もない。状況が意味不明すぎるのだ。
彼女には謝るべきかもしれない。急にキスってなんだよな……。
俺も公衆電話ボックス出て、再び定位置となったベンチに戻り、ドカッと座る。
「フウ……」
息を吐く。
この時間を過ごすのは、何度目だろう。十や百なんて単位ではない。数えるのを辞めても久しいが、たぶん、何万回の単位だろう。
今の俺の状況を、正しく伝える言葉を俺は持たないが、端的に言えばこうだ。
『三時間のループの中に囚われている』
まるでSF映画のような話だ。かの名作の主人公と同じ状況だと言えば、きっとわかってもらえるだろう。
俺は少女でもなければ、ラベンダーの香りを嗅いだわけでもないが、なぜか今日と言う日の夕方四時からの三時間を繰り返している。
その三時間をずっとこの公園で過ごしている。ここから出られないわけでもないが、しかし三時間後にはまたここに戻る。
そして、時間のループに囚われたのは俺だけじゃない。SNSを通じて、同じ境遇の者たちが世界中にいることを知った。
"ループに囚われた者たち"や"Loopers"や"無限輪廻之者"など、様々な呼び名をつけていた。
彼ら、あるいは彼女らと、共通しているのは「時間がループする」ということだけ。繰り返す時間はそれぞれが違うようだ。
俺は三時間だが、最長で二十時間という者がいた。最短はよくわからないが、俺の三時間は短い方ではあるようだ。
理由はわからない。誰も確かなことは知らなかった。でも、SNSで通じ合った者同士の集合知によって、色んな仮説が出た。
ある者は「時間が自分自身に戻る曲線(CTC)」に囚われたのではないか、という。数理物理学において想定されている通行可能なワームホールに地球が丸ごと落ちている最中なのではないかと。
また、ある者は「量子ゼノン効果(QZE)」によって、頻繁な観測によって量子状態の変化が抑制され、ある状態に留まろうとしているのではないか、という。高次元の存在が俺たちに注目して、何かを探すような観測を行い、対象者を選別しているのかもしれないと。
けど、俺にとってしっくりくるのは、もっと素朴な話だった。世界の管理者がバックアップから復元しようとしてエラー吐いてんじゃないか?
俺はIT系のエンジニアだ。システムトラブルなんて日常茶飯事で、そのたびにログを漁って、原因を潰して、データを復旧してきた。
このループも、似たようなものなんじゃないかと思ってる。だが、ここには世界の管理者も、世界のシステムエンジニアもいない。
仮に、"ループに囚われた者たち"が原因はわかったとしても、それをどうにもできない。そんな無力さに、俺は考えるのを辞めた。
そして、繰り返し訪れる三時間は、毎回同じであったはずなのに、徐々に変化していった。
SNSにたくさんいた"ループに囚われた者たち"が減っていったのだ。
積極的にSNSで議論していたのも、ずいぶん昔のこと様に感じる。いや、ループしてるから、時間は過ぎていないのだが、主観時間としては、昔だ。
脱出できたのか、それとも別の結果があったのか。俺にはわからない。けど、無事に脱出した、そうであってほしいと、心のどこかで願っている。
――周囲が急に明るくなった。腕時計を確認すると時刻は夕方の四時少し前に戻ってる。
再び時間が巻き戻った。
「さて、始めるか」
このループの中で、俺ができることは限られているが、たったひとつ、未来を変えられるかもしれないと願って続けていることがある。
俺は公衆電話ボックスに入り、公衆電話から一本、電話をかける。
彼女に――元、彼女の留守番電話サービスに向けて。
届かないのはわかってる。でも、それでも繰り返す。
「――が、この公衆電話の番号だ。頼む、これを聞いたら電話をくれ」
受話器を置き「ピピ」という音と共に吐き出されるテレホンカードを手に取る。
卒業した大学の創立記念のテレホンカードだ。
ずっと財布に入れていたもので、表面の印刷は擦れてはがれてる。まさか使う機会が来るとは思ってなかった。
そして、いつものように公園のベンチに腰を下ろした。
夕方の空が、ゆっくりと赤く染まっていく。風が吹いて、木の葉がさわさわと音を立てる。
かかってくるはずのない電話を、俺は待ち続けていた。
そのときだった。
「あ……」
逃げていった女性が戻ってきた。
間違いない。あのとき公衆電話ボックスから逃げていった、あの若い女性だ。決意を秘めた表情が見て取れた。
今度は――話せるかもしれない。
[依波]
家には帰れなかった。
それはもう、絶対に無理。怖すぎる。なんでかって? だって、自分一人だけの家にいて、誰かに刺されたんだもん。
最初にそれが起きたのは、何日も前のこと――いや、今日?何度目かの“今日”か、もう分からない。
スマホの画面には同じ日付しか表示されないんだもの。
でも、何が起こったのか、それだけは覚えてる。
誰もいないはずのワンルームマンションの中で、急に背中に熱さにも似た激痛が走った。
「痛っ……な、なに……っ?」
痛む背中に手をやると、ぬるっと滑った感じで濡れている。触った手を見れば真っ赤になっている。
身体から力が抜けていき倒れ込みながら、必死に振り返る。でも、誰もいなかった。本当に、誰も。
目がかすんでいく中で、なんとかスマホに手を伸ばそうとして、そこで意識が途切れた。
――そして気づいたら、また部屋にいた。
これって、夢? そう思いたかった。けど、妙にリアルだった。
痛みも、魂が抜けていくかのような凍える寒さも、全部が記憶に残ってる。混乱したまま、部屋を飛び出して、すぐ近くの交番に駆け込んだ。
「た、助けてください!誰かに刺されたんです!」
背中を見せながら叫ぶが、もちろん血は流れてない。
でも、刺されたはずだと叫ぶ私に、若い警官は困った顔をしていた。そりゃそうか、傷跡もないのに。
でも、そのやり取りの最中――また、あれが起きた。
トン、と背中を押されたような感触、すぐに背中に熱した鉄の棒でも押し付けられたのかと思う激痛が襲ってくる。それも同じ場所に。
確かめるまでもない、着ている服が真っ赤に染まってるのだろう、警官にも異常が起こったことは伝わったはずだ。
床に崩れ落ちながら、警官に助けを求めて手を伸ばす。警官は呆然としてた。びっくりした表情で私を見てる。
なんで助けてくれないの!犯人が後ろにいるでしょ?拳銃抜いて撃ってよ!
「え、煙が……」
警官が漏らした言葉は忘れられない。助けはもう間に合わない、全身がすっと寒くなっていき、意識が薄れていく。
――気づいたときには、また部屋にいた。
「……なにこれ」
パニックで泣きながら、もう一度部屋を飛び出した。
誰かに助けてほしかった。でも、交番にはもう行けない。人が多いところも怖い。誰かに近づいたら、また刺されるかもしれない。
そうして、私は彷徨っていた。公園、河川敷、展望台……、人が少ない場所ばかり選んで歩いた。
でも、それでも、刺された。
刺されるタイミングはまちまちだけど、いつも最後には刺されて部屋に戻る。
あるとき思いついたんだ。大きな公園の芝生の上に仰向けに寝転んで、じっとしてた。これなら後ろから刺される心配はない。
でも、それでも、刺された。
漫画喫茶の鍵付きの個室に閉じこもってみた。
でも、それでも、刺された。
その度に背中を刺される。振り返っても誰もいなくても――何度も。
「これ、現実なの?」
段々と感覚がマヒしていった。刺される瞬間、意識が落ちる感じさえ、どこか遠くの話のように思えてきた。
これって、まさか"デスゲーム"? マンガやアニメで見るやつ。
なんか、ゲームマスターとかがいて、ルールのわからない理不尽なサバイバルに巻き込まれてる?
