22.暗闇、そして銀狼を模す男
姿を現わにしたその男を見て、エレナは一瞬だけ息を呑んだ。
灰のようにくすんだ色の髪に、同色の瞳。漆黒の外套に包まれた長身の痩躯は一見して線の細い印象を受けるが、その体から放たれる威圧感は明らかに常人のものではなかった。
月明かりを受けギラリと怪しく光る灰の目と口元から覗かせた八重歯が獰猛な銀狼を彷彿とさせるその男は、外套を旗めかせながら地面に降り立つと、ゆったりとした足取りで先ほど、エレナに警告を発した兵士の元へと歩み寄っていく。そして──
ザグッ゛!!
兵士の傍らに落ちていた両刃の剣を無造作に拾い上げると、何の躊躇もなく男の胸に刃を突き立てた。
「アァッ!?」
「な──!?」
突然の出来事に呆然と立ち尽くすエレナ。その眼前で声にもならない声を漏らしながら数度ビクンビクンと体を痙攣させた兵士は、やがて糸が切れた人形のようにガクリと脱力すると、そのまま二度と息を継ぐことは無くなるのだった。
「‥‥‥ふむ、この程度か」
男は興味を失ったように呟くと、返り血を浴びたことで一部が赤黒く染まった灰の髪を揺らしながら、再びエレナへと向き直った。
「あ、あなた‥‥‥一体、何を‥‥‥」
目の前で繰り広げられた凄惨な光景を未だ受け入れられずにいるエレナは、動揺で震える声音を必死に抑えながらそう問いかける。
「なに、見ての通り何の力も持たない無力な虫如きが、不遜にもこの俺に牙を剝いたのでな。駆除したまでだ。それとも何だ? お前は自らの周りをウロチョロと飛び回る羽虫も見逃すお人好しなのか? エレナ・ソングレイブよ?」
(──ッ!? コイツ、私のことを‥‥‥)
エレナは男の口から自分の名前が飛び出してきたことに一瞬肩を震わすが、すぐに冷静さを取り戻すと、動揺を悟られないよう表情を取り繕う。
すると目の前の男は、まるでエレナの心の内を見透かしたかのように邪な笑みを浮かべると、なおも超然とした態度で語りかけてきた。
「そう驚くことでも無いだろう? 有史上二人目の《全属性持ち》であるエレナ・ソングレイブと言えば、この国の人間なら誰もが知っている名前だからな」
「あらそう? でも、私としてはそんなの煩わしいだけだから別にどうでもいいんだけどね。それより、貴方たちは何者? 何のために私たちを攫おうとしているの?」
「……なぜそれを知っている?」
今まで無機質で一切の感情を覗かせなかった男の瞳が僅かに揺れ動いたのを、エレナは見逃さなかった。そして同時に確信する。やはり、目の前の男こそがレクスと手を結び、クラスメイトたちを襲撃した集団の親玉なのだと。
「おしゃべりな誰かさんが教えてくれたのよ。ちなみにだけど、その協力者さんは、今私の友達が対処してくれているわ」
エレナは今も樹海のどこかで戦い続けているであろうレイコルトの安否を気に掛けつつも、目の前の敵に集中する。
「チッ、あのバカが。余計なことを言いやがって……」
「それで、貴方たちの目的は一体何なの?」
「答える義理はないな」
「そう。なら、力尽くで聞かせてもらうことにするわ」
「ほう。随分と強気に出たものだな。所詮──」
男が次の言葉を口にしようと息を継いだ瞬間、エレナは地面を強く蹴りつけると一気に距離を詰め、右手に握った刀を斬り上げた。
息を吸う瞬間という、最も無防備になるタイミングを狙った一撃。何の情報もない相手には少々無謀ではあるが、目の前の男が並外れた実力の持ち主であることだけは明白。故に、多少のリスクを負ってでも先手を取る必要があったのだ。
そして、その判断は功を奏したのか、エレナは自らの放った一閃が敵の首筋を捉えたと確信した瞬間──
「──魔導士の端くれにも満たない奴が」
エレナの紅い眼に映り込んだのは、不敵に吊り上げられた口角とむき出しの刃のような鋭い瞳。そして無造作に振るわれた一振りの剣だった。
「‥‥‥ッ!?」
刹那、エレナはまるで自分の中に流れる時間が何倍に引き伸ばされたような奇妙な感覚に囚われると同時に、これまでの過去の記憶が脳内を駆け巡った。それはまるで人が死ぬ間際に見るという走馬灯のようであり、そして──
「《神速強化》」
男がポツリと呟いた直後、視界いっぱいに広がっていく銀色の閃光。次いでエレナの体は凄まじい衝撃と激痛に襲われた。
「──ッ!?」
あまりの痛みに声を上げることすらままならず、吹き飛ばされたエレナは地面に激しく叩きつけられると、ゴロゴロと転がっていく。
「‥‥‥くっ‥‥‥ぁ‥‥‥!」
数メートル程転がり続けたところでようやく停止したエレナは、腹部から伝わる強烈な熱と激しい痛みによって初めて自分が斬られたという不可逆的事実を自覚する。
(何‥‥‥が‥‥‥起こった、の‥‥‥?)
