第二話 ロチアートの少女(4/7)
「印章っ!? ロチアートでもない人間が、どうしてッ」
「どけェッッ!!」
俺は右腕の人ならざる剛力で、上にのし掛かった男を一薙ぎで吹っ飛ばした。そしてゆっくりと立ち上がっていく。周囲にひしめく有象無象のカス共を見下ろしながら。
民達が、鬼でも見たかの様な恐怖を顔に刻み付けているのが見える。
「なんだあいつは!? あの腕は!」
「誰か騎士隊を呼んでくれぇ!」
「くそっ……さぁ早く来いこのロチアート!」
梨理を引きずっていく男に向かって走り、左手でその首根っこを掴むと、黒く染まった掌で正面から顔面を掴んだ。指の隙間から瞳をすくませた男の表情が見える。
「梨理に触れるな――悪魔共!!」
男はギリギリと顔を圧縮されていくのに合わせて、次第に顔面を紅潮させていきながら、やがて狂った人形の様に繰り返した。
「イタ! いたいいたいイタイイタイイタイッッ!!!」
――グシャリという音と共に、梨理の腕を掴んでいた力が弱まる。
梨理は自分の腕を掴んでいた男の顔面が黒い掌でもって潰され、血飛沫を上げているのを唖然と見上げていた。
「こっ……殺しだぁ! 人殺しだ!」
阿鼻叫喚の民衆が蜘蛛の子を散らしていく。その姿を忌々しく見返しながら、俺の語気は荒くなっていた。
「何が人殺しだ! 赤い瞳の人間を当然のように殺して喰う、お前らと何が違うッ!」
パニックとなった民は俺の言葉など聞いていない。皆が蒼白となって、自らの身を守る事以外の一切を考えられなくなっているのだとわかった。
だが一人、その場に留まっていた青年が、こう俺に言い残して走り去っていく。
「お前こそ人を殺しているじゃないか、悪魔!」
「は……?」
青年の残した怨嗟を理解するまでに、俺はややばかりの時間を要した。
まるで拍子抜けして、次に沸々と、そんな白々しいセリフを思い起こしていって、みるみると憤怒していく。
「黙れ……だま……」
俺の中にあった人間として当然の感覚が、早くも薄れているのだと、そう言われている気になった。
――人を殺しても何も思わない。この手に肉を潰しても何も感じない……。
まるでお前達が、赤い瞳の人間をロチアートだなどと呼び、なんの感慨も無く殺しているのと同じ様だ。
それは狂った世界に身を置いた俺の、人としての倫理が崩壊を始めている事を意味しているのだろうか。
そう思ったからこそ俺は今、烈火の如く灼熱に、この身を火照らせているのでは無いのか。
「違う、俺は違う……悪魔はお前達の方だ」
自分に言い聞かせる様に繰り返し、優しく口元を微笑ませて気持ちを落ち着かせる。
視線を下げると、右の掌に夥しい量の血と肉が付着していた。
「人を守りたいんだ、人を……」
人を殺めてしまった罪悪感を確かに呼び起こすと、体に満ちた後悔に緩く笑った。
「大丈夫だ……うん、大丈夫……」
それから俺は、怯えて座り込んだままの梨理に慈愛の視線を注ぎ、手元に握り込んだままの血の滴るゴミを捨てた。