いやでも……。じゃあ、私は何のために殺されてるの?
その日も、私は夕暮れの公園を歩いていた。ふと、目に入ったのは、公衆電話ボックスだった。
明かりがぼんやり灯ってて、なんとなくじっと見つめちゃった。
ふと頭をよぎったのは好きな映画だ。
赤い薬と青い薬を差し出される映画、って言えばわかるかな。そんなことを考えていたら。
電話の着信を知らせるベルが鳴った――そんな気がした。
どこか遠くで微かに響いたような、錯覚に近い音。それなのに、私の体は勝手に動いていた。
その映画で、公衆電話――とは限らないけど――着信している電話に出ると、現実に戻れるんだ。
「これで……!ここから出られるかも!」
藁にもすがる気持ちで、私は電話ボックスに駆け込んだ。
――そしたら、いたのよ。おじさんが。
(え、えっ、誰!?なに!?なんでいるの!?)
私が驚いたのと同じくらい、おじさんも驚いてる様子だった。互いに見つめ合っていると、突然スマホが――同時に、同じ音で――鳴った。
「ピピピピッ!!」
私は手に持ってたスマホの画面をすぐに見る。
そこには……キスしてる男女のシルエット。そして、意味深な言葉。
『心が真に信じたとき、世界はそれを事実にする』
なんなの、この恋愛ポエムみたいなメッセージは……。
「キスで脱出できるとでも言うのか?」
そう呟いた、おじさんの言葉を聞いた瞬間。
「は、はあ!?なにそれ、気持ち悪っ!」
すごい悪寒を感じて、私は全力で逃げ出した。一瞬たりともあんなところにいられなかった。
なにそれ、キモすぎる。いやもう、冗談とかじゃなくて、状況が怖い上に、いきなりキスとか言われたら嫌悪感MAXだし!
とにかく逃げて、逃げて、公園を出て、人の気配がしない場所まで来てから、またスマホを見た。
さっきの画面は消えていた。通知は何も残ってない。なんのアプリなのかもわかんない。見たことのない画面だった。
「……意味、わかんない」
おじさんの言葉が頭に残る。あれは、私と同じように"デスゲーム"から出たがってる人なの? 仲間? 敵?
ぼんやり考えていると、また、気づいたら部屋に戻っていた。……刺されてないのに。
背中は無傷。意識も途切れていない。歩いていたはずなのに、気づいたらまたあの部屋の中。
「……今までと、違う」
なにかが変わった感覚がした。きっとあのおじさんに出会ったことで、変わった気がする。もしかして"預言者"だったり?
おじさん、なにか知ってる気がする。今まで誰にも助けを求められなかったけど、今回は違うかもしれない。
私は、決めた。
もう一度、あの公園に戻ってみた。まだ陽のあるうちに、明るい時間帯に。
そして、公園のベンチに目をやると――。いた。あのおじさんが、ベンチに腰かけてる。
変な人なのかもしれない。でも、きっと同じ"デスゲーム"に囚われてる人だ。
あの時は逃げたけど、今度は……ちゃんと、話してみよう。
[白楼]
東屋のベンチ。少し古びた木のベンチに彼女を座らせて、俺はテーブルを挟んで向かいに腰を下ろした。
風が心なしか冷たく感じる。春先なのに、空気の温度が妙に薄いのは、彼女の怯えた表情のせいかもしれない。
彼女――依波、って言ったか。たぶん、俺より一回り以上は若い。
俺がなんて話しかけようか考えていると、どこか震えた声で「これは、デスゲームなんですか?」って聞いてきた。
「デスゲーム?」
あまりに唐突なワードに、俺は首をかしげた。依波は立て続けに言った。
「どうすれば現実に戻れるんですか?あの公衆電話から出られるんですか?私、ずっと、ずっと殺されてるんです……!」
言葉の意味を整理するのに、少し時間がかかった。
捲くし立てる様にしゃべる依波の話をじっと聞いていた。
分かるのは、依波もまた"ループに囚われた者たち"であることは間違いないようだ。
でも、時間が巻き戻るよりも先に、ループした時間の中で、依波はかならず誰かに背中を刺されるらしい。
俺は、ひとつずつ丁寧に確認していった。
パニックになってる依波を落ち着けるように、冷えた心をゆっくり包んで温めるかのように、言葉を選ぶ。
「それはきついな。何もわからないんだろう?」
「うん、わかんない。刺されたって瞬間にさ、振り返っても誰もいないし。お巡りさんが目の前にいても、公園で地面に寝そべっても、いきなり背中を刺されて、気づいたらまた部屋にいるの」
「恐ろしいな。こうしておじさんと話していても、後ろを気にしてるのはそのせいか?」
「うん、もう癖になっちゃてるの。無駄だけど、怖くて」
「じゃあ、おじさんと背中合わせに座るってのはどうだろう?いや、寝そべっていても刺されたんじゃ、それでも安心はできないかーー」
「あ、良いかも。やってみたいかも」
依波は少し微笑んだような気がする。俺は立ち上がって、ベンチにまたがるように座り、依波と背中合わせになった。
背中に、依波の小さな背中が当たっている。少し震えている。
心の中がざわついた。今までSNSを通じて様々な"ループに囚われた者たち"の話にふれてきたが、こういうパターンは初めてだった。
ましてや、どうやって刺されたのかもわからないと言う不可解な事が、繰り返し繰り返し、この小さな背中に襲いかかってくる。
依波の話は異質だった。――まずは、俺が知ってることを話すことにした。
「落ち着いて聞いてほしい。俺も君も、同じ時間を繰り返し体験しているんだ」
「……リゼロみたいに?」
聞いたことがある気もする、SNSでも何度か見かけたような。
「ごめん、それはなに?」
「アニメ。主人公が死ぬと時間が元に戻ってるの」
「あー。そうそう。おじさんだと、時をかける少女が真っ先に浮かぶよ」
「知ってる。それもアニメだよね?」
「そっか。うん、おじさんは小説しか知らないんだ……。君も、ループしてる。間違いない」
俺がそう言うと、依波は背を丸めるようにして震わせた。肩越しに見るとうつむいているようだが、表情はわからない。
「わけ、わかんないよ……こんなの、ただの夢でしょ?現実じゃないよね?」
「わからない。俺も夢であってほしいって何度も思ったよ」
その気持ちはとてもわかる。気が付いたら、仕事をさぼって昼寝してた公園で目を覚まして、また仕事に戻るんだ。そう思わずにいられない。
「おじさんも、殺されるの?」
「いや、ただ"同じ時間"を繰り返してるだけだ。でも夢とも思えない。俺は長い間、この三時間を生きてる」
言いながら、自分で言葉を噛み締めてる感覚があった。説明するのは簡単じゃない。俺自身、いまだに全部を理解しているわけじゃないから。
でも、依波にだけは分かってもらいたかった。一人じゃないってことを。
混乱してる依波には全てを理解しろと言うのは酷だろう。
むしろ、今ここに戻ってきてくれただけでも、すごい勇気だと思った。
「三時間?私もそうなのかな?」
「君の場合は、ループがいつ巻き戻ってるか、確認できてないんだね?」
「今まではそうだった。その前に殺されちゃうから。でも、おじさんに会ってから、まだ殺されてない。はっきりと時間は見てなかったけど、三時間ってことはないかな」