朦朧とする意識の中、傷口に視線を向けるとそこには深々と刻まれた刀痕があり、止めどなく鮮血が流れ出していた。
「‥‥‥ぐっ‥‥‥はぁっ‥‥‥はあっ‥‥‥」
息を吸うたびに走る鋭い痛み。もはや立ち上がることさえ困難な状況の中、エレナはどうにか上体を起こそうと全身に力を込めるが、体が言うことを聞いてくれない。しかし、そんなエレナのことなど意に介した様子もなく、男はまるで散歩でもするかのように悠然と歩み寄ってきた。
「確実に捉えたと思ったのだがな。咄嗟に刀の軌道を変えて受け止めることで即死だけは免れたか」
そう、エレナは男の刃が胴体に届くギリギリの所で刀を滑り込ませることに成功し、辛うじて直撃だけは避けることに成功したのだ。
だが、それでもエレナの受けたダメージは決して小さくはなく、刀身は衝撃に耐えきれず半ばから砕け散り、エレナ自身も意識を繋ぎとめるだけで精いっぱいの状況だった。
「‥‥‥はあ、‥‥‥はあ、‥‥‥はあ」
「どうした? なぜ回復魔法を使わない? よもや使えないわけでもあるまい。さっさと傷を癒せ」
息も絶え絶えな様子のエレナに、男はどこか不思議そうな表情を浮かべながら問いかける。先ほど王国騎士団の兵士たちに回復魔法を施そうとしていた姿を灰色髪の男は見ていたため、なぜエレナが一向に魔法を行使しようとしないのかが理解できなかったのだ。
「‥‥‥ふぅ、‥‥‥はぁ、‥‥‥」
対するエレナはというと、ただただ荒い息を繰り返すばかりであり魔法を使おうとする素振りをすら見せない。いや、むしろ魔法を使うことを拒んでいるかのようであった。
なぜなら、それこそエレナが自分自身に課した戒めであり、才能という鎖に縛られたエレナが唯一できる抵抗であったから。
自分のためだけには魔法は使わない。もしここでその戒めを破ってしまえば、エレナは戦いだけではなく、己の運命にすら敗北したことになる。それだけは、絶対に嫌だった。
全身を襲う苦痛に悶えながらも、せめてもの抵抗としてエレナは強く視線を尖らせるが、男はそんな様子を嘲笑うかのように鼻を鳴らすと、灰色の瞳を妖しく輝かせながらゆっくりと歩み寄ってきた。
そして、エレナのすぐ目の前まで来ると男はしゃがみ込み視線を合わせてくる。その距離わずか数十センチメートル。互いの視線が絡み合う中、エレナは逸らすことなく男を睨み続ける。そして──
「ふっ、そういうことか」
「──ッ!?」
男が不意に口元を歪めた途端、エレナの全身をたとえようのない悪寒が駆け巡った。それは言うなれば、今まで大切に隠し続けていた心の奥底を覗かれたような、そんな感覚。
(いや、やめて! 私の心の中に、入ってこないで‥‥‥っ)
エレナは咄嗟に男の視線から逃れようとするが、まるで金縛りにあったかのように体が動かない。そんなエレナの心の内を悟ってか知らずか、男はさらに言葉を続ける。
「なるほどな。ただ単に意地を張っているだけかと思ったが‥‥‥くくくっ、まさかこんなくだらない理由とはな」
「くだら‥‥‥ない? ‥‥‥私は、ただ‥‥‥」
男の嘲りを含んだ物言いに、エレナは無意識のうちに声を震わせていた。
「ああそうだ、くだらないとも。本当の自分を見てもらいたい? ハッ! 笑わせるな! 本当は分かっているんだろう? 誰もお前のことなど見てはいないと! どれだけ努力を積み重ねたところでそんな者が現れるはずがないと!!」
「……ッ!」
男の言葉は、まるで鋭い刃物のようにエレナの心を抉っていく。それは、エレナが今まで必死に否定しようとしてきた現実であり真実であった。
「やめ‥‥‥て‥‥‥」
エレナはまるで小さな子供のように消え入りそうな声で拒絶の言葉を呟くが、男は止まらない。
「いい加減認めて現実を見ろ。誰も本当のお前を必要となどしていない。有象無象の大衆が求めているのは《全属性持ち》のエレナ・ソングレイブであって、お前ではない」
