第二話 ロチアートの少女(3/7)
だがそこで、向こうの路地の方から男の野太い声が上がり始めたのに気付く。
「おい大変だ。今日献上予定であった生贄が、“印章持ち”が逃げ出したらしいぞ」
印章持ち……という怪奇な名称が、今胸の中に収まっている梨理の事を言っているのだと言う事を俺は直感していた。
「生贄だと……? 逃げよう梨理。この世界の奴らはイカれている。見つかったら喰われてしまう」
自分が身に纏っていたローブを脱いで梨理に着せると、フードを深くまで被らせて表情を見えないようにする。
「来るんだ」
彼女の手を引いて、元来た商店街の方に抜け出した。
人混みをかき分けて先へと走る。しかし何やらと印章持ちいうのがこいつらにとっては大層大切なものなのか、梨理が逃げ出したという話題は、俺達よりもずっと早く町に知れ渡っていった。
商店街を抜けた先の、噴水のある広場に差し掛かると、梨理はローブの裾を踏んで往来の真ん中で転倒した。行き交う人々は立ち止まり、顔を上げた少女を見つめ、そして声を上げ始める。
「おいおい、逃げ出した印章持ちってまさか」
「捕らえてマニエル様に献上しないと大変な事になるわ」
「逃げ出すなんて珍しい個体もいるものねぇ」
見下ろし始めた好奇の視線から覆い隠す様に、俺は梨理にフードを被せる。そして走り出そうとすると、正面に何人かの男が立ちはだかっていた。
「兄ちゃん。まさかとは思うけど、“天使の子”に食べて頂く贄を自分が喰おうだなんて、そんな大層な事考えちゃいねぇよな?」
「天使の子? 贄だと……? 梨理をそいつに喰わせると、お前達はそう言っているのか!?」
「勘違いしてるのか知らねぇけど辞めときな。俺達人間が印章持ちを喰ったって強大な力を得られる訳じゃない。そいつは天使の子が口にして始めて意味があるもので、俺達が平穏に暮らしていく為にも必要な事なんだ、アンタもわかってるんだろ?」
「喰われる事が必要って、何を言ってんだお前ら」
「なんだいアンタだって知らない筈ないだろう。人の楽園を築く為に、都には天使の子が魔物避けの結界を張ってるんだ。結界が無ければ都に魔物が溢れ返って人を食い荒らすよ? その力を維持して頂く為にも、農園で数年に一度産まれ落ちる印章を浮かび上がらせたロチアートは、九分割して各都の天使の子に捧げられる事になってるだろう」
唇を噛んで絶句するしか無かった。こいつらはまた当たり前の顔をして、梨理を喰うために殺し、あまつさえその体を九つに切り分けて、崇拝する天使の子とやらに配分すると、そう言っているのだ。
ふざけるなよ……このクズ共。
「……もういいおい前ら、聞いてるだけで胸糞が悪い、退けよ!」
「お兄さん、それは反逆罪になっちまうよ、犯罪だってこの都で何年も起きてないんだ、そんな大罪聞いただけで眩暈がするよ。さぁ、大人しくそのロチアートを渡して」
「ロチアートなんて呼ぶんじゃねぇ! こいつは俺の幼馴染の梨理だ! お前らと同じ人間だ!」
一際大きく口を突いて出た言葉に、辺りがざわめき始めたのを感じた。騒ぎを聞き付けて更にと多くの民が集まって来る。
「ロチアートを人間だって?」
「あの人、おかしいんじゃ」
「おいあんた、いいから大人しくするんだ」
こいつらの、まるで俺の正気を疑っているかの様な口ぶりに反吐が出る。
何時しか膨れ上がっていた民衆が、俺を取り抑えようと背後から飛び掛かってきた。
「離せよ、近付くな!」
しばらく抵抗を続けたが、遂には腕を取られ、地べたに押さえ付けられてしまった。
「離せよお前ら、どけよこの狂人共! 梨理に近寄るな!」
「早く印章持ちを連れて行け」
何人かの男が梨理に近寄っていく。彼女は腕や頭を掴まれたが「いや!」と叫んで振り払っていた。
「こんなに抵抗するロチアートは初めてみたよ」
「あぁ逃げ出した事にしたってそうだ。ロチアートは人間に従順なもんだ」
梨理は男達に取り囲まれて腕や髪を乱暴にひっ掴まれると、苦悶の表情で声を上げた。
「印章も一応確認しとけ」
一人の男がそう言うと、若者達が梨理の纏ったぼろ切れを引き裂こうと引っ張り始める。
俺は何も出来ずに彼らの凶行を強く非難し続けた。
「痛い! 痛い!」
「よく鳴くロチアートだぁ」
「梨理から離れろッ! 殺すぞ、本当にぶっ殺してやるぞ!」
「兄ちゃんは黙っててくれよ」
「ぐ……っ!」
背中を抑えつける力が一層強くなり、固い地面に押し付けられる。そうしている間にも、梨理は小さな体で必死に男達に抵抗を続けていた。
「痛いよ……痛い痛いッ! やめてよ!」
「人間みたいに鳴くんじゃねぇ気味が悪い!」
一人の青年が梨理の頬を殴り付けた。それを見た俺の脳裏に、痛めつけられたあの日の彼女の姿が、あの絶望の最後が重なって絶叫する。
「オマエ……お前らァやめろぉ!!」
梨理は掴まれていた毛髪からブチブチと音を立ててそこに倒れ込んでいった。髪を掴んでいた男は、掌に残った赤い髪を足元に捨てて笑っている。
「痛い……もう、やめてよ、痛いのは……嫌だよ、もう……」
梨理は頬に涙を伝わせながら、腫れ上がった顔に手をあてて怯えている。引き裂けた右の肩の部分にぼんやりと光る複雑な印が浮かび上がっていて、それがこいつらの言っている印章であるのだと思った。
俺は男達に組伏せられたままに、怒りに震える声を抑えて民衆に訴えた。
「もうやめろッ涙を流して痛がっている! お前ら人間と同じじゃないか、瞳の赤いただの人間じゃないかッ!」
言いながら、自分の右腕が煮えたぎる様に熱くなって来るのを感じた。
「何が同じだ! こいつは小汚ないロチアートだろうが」
下劣な民の嘲笑が、俺を取り囲んで声を立てていた。
俺の必死の訴えは、大人から子供までの嘲笑の対象となり、辺りを取り囲む笑い声は何処までも伝播していく。
この価値観の違いに声を失いながら、俺は息を呑むしかなかった。
――そうして静かに決心する。
「もう……わかった……」
「あぁ、兄ちゃん、ようやくわかったか」
「あぁわかった……ッ」
不可解そうに眉根を寄せた男に向かって、俺は叫び付ける――。
「お前らは悪魔だッ!! 人間じゃねぇのは貴様達の方だ!!」
また蛇の痣が、満ち溢れた怒りに反応して右腕を闇に包み始める。