「そっか。うん、時間は人によってまちまちらしい。長い人で二十時間って人はいた」
「その人たちって?」
「SNSで情報交換してたころがあったんだ。世界中に居てね。もちろん、ループに囚われてない人たちにしてみたら、何かアニメの話をしてるって思われただろうな」
「……世界中にいるんだ。その中に私と同じ人はいないのかな?殺されちゃうって人は?」
「おじさんは、殺されるって話は見たことが無い。ただ、ループする時間の中で交通事故に遭う人がいて、事故を回避できるのかって話はあった」
「回避できるの?」
「ああ。簡単に出来たそうだ。同じ道を通らなければ良いだけのことだった」
「私のとは違うね、私はどこに行っても殺されちゃうから」
黙り込む依波を背中を通じて感じている。きっと依波の中に情報が染み込んでいく最中だろう。
今回のループでは納得できないかもしれないが、次のループでも依波に出会えたら、また話を聞こう。
そう思っていたら、依波は思ったよりも早く、立ち直ったように顔を上げたようだ。
俺の背中に身を預けながら、依波は聞いた。
「あの、スマホに変な画面が出たのは、なに?」
「ああ。あれか。俺も実際に見たのは初めてだったけど、話には知ってたよ。あれはたぶん、ヒントなんだと思う」
「ヒント?」
「SNSでは、スマートフォンに見覚えのない画面が出たら、それに従えばループから脱出できる、って言われてる」
「キスすれば、出られるってこと?いやだよ。なんで見知らぬおじさんとそんなことしなきゃいけないの?」
「そりゃそうだ。俺だって、あれをそのまま受け入れるつもりはないよ」
正直、俺もまったく納得してない。ただ、脱出したかもしれない人たちの話を聞く限り、あれが"脱出の兆し"である可能性は高かった。
「……でもさ、脱出は急がなくていい」
俺は言った。
「え?」
「君の問題、まずはそっちから解決しよう。殺されるループ。俺も何か手伝えるかもしれない」
依波は、ベンチから立ち上がり、俺の肩に手を乗せ、オレの背に身を寄せて、顔を覗き込んできた。真剣な表情だ。
「解決、できるの……?」
「たぶん。試す価値はある」
今までの依波の話を聞いて、俺にはひとつ仮説が浮かんでいた。
「試すって……どうすればいいの?」
依波は不安そうに俺を見つめる。目の奥には、ほんのわずかだけど「助けて」という気持ちが見えた気がした。
「同じ行動をすれば、同じ出来事が起きる。ループってのは、そういうものなんだ。君が今まで避けてた行動を、もう一度やってみてくれないか?」
「えっ……刺されるために?」
「そうじゃない。"観察する"んだ。見えるものがあるかもしれない」
「……おじさんも一緒に来てよ?」
そう言った依波の目は、本当に心細げだった。ひとりじゃ無理、と言わんばかりの、か細い声。
でも、俺は突き放すように、嘘をつく。
「ごめん。おじさんは、ここから動けないんだ」
「え……なんで?」
「理由はわからない。時間が巻き戻る理由がわからないように、ここに戻される理由もわからないんだ」
「そ、そんなの……。おじさん、ここに閉じ込められてるんだ」
「だから、ごめん。おじさんは助けてあげられない。君自身がやるしかない」
依波は口を開きかけて、そして閉じた。言いたいことは山ほどあるのだろう。オレの肩に乗せた依波の手に力が籠る。
でも、依波は頷いた。
「怖いけど……やってみる。それで何か変わるんだよね?信じていい?」
「信じてくれ。俺はここにいる。君が戻ってきたら、何度でも話を聞くし、一緒に考える」
「……うん」
依波の身体から力が少しだけ抜けた気がする。
「じゃあ……私、次のループで試してみる」
「ありがとう。たぶん、答えに近づけるはずだ」
本当のところ、どこまで助けられるかなんて分からない。俺は万能じゃないし、正解も持ってない。でも、それでも。
依波がひとりじゃないってことを伝えたかった。
「気をつけてな」
「うん……がんばる」
ベンチを立ち、夜の街へ歩いていく依波の後ろ姿を、俺はしばらく見つめていた。
依波はきっと、真実に近づける。
[依波]
「どうせまた刺されるんでしょ……」
そう思いながらも、私は土手を歩いていた。
体が強ばる。喉がカラカラだ。心臓はずっとバクバク鳴ってるし、手のひらにはじんわり汗がにじんでいた。
公園へ向かう、いつもの道。毎回、ここを通るときに刺されていた。だから、今回もきっと、来る。
でも――。
今回は違う。おじさん--白楼さんの顔が浮かぶ。
第一印象は"知らないおじさん"だった。「キス」とか呟いて気持ち悪くもあった。
でも、私の話を真剣に聞いてくれて、私の不安を取り除こうと、いろいろ考えてくれた。
白楼さんの提案で、背中合わせになったとき。
背中越しに伝わる白楼さんの温もりは、不思議な安心感をもたらした。
(今まで誰に助けを求めても理解してもらえなかった。でも白楼さんは違う。ちゃんと私の話を信じて、受け止めてくれる)
震える体が落ち着いてくるのを感じる。ずっと張り詰めていた心の糸がゆるんでいくような気がした。
(なんでだろう、白楼さんといると安心する。大人で、頼りがいがあって……少し不器用だけど、優しい)
胸の奥がほのかに熱を持つ。この感情がなんなのか、まだはっきりとは分からないけれど。
ただ、白楼さんの隣に居たい、もっと話を聞いてほしい――そんな気持ちが自然に湧いてきていた。
白楼さんが『君の問題、まずはそっちから解決しよう』って言ってくれた時、思わず、おじさんの後ろから背中に身を寄せた。
すっごい安心感だった。
『見えるものがあるかもしれない』
本当は怖い。めちゃくちゃ怖い。でも、白楼さんの言葉が頭の中で何度もリピートされてる。
『俺はここにいる。君が戻ってきたら、何度でも話を聞くし、一緒に考える』
そう言われて、またあの場所に戻ったら、私を待ってくれてる人がいる、って安心できた。
怖くて泣きそうになったけど、それでも――白楼さんを信じたいって思った。
――薄暗い空。草の匂い。遠くで電車が走っていく音が聞こえる。
歩きながら、頭の中では何度もイメトレしてた。
「ここらへんで、後ろから来る……そしたら振り返って、何が見えるか確認する」
前回は、いきなり意識が飛んだ。でも、今回は……ちゃんと意識を保って、見てみる。
絶対に見逃さない。そう決めた――そのときだった。
「今だ!振り返ってみろ!」
茂みの中から突然、聞き覚えのある声が飛んできた。その声が誰なのかを確かめるよりも、今はもっと大事なことがある!
「!」
私は振り返る。
そこに、いた。
もう一人の"私"が。
目の前に現れたのは、まぎれもなく"私自身"。
だけど、目が異様に冷たくて、左手にはナイフを持っていた。
「……!?」
体が動かない。
恐怖で足がすくんだ。声も出ない。理解が追いつかない。
なにこれ、どういうこと?何で私が、私を?
でも、"もうひとりの私"は、ただ無表情にこっちを見つめて、ナイフを握る手に、迷いはなかった。
(やば……っ!刺される!)