男はそこで言葉を切ると、まるで憐れむような視線をエレナに向けた直後、口元には再び嘲笑を浮かべる。そして──
「お前はこれからも、孤独だ」
「‥‥‥ぁ‥‥‥ぁ‥‥‥っ、」
その瞬間、エレナの中で何か大切な物が崩れ落ちていく音がした。
それはエレナが必死に守り続けてきたもの。誰にも話せず、誰にも頼れず、それでもエレナが独りで戦い続けるために必要だった最後の依り代。
だがそれは今、他でもない目の前の男によって粉々に打ち砕かれてしまった。ひとさじの救いを求めて伸ばした手は誰にも届くことなく、エレナはただ独り、闇の中へと沈んでいく。
いや、男の言う通り本当は分かっていた。心のどこかでは理解していたのだ。自分が本当の意味で受け入れてもらえることは決してないと。
だが、それでもエレナは希望を捨てきれなかった。いつか自分を理解してくれる人が現れてくれると、そう信じて戦い続けてきた。
しかし、そんな淡い希望も今ここで完全に打ち砕かれてしまった。
(私‥‥‥馬鹿みたい‥‥‥)
エレナは心の中で呟くと、そっと目を閉じる。支えを失い、ぽっかりと空いたエレナの心の穴には諦観という真っ黒な泥が流れ込んできた。
もはや何もかもがどうでもよくなった。自分が今まで何のために頑張ってきたのかも分からなくなり、この先、何を頼りに生きていけばいいかもわからない。ただ一つだけ分かることは──自分はここで死ぬということ。
でも──
(レイ、大丈夫かな‥‥‥)
エレナが最後に思い浮かべたのは、初めて自分の心の内を曝け出すことができた一人の少年の姿であった。
最初はただの好奇心のつもりだった。自分と同じく刀を持った稀有な存在。それがエレナにとってのレイコルトに対する第一印象。
それからレイコルトが《忌み子》だと知り、それでもなお諦めることなく前を向いて生きている姿にいつしかエレナは強く惹かれるようになっていたのだ。
だからこそエレナは、もっとレイコルトのことを知りたくなった。そしてそれと同じくらい自分のことを知ってほしいとも思った。
少々強引ではあったが一緒に出掛ける約束も取り付けて二人で街へ出かけたりもした。当日は何でもないように振る舞っていたと思うのだが、前日の夜はあーでもない、こーでもないと服のコーディネートに悩み、眠れなかったのをよく覚えている。
(もっと、あなたのことが知りたかったな‥‥‥)
まだまだ聞きたいことも、一緒に行きたい場所もやりたいこともたくさんあった。だが、それも全て終わりを迎えようとしている。
「‥‥‥眠れ、大賢者の模造品よ」
灰色髪の男は逆手に持った剣を振り上げると、そのままエレナの頭上目掛けて突き刺すように振り下ろしてくる。
(ごめんね、レイ。‥‥‥ありがとう)
心の中で謝罪と感謝の言葉を告げた瞬間──
「ハァァァァァァァァッ!!」
「ッ!?」
突如として響き渡った叫び声と共に、エレナの目の前に一つの人影が躍り出た。
現れたその人物はエレナに向かって突き下ろされようとしていた剣を自らの刀の腹で受け止めると、そのまま力任せに弾き返す。
灰色髪の男は突然の乱入者に一瞬、目を見開きながらも後方へと飛び退くことで体勢を立て直すことに成功する一方でエレナはその乱入者を視界にとらえた瞬間思わずといった様子で息を飲んだ。
なぜならその人物は、エレナが最も会いたいと願っていた人物だったからだ。
エレナは信じられないとばかりに大きく見開いた瞳で、目の前の人物を見据える。そこには──
「レ‥‥‥イ?」
「ごめん、遅くなった」
そこには、全身ボロボロの状態ながら、いつもと変わらない柔和な笑みを浮かべているレイコルトの姿があった。
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