下ノ巻 「白狐の一刀、巨岩をも断つ」
そしていよいよ、私達母娘に好機が訪れた。
美しい円を描く満月は今や一片の薄雲に邪魔される事なく、この秋の嵐山の夜空に輝いたのだ。
「貴女にもお分かりでしょう、月光を浴びた己の中で白狐の力が猛々しく躍動するのを。その力を解放なさい、花之美!」
「承知仕りました、母上!天地玄妙、神変転身狐!」
少しの淀みも乱れもなしに切られた、先祖伝来の神道九字。
その刹那に空気が揺れ、花之美の未成熟な五体が弓なりに反り返った。
「おおっ…おおおおっ!」
鋭敏に研ぎ澄まされていく感覚器官と、猛々しい獣性を遺憾なく発揮出来るように最適化されていく関節系と体幹。
自身の身体を急激に作り変えていく力の奔流を味わう我が娘の姿は、正しく凄絶無比の一言だった。
然しながら、大きく開いた口から迸る絶叫に苦悶の声色は微塵も含まれていなかった。
「おおっ、おおおっ!!」
代わりに聞き取れるのは、野性味溢れる猛々しい唸り声。
全身に漲る神獣の力を存分に発揮出来る事への、期待と歓喜に満ち溢れた雄叫びだった。
「細胞配列をも組み替える狐憑きの術を難無くこなせるとは、流石は深草家の一族。とはいえ転身の際に殊更に叫ぶのを見るに、その技術習得は未だ荒削り…万一に備えるのが賢明ですね。」
我が子の現状を確認すると、私は静かに精神を統一させた。
「天地玄妙、神変転身狐。」
神道九字を唱える際の精神が統一されていく実感も、その次に訪れる力の奔流が荒れ狂う感覚も、若かりし頃より白狐の力を指摘して戦ってきた私には慣れ親しんだ物だった。
四肢の関節がミシミシと軋み、全身がカッと熱くなる感覚も、実に心地良い。
やがてゾワゾワと総毛立つような感覚が頭頂部の辺りを刺激し、重力を無視して逆立った銀髪が狐の耳を思わせる形状に硬化した時、私は白狐転身の秘術が無事に完了した事を実感した。
「花之美…どうやら貴女も、つつがなく転身出来たようですね。」
「はっ!御覧の通りです、母上!」
見れば花之美も私と同じく、白銀に輝く狐耳を頭頂部からニョッキリと生やしていた。
転身の最中は剥き出しの状態だった荒々しい獣性も、今は神狐の理性と人間の心によって正しく手綱を取られたらしく、年齢不相応の神々しい落ち着きを見せている。
理性が獣性に屈伏した末の、錯乱と暴走。
私が危ぶんだその「万一」は、どうやら杞憂に終わったらしい。
もっとも、この「万一」も場数を増やせば自然と解決していく物だ。
未だ荒削りながらも、花之美は白狐転身の術を正確に使いこなせている。
それが確認出来たのなら、いよいよ此度の鍛錬の真髄と言うべき秘術の手解きに移るべきだろう。
「今から行う鍛錬は、太刀を用いるのです。さあ、貴女も脇差を取りなさい。」
「承知仕りました、母上!」
私が愛刀を抜刀したのに倣い、花之美もまた脇差を鞘から勢いよく迸らせた。
鯉口を切る手付きから青眼に構える姿勢に至るまで、寸毫の狂いも隙もない。
それだけで、師である私の教えを忠実に守ってくれている事がよく分かる。
「抜刀した脇差の刀身をよく御覧なさい。空から降り注ぐ月光を、美しく反射しているでしょう?この刀身の輝きを脳裏に焼き付けながら、丹田に力を入れて精神を集中させるのです。そうすれば…」
「おおっ!」
花之美が驚きの声を上げるのも、無理はないだろう。
私が丹田に力を入れた次の瞬間、青眼に構えた業物の刀身は三つ頭から刃区に至るまで青白い光を帯びたのだから。
「己の霊力を刀身に込め、業物に霊刀としての力を付与する。これが我が深草家に伝わる白狐刀の極意ですよ。そして、その力たるや…はあっ!」
精神を集中させ、一切の雑念を排除するよう心掛ける。
目指すは只一つ、無念無想にして明鏡止水の境地。
そうして己の心が湖面の如く澄み切ったのを見計らい、私は青白く輝く太刀を頭上まで持ち上げ、真っ直ぐに振り下ろした。
夜の空気が揺れ、衝撃が駆け抜ける。
そうして生じた刀風は一直線に突進し、その先に鎮座する巨岩に深い切れ目を生じさせたんだ。
「おおっ!あんな大岩がザックリと…」
その破壊力の凄まじさに、花之美は両目を見開いて唖然とするばかりだった。
「驚いてばかりでは話になりませんよ。花之美、次は貴女が試みるのです。」
「よっ、よ〜し!まずは月光を反射する刀身の輝きを、シッカリと脳裏に焼き付けて…」
刀の構えも手本通りなら、精神集中に至る呼吸の整え方も申し分なし。
そうして私と同様に脇差の刀身を青白く発光させられたのだから、花之美の飲み込みの早さは親として誇らしい限りだ。
そして霊刀と化した脇差を唐竹割りに振り下ろした次の瞬間、私は素晴らしい光景を目の当たりにしたんだ。
「たあっ!」
裂帛の気合いと共に放たれた刀風は、私の物と全く同じ軌道を進み、件の巨石目掛けて一直線に突き進んでいった。
「おおっ、これは…」
そうして再び衝撃波を直撃させられた巨岩は、先の傷を再び傷付けられたばかりでなく、ザックリと両断されてしまったんだ。
「なっ…」
「おお…」
その余りの光景に、私も娘も声なき有り様だった。
秋の澄んだ月光が照らす城趾には、真っ二つに両断された巨岩が左右に分かれて倒れた時の音が重々しく響くばかりだ。
「や…やりました!やりましたよ、母上!」
「よくぞ修練致しましたね、花之美。初めてでありながら、巨岩を両断しおおせるとは御見事ですよ。」
数秒後に事態を飲み込めた時、私も娘も歓喜に打ち震えた物だった。
目に見える指導の成果と、我が子の確かな成長。
この二つを喜べない親が、果たして存在するだろうか。
「そう言えば…この脇差は未だ無号でしたね。花之美が初めて白狐刀を繰り出すのに用いて、大岩をも両断した。その脇差は今より、『岩喰白狐』と呼ぶのが相応しいでしょう。」
「成る程、『岩喰白狐』…巨岩のように立ち塞がる強敵を両断し、御維新を迎えた我が皇国の未来を切り開く。私も京洛牙城衆の戦巫女として初陣を迎えた暁には、そのような志を胸に戦いへ望みたい所存ですよ。」
どうやら此度の鍛錬において、花之美は秘術の極意を会得するばかりでなく、己の力量の再認識を通じて武人としての心構えを更に強固に出来たのだろう。
師として、そして親として。
秋の月光に照らされながら笑う花之美の成長が、本当に喜ばしい限りだ。
何時の日か、母娘で互いに背中を預け合いながら戦える日が来るのかも知れない。
その時になって娘に遅れを取らないためにも、私もより一層に修練に励みたい所だ。