次の瞬間、背後から白楼さんが走ってきて、私を後ろから抱きしめて、包み込むように引き寄せた。
「もう大丈夫だ!俺が君を守る!」
白楼さんの声が、心にじわっと染み込んでくる。暖かな体に包み込まれる。
そのとき――"私"が、変わり始めた。
輪郭がぼやけて、黒い霧に変わっていく。風に溶けるように、ゆっくりと、静かに消えていく。
私は、ただ呆然と見つめていた。
自分が、自分を殺そうとしていた。そんな信じがたい現実を、目の前で見せつけられて――。
「もう、大丈夫だ」
白楼さんの声が、ふわっと響いた瞬間、こらえてた何かが一気に崩れた。
私は白楼さんの胸に顔をうずめて、泣いた。
涙が止まらなかった。強烈な安心感があった。ずっと冷たくて、怖くて、孤独だった心に、ぬくもりが流れ込んできた。
こんな感覚は初めてだった。多幸感に包まれていく。
どのくらいそうしてたのか、わからない。
時間が止まったような、溶けてしまいそうな感覚のなかで、白楼さんの声がした。
「すまない。おじさん、そろそろまたループする時間なんだ。あの公園で待ってる。来てくれたら、説明するよ」
「えっ……うそ、待ってよ……!」
そう叫んだときには、彼の体が、白く淡いもやに包まれていった。
まるでさっきの"もう一人の私"と同じように。
「……やだ」
消えないで、って言おうとしたけど、もう遅かった。
彼の姿は、完全に消えてしまった。
残された私は、地面に座り込んでしまい、呆然とした。
さっきまで抱かれていたぬくもりが消えて、代わりに、強い喪失感が胸の中に押し寄せてくる。
でも――怖さは、なかった。
もう、誰かに背中を刺されることもない。もう、逃げ回らなくてもいい。
私は、ここに存在してる。ちゃんと、生きてる。
そう思えた。
[白楼]
公園に、依波が戻ってきた。
白いもやのように消えた俺が、再びループに戻ったとき――正直なところ、依波にはもう会えないんじゃないかと思ってた。
何がきっかけとなって、ループから脱出するのか分からないが、もし殺され続けていたことがループしてる原因だったとしたら――。
依波はループから脱出していた場合は、もう二度と会えないだろう。
時間ループしていなければ、俺と依波の接点はあるはずがない。町ですれ違ったとしても、依波は俺の事を覚えていないのだから。
でも、依波はちゃんと戻ってきた。そして笑顔でこう言った。
「もう、刺されなくなった」
その言葉に、俺の胸がふっと軽くなった。まるでずっと背負っていた荷物をそっと下ろしてもらったみたいに。
「そうか、よかった……本当によかったな」
「うん」
彼女はうなずいた。少しだけ顔色が良くなっている。
頬の血色も、瞳の力も、前よりずっと戻ってきてる。たぶん、本人も気づいてないだろうけど、声にもちゃんと芯が通っていた。
「どうして刺されなくなったんだと思う?」
俺がそう尋ねると、依波はちょっと考えてから「もう一人の私が消えたからじゃないかな」と言った。
「だと思う。俺も、そう考えてる」
「説明してくれる? あのもう一人の私はだれなの?」
彼女をベンチに座らせながら、俺は、今まで考えていたことを依波に説明し始めた。
「言っておくが、俺も正解は知らない。俺が勝手に想像したことだ」
「うん」
「俺はIT系の仕事をしていてな。この時間ループについても、世界のシステムエンジニアが失敗して"何か"壊してしまった、って考えてる」
「へぇ。じゃあ、白楼さんが直してよ?」
「じゃあ、まずコンソールを召喚してくれ。アクセス権限も――いや、それはいいんだ。同じように、君の問題も考えてみた」
「うん」
「君の話を聞いて、頭に浮かんだのは、スプリットブレインじゃないか、ってことだった。閃いただけだ。根拠はない」
「スプリットブレイン?」
「ああ。分散システムでノード間の通信が途絶えると――、いや、わかるように言うよ」
「うん、日本語でオッケー」
「時間がループするとき、俺はこの公園に現れる。ループする前からここに居たからな」
「何してたの?」
「仕事さぼって昼寝してた」
「わっるー。ダメじゃん」
「いいんだよ。それで、時間が来たら白いもやになって消えて、再びここに戻される」
「うん。私の目の前で消えたから、それはわかる」
「でも、SNSで見た情報によれば、白いもやのようになって消えたあと、その時間軸の続きは、別の自分が"本来いるべき場所"に現れる、らしい」
「へえ!そうなんだ!じゃあ、あの後に探しに行けば、白楼さんが何処かに居たってこと?」
「ああ。でも、時間ループしていた間の事は何も知らない。日常生活へと戻っていく。俺はたぶん、会社に戻って仕事してるんじゃないかな」
「そっか。じゃあ、私の事はわかんない白楼さんってことか」
「そうやって、同じ時間には俺は同時に存在しないようになってるみたいだ。でも、それが何かのミスで、複数の俺が存在してしまったら?」
「え?……どうなるの?」
「それぞれが"自分こそが本物だ"と考えて、独立して動き出す。これがスプリットブレイン。たぶん、それに近い現象が君の身に起きていたんだと思う」
「それがあの、私が見たもうひとりの私? でもどうして私を殺そうとするの?」
「依波と、もう一人の"依波"。同じ人物、同じ記憶、同じ感情。けれど同時に存在してはいけない。世界はそのミスを許さない。だから――」
「だから?」
「もう一人の"依波"を操って、君と言う存在に取って代わって存在するために、君を殺そうとしたんじゃないかと思う。人の形をしていない白いもやのまま、自分と同じ存在を探し回って、な」
思えば、最初に依波に出会った時も、白いもやの状態だった。俺が観察したから、人の形になったような気がする。
「操って、って誰がもう一人の私を……」
「さて、たぶん世界のシステムエンジニアじゃないかな。あるいはこの世界はそういうシステムになってるのかもしれない。ドッペルゲンガーって聞いたことは?」
「なにそれ?」
「こんな世界になる前からある、有名な都市伝説さ。もう一人の自分がどこかに存在して、そいつに会ったら死ぬって言われてる」
「よくわかんないけど……。それで、なんで消えたの?」
「それは、君が選ばれたってことだ」
「選ばれた?白楼さんの言う世界のシステムエンジニアに?」
「あるいは世界にな。あの瞬間――君が"もう一人の自分"を見た。そして俺が君を抱きしめて存在を"確かめた"。あの瞬間に、決まったんだ。『必要なのはこっち』って」
依波は目を見開いていた。俺は続けて言う。
「君も、俺も、君の存在を必要とした。関わりをもった。すると、そう簡単には消せない。だから、消えるべきはもう一人の依波だ」
「白楼さんが私を必要としてくれたから、私は助かった、ってこと?」
「ああ。まあ、俺の勝手な想像、というか妄想? だがな」
「――そっか。うん、なんか嬉しいかも。そんなふうに思ってくれる人、いなかったから。今まで」
少しだけうつむき、依波が照れている。微笑んでる。ほんの少しだけ。けど、それがすごく温かくて、俺の中にも小さな火が灯った気がした。
「ありがとう、白楼さん」
「どういたしまして」
「でも、今度は私の番だよね」
「え?」
「次は、あなたの問題を私が解決する番」
俺は黙り込んだ。恩を感じてくれるのはいいが、しかし俺の問題はもう俺自身は諦めてしまっていた。
依波に話を、しなくてはいけないと思うと、それをどこかで避けたくて。依波に言ってどうなるということもないと思っていた。
けど、依波は真っ直ぐな目で俺を見ていた。
「話して。あなたは公園から動けないって嘘ついた。でも動けないんじゃない。動かない理由が、この公園にあるんだね?それよりも私を優先してくれた」
俺は、観念したように笑って、話し始めた。
「昔、東京に住んでた頃に、恋人がいたんだ」
「……うん」
「仕事の都合で、俺は遠く離れたこの町に来た。でも、いずれ東京に戻るつもりだ。遠距離恋愛ってことになったけど、俺は上手くやってる気でいた」
依波は真剣に俺の話を聞いてくれている。
「でも、ある日突然、一方的に別れを告げられた。もう連絡してこないでと言われた。で、何もかも手につかなくなった。仕事も、飯も、睡眠も」
「理由は?」
「言ってくれなかった。もう二年も前の話さ」
「そっか。それはつらいね。せめて理由を言って欲しいよね」
「ああ。俺の何がいけなかったのか。遠距離恋愛に耐えられなくなったのか。わからないまま。ずっともやもやしてたが、ようやく吹っ切れてきた。でも、ニュースで見たんだよ。交通事故の速報。東京で、女性がトラックにはねられたって」
「……」
「名前が、彼女だった」
自分で話しながらも、喉が締めつけられるようだった。
「その瞬間から、俺の時間はループし始めた。事故が起きるまでの三時間だ」
「それ、ほんとに彼女なの?同じ名前の人かもしれないじゃん?」
「ああ。それは俺も思った頃もあったが、確かめようがない。事故が起こるのは俺がループが終わる三十分前だ。ニュース速報には間に合わない。ニュースで見たのは世界がこんなことになった前に一度きりだ。そして、ループが終わる直前にSNSで事故のことを写真付きで投稿する人がいる。事故現場は良く知ってる場所で、見覚えがあるから間違いない。それで事故が発生した、ってことだけは確かめられる」
「そっか。……もし彼女だったとして、助けたいって、思った?」
「もちろんだ。けど、電話は着信拒否されてるだろうし、ループする時間が短すぎて、俺が東京に行くには間に合わない。着く前にここに戻される」
「飛行機は?」
「あいにく間に合うタイミングの出発便がないんだ。田舎なのを呪ったよ」
「じゃあ!東京に他に知り合いはいないの?友だちは?その人に頼んでおけば――」
「共通の友だちに彼女の事を頼んだこともあるんだ。でも何度も試しても、誰に頼んでも、頼み方も色々と試したが、全部断られた。未練がましいぞ、忘れろって言われてね」
「変なの。それ本当に友だちなの?」
「今となってはもうわからなくなったよ。俺の体感時間ではずいぶん昔のことだ。他にも、彼女の職場に電話をかけたが、今日は休んでいて連絡がつかないと言われた。警察に通報したりもしたが、事件が起こる前じゃ動いてはくれない。爆弾を仕掛けた!って嘘の事件をでっちあげて、事故現場に向かわせようとしたこともあったな。誰かが彼女に一声でも掛けてくれれば未来が変わる気がしてな。だが、どれも上手くいかない。その事故は必ず起こる」
「白楼さん、いったい何回ループしてるの?」
「わからない。十や百という単位ではないな。数年は経ってる気がするから、万の単位かもしれない」
依波は息をのむ。
「……なんか。ごめん」
急に依波が泣きそうな顔で謝った。
「何を謝ってるんだ?」
「私、たぶん、ループしたの十回は超えてると思うけど、百回はぜったいループしてない」
「人によってずいぶん差があるのはなぜか。SNSでも議論されてたよ」
「白楼さん、その間にできる事はやったんだよね。私がパッと思いつく事はやり尽くしたんだね。そんなの想像もしないで軽く考えてた。ごめん」
依波の心優しいところが垣間見えた。良い子だ。だから、依波の頭を思わず撫でてしまう。撫でてから気付いた。気持ち悪いって思われるかな?
でも、依波の表情はなんか満ち足りてた。
「それで、どうしてここにずっといるの?」
「ここが俺のループの始まりだってのもある。それに公衆電話からの電話なら、何かがきっかけで出てくれるかもしれない。そう思って、ずっと公衆電話から電話してる。もはや自動的に動くロボットみたいな心境だよ。ループが始まったら立ち上がって電話をするだけ」
「それで、あとはじっと電話を待つだけなの?」
俺はうなずいた。
「届かないとわかってても、ここで奇跡を信じてる」
依波はしばらく黙っていたけど、やがて、強い声で言った。
「バカじゃない?呆れた!ちょっと同情したけど、そんな気も失せたよ!」
「え?」
「もういい!私が代わりに行く!」
「え?」
「東京で調べてくるよ。私もループが始まるのは白楼さんとあんまり変わらないけど、終わる時間はけっこう遅いからね。事故には間に合わないかもだけど、何か情報があれば白楼さんがやれることもわかるかもでしょ?」
「でも……」
「私を助けてくれたのは、白楼さんでしょ?今度は私の番。だから、私に任せて」
俺は、言葉を失った。
まさか、誰かが俺のために何かをしてくれるなんて。そんな展開は、もう永遠にないと思ってた。
「……ありがとう」
やっと絞り出したその一言が、こんなに重たいとは思わなかった。
でも、それでも、心の底から、そう思っていた。
[依波]
正直に言って、ちょっとだけ思った。
「なんで、私が見知らぬおじさんの元カノを助けに行くんだろう」って。
でも次の瞬間、白楼さんの顔が頭に浮かんだ。
あの少し寂しげな横顔、優しい声、頼もしい背中――すべてが胸の奥に鮮烈に残っている。
(好き、なんだよね。完全に……惚れちゃってるんだ)
心臓がドクンと強く鼓動を打った。
初めて感じた"恋"という感情。
助けてもらった恩を返したいだけだって自分を誤魔化そうとしたけど、そんなのじゃないってわかってる。
とにかく彼のために何かしたい、彼を笑顔にしたい、ただそれだけを願っている自分がいる。
(だって。白楼さん、何年もあの公園で電話を待ってる。放っておいたら、この先も永遠に続けてそう)
そう思うと、胸がきゅうっと締め付けられ、すっごい切ない気持ちになる。助けてあげなきゃ!って気持ちになる。
(だったら迷うことなんかない。白楼さんのために出来ること、全部やってやるんだ)
決意を込めてスマホを握り締めた。今は彼のこと以外、何も考えられない。
もう止まらない。私は彼のために。
「今度は、私が助ける番だよね」
その気持ちは不思議と自然に湧いてきたし、まったく迷いはなかった。
東京に行くのは、白楼さんの限られた時間内では無理だって言ってた。
でも、私に許された時間なら、調べる時間はあるはずだ。
一度で分からなくても、何度でも行けばいい。どうせループするんだから。
そう決めて、飛行機に飛び乗って、スマホにメモした情報を読み返す。
白楼さんの元カノ――"さくらさん"の情報を確認する。
名前と年齢、昔住んでいた場所、職場。写真も白楼さんから貰った。
事故現場はカフェの近くだというから、そこも地図アプリでチェックした。
彼女が搬送された病院の名前も、白楼さんが一度見たニュースを覚えてた。
私は探偵じゃない。情報屋でもない。でも、私は何としても何か手がかりを掴みたかった。
――始めてきた東京は、思ってたよりも静かだった。大都会の雑踏の中で、私はぽつんと、ひとり。
慣れない電車に揺られ、なんとかさくらさんが搬送されたという病院にたどり着いた。
「こんにちは。友人が事故でこちらに搬送されたと聞いて……さくらさんって方なんですが」
受付の看護師さんは一瞬だけ戸惑ったけれど、すぐに対応してくれた。
「ご本人は集中治療室で治療中です。ご家族とご友人の方が、待合室にいらっしゃいますよ」
案内された先には、二人の人物がいた。
30代後半くらいの落ち着いた男性と、20代後半くらいの女性。
私は深呼吸して、一歩踏み出す。
「すみません。さくらさんの職場の後輩で……事故のことを聞いて、心配になって」
男性は静かにうなずいた。
「ああ。さくらの夫です。ありがとうございます。まだ治療中で――」
ああ……そうか。結婚してたんだ。
それを聞いて、胸のどこかがチクリとした。白楼さん、大丈夫かな。
女性の方は「私はさくらの友だちなんです」と自己紹介してくれた。やわらかい雰囲気の人だった。
夫の話では、さくらさんは今日、朝からずっと様子がおかしかったらしい。何を聞いても「なんでもない」としか返ってこなかったと。
「今日は、こちらの友だちと食事の予定だから、帰りが遅くなるって……」
夫の声は震えていた。きっと、たくさん心配して、たくさん後悔してるんだろう。
ここでじっと集中治療室の方を見つめる夫に話を聞くのは無理かな。深く探ったりするのは違う。だから、友だちの方にだけ、小さく声をかけた。
「ちょっとだけ、お話、聞けますか……?」
彼女は一瞬だけ夫の方を見たあと、こっそり立ち上がってくれた。
病院の廊下を少し歩いたところで、私は事情を話す。
さくらさんの後輩というのはウソで、白楼さんの代わりに来たってことを。
もちろん時間ループの事は言わない。でも、さくらさんのことを知りたいという気持ちは伝えた。
白楼さんの名前を出すと、白楼さんの事を知ってる様子だった。彼女は少しの沈黙のあと、ぽつりぽつりと話し出した。
「そっか。白楼さんの。彼、元気にしてる?」
「元気はなさそう。なんか疲れてます」
「そう。……さくら、ね。今は彼と結婚してるけど、本当に愛してるのは別の人だったんだって」
「……え?それってまさか」
「ごめん。白楼さんじゃないんだ。白楼さんと出会う前に付き合ってた人。その人とは結ばれなかった。色々事情があって。でも、その恋を忘れるために、白楼さんと付き合ったって、さくらが言ってた」
「え?その人の代わり、に?」
「うん、最初はね。寂しかったからって。白楼さんの事は好きでも何でも無かった。ただ話しかけられて知り合って、ごはんとか行くようになって、無害そうだから付き合ってあげたって」
むかっとした。何様? そんなの白楼さんが可哀想だ!
「でも、付き合ってみたら、すごく優しくて、不器用で……なんかね、“お父さんに似てる”って言ってたよ」
「お父さん……?」
「うん。さくら、お父さんをすごく大切に思ってた。でも、お父さんはさくらが学生の頃に、急に事故で亡くなって……。それで、どこかで重ねちゃったのかもね。白楼さんに」
私は何も言えなかった。白楼さんがお父さん? ちょっとわかる気もする。でも、今は耳に入ってくる言葉をひとつひとつ噛み締めていた。
「でも、罪悪感があったみたい。男性として好きじゃないのにって。白楼さんのことを大切に思ってるからこそ、このままの関係じゃだめだって思って、ちゃんと気持ちに整理をつけたくて、別れたみたい。でも……本当は、ずっと気にしてたみたい」
「……」
何処までも勝手な人。こう言ったらなんだけど、白楼さんもなんでそんな女を好きなったんだか!
「今日は、お父さんの命日だったの。仕事を休んでお墓参りに行ったって聞いたよ」
「え?でも旦那さんは……」
「黙って行ったみたい。なんかお父さんとは一人で会いたいからって言ってたけど、私もちょっとよくわかんないかな」
なんか、今の夫との間に溝のようなものがあるんだろうか。優しそうな人だったけど、パッと見ては、わかんないもんね。
「それで、夜はカフェで待ち合わせてた。そこは良く行くカフェなんだけど、一人じゃ気が沈むから、一緒に行って話を聞いてほしいって言われたの」
そのカフェが、事故の起きた場所のすぐ近くだったってことか。
さくらさんの気持ち、白楼さんの気持ち――それぞれがずっと、胸の中に未完のまま残っていた。
聞けば聞くほど、胸の中がざわざわと落ち着かなくなっていく。
さくらさんが、白楼さんと付き合ってた理由。そんなに深く想われていなかったという事実が、思った以上に胸を締め付けた。
(今、必死に生きようとしてるさくらさんには、悪いけど……。でも、彼女は彼にふさわしくないって思う。白楼さんを傷つけて、何がしたいんだろう?)
自分でも驚くほど強い感情が込み上げてきて、悔しさとも悲しさともつかない気持ちが溢れる。
でもそれと同時に、私は心に決めた。
(白楼さんが辛かったこと、悲しかったこと、全部私が癒すんだ。彼を絶対にひとりにしない。さくらさんができなかったことを私がやる)
もう引き返せない。私は、自分がどれだけ彼を想っているかを、改めて強く実感していた。
「……ひとつだけ、いいですか」
彼女が頷くを見て、私は勇気を出して尋ねた。
「さくらさんって、白楼さんの電話、着信拒否してましたか?」
友達は、ふふっと笑って首を横に振った。
「してないよ。しようか悩んだけどできなかったって言ってた。白楼さんには連絡は取らないでって言ったけど、ほんとは連絡を待ってたみたい」
私は思わず、胸の奥が熱くなった。
――まだ、つながってたんだ。
白楼さんが信じていた"奇跡"は、ちゃんと残っていた。
これで、準備は整った。
さくらさんを助ける方法は、きっとある。
私はループして、白楼さんの待つあの公園へ戻る。
[白楼]
いつものように、ループが始まる。
もう何度目になるんだろう。ループして、電話して、戻されて、また電話して。結果はいつも同じで――。
「待ってたよ」
いつも座ってるベンチの隣に、依波が待っていた。
小さな体を丸めながらも、どこか自信ありげに胸を張って、俺のほうを見てニッと笑った。
「遅いよ。ループする前の白楼さんに、すっごい変な顔された」
「なんだ、ループ前の俺に会ったのか。何も知らないんだから、おじさんが君のような美しく若い女性に近づかれたら、そりゃ、どぎまぎするだろう?」
依波はなんだか、ニヤッとして「美しいって」とか呟いてる。
「……どうだった?東京は」
そう尋ねると、依波はうなずいて、まっすぐに俺の目を見て言った。
「いろいろわかったよ。残念だけど、事故に遭ったのは、やっぱり白楼さんの知るさくらさんだった」
「やはり、そうだったか」
「病院で治療を受けてた。私のループの時間内では、治療が上手くいったのか、確認できなかった。ごめん」
「そうか。――そう、か」
「それとね。先に言っておく方が心の準備ができると思うから言うけど、さくらさん、結婚してた」
「ああ。知っている」
「……え?知ってたの?」
「ああ。実は、共通の友だちから聞かされてた。だから、お前も未練を断ち切れよって」
「……そっか。でも、白楼さんのことも気にしてたみたいだよ?」
それだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。
もう一度会えないって分かっていたし、彼女が別の道を選んでいることも理解していた。だけど、まだどこかに"気にかけてくれていた"という事実が、救いだった。
「それでね――さくらさんの電話に、白楼さんの電話で、電話してみてほしい」
「……俺の電話で?」
「そう。あのね、着信拒否、されてなかったんだよ。ずっと繋がる状態だったの」
「……マジで?」
思わずスマートフォンを見つめる。繋がる? ずっとそうだったのか? じゃあ、なんで今まで――。
「公衆電話じゃダメだったの。白楼さんは無駄なことをずっと繰り返してた。奇跡はずっと、白楼さんが握ってたのに」
――奇跡って、そういうもんだよな。なんか、不思議と納得できた。
「でも、なんて言えばいい? 事故に遭うぞ、って? 信じてもらえないんじゃないかな」
依波はちょっとだけ困った顔をしてから、こう言った。
「こう言うの。"俺も彼女ができて、結婚することになった"って」
「え、彼女?結婚?どうしてそんな嘘を?」
「いいから、言うの。気持ちの整理をつけさせてあげるの。白楼さんが幸せになってるって伝われば、さくらさんの"何か"が変わる。きっと」
「……そうか。君なりに考えたんだな」
「うん。自信あるよ」
そう言って、依波はちょっと得意げだった。
俺はゆっくりと息を吸って、スマートフォンを操作する。
何度も消そうと思った番号は……まだ残ってる。何度も押そうとして押せなかった名前だ。
何万回繰り返してもなお、さくらに電話する勇気だけはなかった。
もし怒鳴られて嫌われても、またリセットされて関係なくなるってわかってるのに。
それでも魂が恐れて、指が震える。
「ほら!」
依波が代わりにタップしてしまった。
呼出音が鳴る。心臓が、バクバクと跳ねる。
――そして。
「……もしもし?」
彼女の声だった。
「さくら?」
「白楼? え、なんで……。どうしたの?」
「すまない。連絡するなって言われてたのに。どうしても伝えたいことがあってな。今、話して大丈夫か?」
「う、うん。良いよ。大丈夫。私も連絡するな、なんて言わなきゃよかったって後悔していたから。――それで、伝えたいことって?」
「ああ。――あ、そうだ。結婚したって聞いた。おめでとう」
「あ!うん、ありがとう!誰から聞いたの?」
「ヒロシのやろうさ、お節介にも"とどめをさしてやるよ"って呪い付きでな」
「そっか。あいつか。もう……」
「仕事、忙しいのか?また働き過ぎてストレス溜めこんで飲み過ぎてないのか? いつだったか、飲み過ぎて泣きながら「助けて!」って電話して来て――」
「もう!黒歴史を思い出さないで。……大丈夫だよ、さすがに結婚してから飲みに行ってないよ!」
「そうか」
「白楼は、どうなの?白楼こそ、仕事、忙しくない?ちゃんと食べてるの?」
「俺のかあさんかよ。大丈夫、なんとかやってるよ」
「白楼って、食べなくなるとマジで何にも食べないからね。仙人か!って思ってたよ」
横でじっと聞いていた依波が袖を引っ張り「はやくいえ!」と口を動かす。
「どうしたの?」
「わるい、つい。久しぶりだから、話が尽きないが、本題に入れと怒られた」
「ふうん?もしかして、彼女?」
「ああ」
「え?ほんと?」
「……俺さ、彼女できたんだ。もうすぐ結婚する」
数秒の沈黙のあと、彼女は笑った。
「あは……そっか!そうなんだ!……良かった。ほんとに、良かった……」
「……うん」
「私ね、ずっと気になってたの。ごめんね。ちゃんと話せなくて。別れ方、すごく酷かったよね。でも、良かった。本当に……」
「なあ、さくら。伝えたい事は別にあるんだ」
「え!ちょっとまって!もうすでにお腹いっぱいなんだけど!」
「今日はまっすぐ家に帰ったほうがいい」
「……え、どういうこと?」
「今日、お父さんの命日だろ。お前は決まって、今日はあのカフェに行く。お父さんとの思い出の場所に」
「うん……。白楼ともよく行ってたもんね、お見通しか」
「でも、今日は行くな。それを伝えたかったんだ。ずっと、な」
「ずっと?」
「理由は聞かないでくれ。俺は――」
「わかった」
「……え」
「白楼が言うなら、そうする。……言ったことないと思うけど、白楼ってお父さんにそっくりなんだ」
「言ってたよ」
「あれ、言ったっけ?」
「ああ。自分の酒癖の悪さを呪え。お前の事で知らないことは何もない」
「うざ。……でも、うん。だから白楼の言葉はお父さんの言葉って気がする。お父さんのお墓参りに行った帰りに、白楼から電話もらってドキッとしたもん」
「たのむ」
「うん、まっすぐ帰るよ。カフェに友だちをつき合わせて愚痴るつもりだったけど」
「伝えたいことは、それだけだ。じゃあな」
「え、待って。もうおしまい?」
「ああ。元気でな。幸せになってくれ」
「うん、白楼もね。彼女、隣にいるんでしょ?大切にしてあげて?」
「ああ。じゃあな」
「うん、バイバイ」
通話が切れると、俺はそのままスマホを胸に置いて、しばらく黙っていた。
まるで、自分の中の何かが、ふわっと軽くなるのを感じた。
隣で依波がにっこりしている。
「これで、さくらさんは助かるよ」
「ああ。ようやく。……ようやく、伝えられた。まっすぐ帰るって言ってくれたからな。もう心配いらないな」
「長かったね。そのことを伝えるのに、何年も電話し続けて」
「ああ。長かった」
俺は、ずっと震えていた。手が。肩が。心の奥が。
「……ようやく電話がつながった」
その言葉が、喉の奥で震えながら漏れた。
「うん」
依波の声が、隣から優しく届く。
それだけで、涙腺が緩む気がして、俺は視線を空に逸らした。見上げた夕焼けは、いつもと同じ色をしていた。だけど、まるで別の世界に見えた。
「なあ、依波」
「うん?」
「こんなにも、何年も、何万回も、諦めずに電話して……やっとつながったっていうのにさ」
「うん」
「いざ、声を聞いたら、俺……何も言えないんじゃないかって思ってたよ」
「言ってたじゃん。まっすぐ帰れ、って。それが一番大事だったんでしょ?」
「……ああ、そうだな」
口元が自然と緩む。
今にも泣きそうな気持ちを、どうにか笑顔に変えようとするように。
「なあ、依波。俺、助けられたんだな」
依波が、ふっと目を見開いて、静かに頷いた。
「そうだよ。さくらさんが助かっただけじゃない。白楼さんも……助かったんだよ」
「そうなのか……」
ああ、ほんとにそうなんだな。
ずっと閉じ込められていた気がしていた。
いや、俺を閉じ込めていたのは、俺自身だったのかもしれない。未練とか、後悔とか、取り返せなかった時間とか――そういうもので心を縛りつけていた。
「こんな日が来るなんて、思ってなかったよ。永遠に繰り返すこの世界で、俺は永遠につながらない電話をし続けるんだと思ってた」
「うん」
「お前のおかげだよ。依波。……本当に、ありがとう」
そう言った俺の声は、驚くほど素直だった。何の見栄も、照れもない。ただ心からの感謝だった。
依波はちょっとだけ目を伏せて、照れくさそうに笑った。
[依波]
白楼さんは、ずっと空を見上げてた。
夕暮れの空はオレンジから群青へとグラデーションしていて、春の風が公園の木々を揺らしている。ベンチに座るその背中が、やけに寂しそうに見えた。
事故は回避された。さくらさんは助かった。彼女への想いにも、きっとひと区切りがついた。
……でも、白楼さんの表情は、どこか浮かない。
「白楼さん?」
声をかけると、彼は振り返った。笑っていたけど、目の奥は笑っていなかった。
「ありがとうな。依波のおかげで、おじさんはようやくひとつ前に進めた」
「まだ“おじさん”って呼んでるんだね」
「ん?そりゃまあ……」
「ちょっとくらいカッコつけたっていいんだよ?」
そう言って、私はちょっとだけ笑った。
でも、そのあと、何かに導かれるように、私のスマホが――そして、白楼さんのスマホが――同時に、音を鳴らした。
「ピピピピッ……!」
慌てて画面を見る。そこにはまた、あの見覚えのある絵が表示されていた。
男女がキスしている、あのシルエット。よくよく見たら、私と白楼さんのようにも見えてくる。
そして、メッセージ。
『心が真に信じたとき、世界はそれを事実にする』
――ああ、またこれか。
まるで、どこかで私たちのことを見てる存在、白楼さんの言う世界の管理者かシステムエンジニアが、急かしてるみたい。
前にこの画面を見たときは、怖くて、嫌悪感が込み上げて、逃げ出してしまった。
でも今は、まったく違う。
白楼さんが隣で、スマホをじっと見つめている。
「……またか」
「うん。まただね」
「しかし、試すわけにもいかないし、どうしたものか――」
「……試してみる?」
私がそう言うと、白楼さんは目を丸くして、びっくりしたようにこっちを見た。
「え?いいのか……?」
「だって、ループを終わらせないと、白楼さんはずっとさくらさんに嘘の結婚報告し続けることになるじゃん?」
「……ああ、必死にそれを考えないようにしてたよ」
彼は、ちょっと苦笑いを浮かべた。
「だから、さ。試してみよ?ループから抜けたらもうけってことで」
「……でも、君は……」
「もう、いいから!するの?しないの?」
「……する。世界がふたたびループする前に」
私たちは、顔を見合わせた。
まっすぐに。逃げずに。
夕暮れの光の中で、誰もいない公園のベンチで、二人だけの小さな世界があった。
視線が絡み合うと、胸の鼓動が高鳴って、もう自分の気持ちをごまかせなかった。
(好き。はじめて会った時はただの知らないおじさんだと思ったのに……もう、こんなにも大好きになってる)
胸に溢れる想いを押さえ込んで、私はそっと目を閉じた。
そして――口づけをした。
それは、激しくもなければ、演出がかったものでもなかった。ただ、静かで、優しくて、あたたかかった。
言葉よりもずっと深く、想いが通じ合った気がした。
唇が離れても、私の中には不思議なくらいの安堵があった。
それと同時に、なにかが変わった気配がした。
まるで世界の重力がふっと軽くなるような、不思議な浮遊感。
風の音が、すこし遠くなった気がした。
「これで、終わるのかな?」
私がぽつりと呟くと、白楼さんはゆっくりと頷いた。
「もし、ループが終わるとして。君が、どこかへ消えたりしないなら――」
「しないよ」
そう、私は即答した。
「絶対に、ここにいる。これからは」
白楼さんは、何かを飲み込むように、ゆっくりとうなずいた。
スマホの画面は、まだ光っている。
でもそこにはもう、キスのシルエットは映っていなかった。
ただ、真っ白な画面と、ひとことだけ。
『ありがとう』
私は、白楼さんの手をぎゅっと握った。
ループが終わるかどうかなんて、もうどうでもよかった。
大切なのは、今ここに私がいて、私を認めてくれる存在があって、その想いが、確かに繋がっていること。
[二人はこたえあわせをしました]
「ねえ、しろうさんのこと、もっと教えてよ」
「え? 俺のこと……?」
「うん。年上の人って、何考えてるか分かんないし。どんな恋愛してきた? とか。どんな恋愛をしたいのか? とか」
「いや、そんなの考えたこともないよ。まあ、仕事ばっかりしてたかな」
「さくらさんにはしろうさんから声かけたって聞いたよ。ナンパ?」
「ナンパするつもりで話しかけたわけじゃなかったよ。ただ、心配になって、な」
「失恋で落ち込んでるさくらさんが、ってこと?」
「いや、酔っぱらって繁華街近くの公園でパンダの遊具に泣きついてる女性を見て、放っておけないだろ」
「うわぁ。さくらさん、お酒が好きなんだね」
「好きというより、あれは酒に憑りつかれてるるレベルだ」
「そのあと、付き合うようになったの?」
「まあな。あいつはまるで、自分の寂しさを察知するとふらりと寄ってくる猫のようだった」
「あー。そういう人いるよね」
「それがあの頃の俺はわかってなかったんだ。突然「今からごはん行こう」と言ってくるからごはんに行く」
「うんうん」
「でも、会ってる間中ずっと甘えてくるわけじゃない。どこかよそよそしくて、でも少しだけ腕に寄りかかってきたりする」
「わかる!そういう人いるよね。期待させるのに、絶対触らせない!って感じだ」
「ああ。分かるか?」
「うん、なんか分かる」
「それで、気を許してるのかと思えば、翌日には既読無視。「また行こう」って送っても返事はない」
「うわぁ」
「数日後、こちらが忘れかけた頃に、まるで何もなかったようにまた連絡が来る。「おなかすいたー。ごはんつれてって?」と」
「しろうさん、それ、付き合ってなかったんじゃない?」
「それが、な。俺もそう思って、付き合う気がないなら、もう会わないって言ったことがあるんだが」
「おー。言ったんだ」
「泣きながら全力で引き留めるんだ、そんなこと言わないで!あなたが必要なの!って」
「……なんで、そんなのに振り回されてたの?」
「たぶん、あの頃の俺は必要とされてるって感覚に飢えてたんだ。寂しいってアピールされると、助けなきゃって思って。あいつの居場所になろうとしてたんだと思う」
「なるほど。……それはしろうさんの優しさなのかもしれないけど、ね。私の事も含めて」
「じゃあ、今度は俺から。いなみのこと、教えてくれよ」
「え、なにそのざっくりすぎる質問。どうすればいいの?血液型?好きなアイスの味?」
「いや、あの……そういうのでもいいし。どういう子だったのかな、とか」
「そういうの聞いてどうすんの?いや、いいけど……。んー、昔は本ばっか読んでて、今はアニメばっかり見てる」
「今は学生か?」
「ううん。コンカフェで働いてる」
「コンカフェ?」
「しらない?行ったことない?わかりやすくいえば、メイドカフェとか」
「あー。行ったことは無いな。ようは、カフェ店員ってことか」
「あ、ちなみに恋愛経験はゼロです。聞きたかったでしょ?」
「いや、べ、別に……!」
「ほら、顔がニヤけてる。やっぱり“おじさん”だ……」
「ねえ、真面目なこと聞いていい?ループが終わった後の世界で、もう一度、さくらさん”と会えるとしたら……会いますか?」
「いや。会わないよ」
「どうして?」
「彼女が無事に生きていて、幸せでいてくれるなら、それでいい。って格好つけたようなことを言ってるが、正直……」
「なに?」
「無限ループする世界で電話をかけ続けるよりも、あいつと関わる方が不毛だって気づいたんだ」
「なにそれ」
「いなみが言うように、あれは本当の恋人じゃなかったのかもしれない。オレには恋愛は無理なんじゃないかな」
「……そうやって、自分で決めつけるのって、もったいないよ」
「もったいない?」
「たった一回や二回、うまくいかなかっただけで“恋愛は無理”とか……そんなの、恋のぜんぶじゃないでしょ?」
「……」
「恋愛って……失敗とか成功とかじゃなくて、目の前にいる人と、ちゃんと向き合うことじゃないの?」
「そうか……。そうだな」
「……ほら、今みたいに」
「え?」
「昔の誰かと、うまくいかなかったからって、今の誰かまで見ないふりするの……ちょっと、寂しいよ」
「……いなみ」
「私は、ちゃんと見てるのに。しろうさんのこと。……しろうさんも、私を見てよ」
「ああ。すまん」
「あやまるのも違う!」
「ねえ、しろうさん。これから世界はどうなるの?」
「ああ、気づいてるかもしれないけど、世界は確実に変わりつつある。難しいことは俺もわからないが、世界に何かが起こったのは間違いない」
「何かって?」
「太陽が西からのぼって、東に沈むようになった」
「は?」
「それでいて、地球環境への影響は驚くほど微小だそうな。まるで地球は最初からそうだったみたいに」
「どうなってんの?」
「さあ? たぶん、世界のシステムエンジニアが徹夜でどうにかしたんだろ。ご苦労様なことだ」
「……いなみ」
「なに?」
「聞いておきたい。この変わってしまった世界で、君はどう生きたい?」
「おおげさ!生きたいとか考えて生きてないよ。今日はしろうさんと何食べようかな?くらいで十分でしょ?」
「君らしいな」
「まあ。どんな世界になっても、しろうさんが一緒なら、大丈夫。しろうさんの背中があれば、きっと乗り越えられる。だから――一緒にいてね」
「ああ。約束する」